暑くなってまいりましたが、議論の方も熱くいきたいと思います。(暑苦しくない程度に)
それではどうぞ。
元の発言 [ Title 古事記偽書説 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月2日(月)02時08分15秒 ]
よく知りませんが、大和氏の説なら見たことあります。
最近も何か書いておられたようですが。
古い原古事記があるとした上で、平安期にまとまったという説のようでしたが。
少なくとも序文は偽ものとか。
最近になって、魏志倭人伝や古事記に興味を持ち出した者です。
ド素人の常として、疑問に思える事がいっぱいあります。
自分なりの仮説も考えてみました。
自分の仮説などは、多分トンデモなんだろうな、とは思いますが、
ボチボチ発言していこうと思っていますので、よろしくお願いします。
元の発言 [ ご挨拶 ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 7月11日(水)23時05分13秒 ]
時々、ネット上で、
伊都国は倭人伝では「世有王」とされている。
倭人伝は中国の正史であり、その中で「王」と書かれているのは
柵封体制下の王位の事である。
後漢書にある、帝永初元年の倭國王 帥升 こそが倭人伝の伊都国王である。
という主張を読む事があります。
後漢書の「倭國王帥升」が伊都国王であるかどうかはともかく、
倭人伝の中で「王」と書かれているのは柵封体制下の王位の事である。
というのが本当かどうかをみてみました。
作業仮説
魏志倭人伝の「王」は中華柵封体制下の「王位」の意である。
反証
倭人伝中には、
伊都国王(・・・到伊都國・・・世有王・・・)
狗奴国王(其南有狗奴國男子爲王/・・・狗奴國男王卑彌弓呼素不和)
卑彌呼の前の王(其國本亦以男子爲王・・・)
朝見柵封以前の卑彌呼(乃共立一女子爲王・・・/自爲王以來少有見者・・・)
卑彌呼の後の王(更立男王國中不服・・・)
が王として記述されている。
伊都国王が柵封体制下の王であったかどうかは置いておいても、
その他の王は柵封体制下の王であるとは思えません。
結論
魏志倭人伝の「王」は中華柵封体制下の「王位」の意ではない。
これ、本当?
元の発言 [ ご挨拶 ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 7月11日(水)23時05分13秒 ]
魏志倭人伝には「女王」に関連した語として、
「倭女王」「女王國」「女王」という三種類の単語が登場します。
これの意味する事を考えてみました。
作業仮説
1.「倭女王」は、「卑彌呼」を現す。
2.「女王國」は、一地域国家を現す。
3.「女王」は、女王配下の連合国家を現す。
検証1.
倭人伝中に「倭女王」という単語が出てくるのは次の三カ所
1) 景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡
2) 其年十二月詔書報倭女王曰
3) 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
どれも明らかに「卑彌呼」の事を指して「倭女王」と書いている。
検証2.
倭人伝中に「女王國」という単語が出てくるのは次の五カ所
1) 有千餘戸世有王皆統屬女王國
2) 自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
3) 自郡至女王國萬二千餘里
4) 自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之
5) 女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
1), 2), 4) は明らかに一地域国家を現している。
4), 5) は一地域国家とも連合国家とも、どちらともとれる。
検証3.
倭人伝中に「女王」という単語が出てくるのは次の五カ所
1) 南至邪馬壹國女王之所都
2) 次有奴國此女王境界所盡
3) 其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
4) 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
5) 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
1) は卑彌呼の意ととるのがよさそうだが・・・
2) は明らかに女王配下の連合国家を現している。
3) は卑彌呼とも一地域国家とも連合国家ともとれる。
4) は卑彌呼の意とるのがよさそうだが・・・
5) は一地域国家とも連合国家とも、どちらともとれる。
結論
1.魏志倭人伝の「倭女王」は、「卑彌呼」を現す。
2.「女王國」は一地域国家を現す、という作業仮説は棄却されない。
→倭人伝の「女王國」は一地域国家を現す、という仮説は成り立ち得る。
3.「女王」は卑彌呼を現す場合と地域を現す場合がある。
「女王」が地域を現す場合、明らかに女王配下の連合国家を現す例が一つある。
作業仮説を修正して、
・倭人伝の「女王」は、地域を現す場合は、女王配下の連合国家を現す。
とすれば、この作業仮説は棄却されない。→仮説として成り立ち得る。
これ、本当?
元の発言 [ Re: 木材の劣化 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月11日(水)18時30分47秒 ]
>>
>>
土砂と木材の一括投棄となると、新しい墓を作る為に近くにあった古い墓を壊し、作ってかなり時間が経って周濠も埋まっていた勝山古墳に古い墓の廃材と土砂を一括で捨てた。
というのが一番すっきりした解釈になるような気がします。
もともと土の中にあった板材ですから紫外線劣化はないですし、発表された事と良く符合するような気がします。
>>
>>
その通りですね。
元の発言 [ Re: 木材の劣化 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月12日(木)05時21分00秒 ]
>> >> 土砂一括で、廃棄じゃないかと思いますけど、だったら
>> >> 浮かない。
>> 土砂と木材の一括投棄となると、新しい墓を作る為に近くにあった古い墓を壊し、作ってかなり時間が経って周濠も埋まっていた勝山古墳に古い墓の廃材と土砂を一括で捨てた。
>> というのが一番すっきりした解釈になるような気がします。
>> もともと土の中にあった板材ですから紫外線劣化はないですし、発表された事と良く符合するような気がします。
>> >> ま、わかりません。わからないということをしっかり
>> >> 考慮して、年代を決めるしかないでしょう。
>> その通りですね。
元の発言 [ Re: 木材の劣化 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月12日(木)05時21分00秒 ]
>> >> 土砂一括で、廃棄じゃないかと思いますけど、だったら
>> >> 浮かない。
>> 土砂と木材の一括投棄となると、新しい墓を作る為に近くにあった古い墓を壊し、作ってかなり時間が経って周濠も埋まっていた勝山古墳に古い墓の廃材と土砂を一括で捨てた。
>> というのが一番すっきりした解釈になるような気がします。
>> もともと土の中にあった板材ですから紫外線劣化はないですし、発表された事と良く符合するような気がします。
>> >> ま、わかりません。わからないということをしっかり
>> >> 考慮して、年代を決めるしかないでしょう。
>> その通りですね。
皆さんの、議論大変うなずけます。
で、問題は、その木片が、何に使われていたかに尽きてるような気がします。
喪狩り屋の材木片なのか、そうではなく、葬器用の什器または、家具調度用品のかけらなのか?
前きなら伐採後すぐに使われ廃棄されたと考えて良いと思う。
だけど、家具調度品的な物で葬儀に饗され廃棄された物。
または、家具かなんかに使いその切れ端を再利用したこれも有りうる。
昔の人は、材料を有効利用すること徹底していましたから。
登呂遺跡では、洪水の後廃棄水田区画の木ぐいまで抜いて再利用しているらしい。
だとすると、木材などの利よう術に長けていた人々です。
まして、古代豪族、使用するものの贅沢さを考えれば、
両極端になり兼ねない。
どうなるやら?
結局、この資料としての結論は、不確定が多すぎて古墳の年代を測定する場合木が切られた年から以後に作られたそれ以上古くなることは、まずない!と言うことでしょうか。
元の発言 [ Re: 承前 「言語の興亡」読みました. ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月11日(水)13時29分18秒 ]
>>
#ぜんぜん違いません。
>>
>>
>>
#それはもちろんそのとおりですが、多地域進化説だって「遺伝子の継続的な交流があったから各地に分散したホモ・エレクトスが並行してホモ・サピエンスに進化し得た」と主張しているのですから、おにりんさんの「知恵遺伝子拡散説」と本質的な違いはありませんよ。タイムスケールが違うだけです。
##100万年の多地域進化説は認めないけど、15万年の多地域進化説を自ら主張するという矛盾はどう説明するんですか。
15万年の多地域進化は現実に起ったが、100万年の多地域進化は可能性はあったが現実にはなかった、という説明はあり得ますけど。
>>
#あやしげな集団遺伝学とやらは、「智恵遺伝子が後」が成り立つようにパラメタを設定しているんでしょうね。例によって、結論が先にある。
私は、新しい形質は隔離された小さな集団で確立される、という断続平衡説を採ります。各地に分散したイブの子孫に言語能力が拡散する可能性は、ない。
元の発言 [ Re: 葬儀等に使うのは ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月12日(木)14時18分07秒 ]
>> 結局、この資料としての結論は、不確定が多すぎて古墳の年代を測定する場合木が切られた年から以後に作られたそれ以上古くなることは、まずない!と言うことでしょうか。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
でも、物によっては、とんでもないことですよね。
たとえば、ですけど古法隆寺の健材で焼け残ったもので作られた仏像や調度仏具なんて有りそうじゃないですか。
こんなものでてきたらとんでもない創建の寺なんて結果が出たり。
元の発言 [ 倭人伝の王って柵封体制の王位? ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 7月11日(水)23時39分42秒 ]
>> 魏志倭人伝の「王」は中華柵封体制下の「王位」の意ではない。
>> これ、本当?
#一民族に一人しか王を授爵しないのですから複数の“王”がある倭人伝の「王=中華柵封体制下の“王位”」は成り立ちません。
#伊都国の「世有王」の王が中華柵封体制下の「王位」であるとする根拠は、井原鑓溝、三雲南小路、平原などの副葬品です。
#ただ単に厚葬墓と言うだけでなく、中華皇帝が下賜する副葬品である必要があります。
元の発言 [ Re: 倭人伝の王って柵封体制の王位? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月13日(金)01時17分36秒 ]
オヤジッチさん、おにりんさん 今晩は。
> #伊都国の「世有王」の王が中華柵封体制下の「王位」であるとする根拠は、井原鑓溝、三雲南小路、平原などの副葬品です。
> #ただ単に厚葬墓と言うだけでなく、中華皇帝が下賜する副葬品である必要があります。
なるほど、考古学的見地からみて、伊都国王が中華柵封体制下の「王位」である、という事ですね。了解しました。
> っていう意味では、伊都国王も、狗奴国王も、なんらかの形で王と認められていた存在ではあるわけです。
伊都国王については、オヤジッチさんの説明で納得しました。
卑彌呼の前の王(其國本亦以男子爲王・・・)、朝見柵封以前の卑彌呼(乃共立一女子爲王・・・/自爲王以來少有見者・・・)、卑彌呼の後の王(更立男王國中不服・・・)については、リップサービスかも知れませんね。
狗奴国王についてはどうなんでしょうか?
どういう形で「王」として認められていたんでしょうか?
狗奴国の首長が王として認められる可能性を考えてみました。
1) 玄界灘諸国の盟主として中国と交渉した事がある。
2) 北九州連合ブロックの盟主として中国と交渉した事がある。
3) 瀬戸内貿易圏ブロックの盟主として中国と交渉した事がある。
4) 広域連国の盟主として中国と交渉した事がある。
5) 上記ブロックとは別のブロックの盟主として中国と交渉した事がある。
時代背景から考えて、4) は無視していいように思います。
私見ですが、魏志倭人伝には、玄界灘諸国時代の倭/北九州連合時代の倭/西日本広域連合時代の倭が混ざって記述されているように感じます。
魚豢の魏略は、逸文から判断するに、玄界灘諸国時代の倭〜北九州連合時代の倭を記述しているように感じます。
魚豢の魏略逸文にも、狗奴国の首長が王として記述されています。
ならば、狗奴国は瀬戸内貿易圏ブロックの国ではなく、玄界灘諸国ブロック/北九州連合ブロック/その他のブロック のいづれかのブロックの盟主であったと推測できます。
玄界灘諸国時代〜北九州連合時代は、九州島以外の国々には、中国に「王」として認めさせるほどの外交力はつけていないように思います。
とすると、狗奴国は九州島内の国である事になります。
う〜ん、これ 本当?
元の発言 [ 狗奴国王って? ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 7月14日(土)00時37分10秒 ]
はじめまして、EKです。
>> 狗奴国王についてはどうなんでしょうか?
>> どういう形で「王」として認められていたんでしょうか?
#中国が認めた王(卑弥呼)と対等の存在というだけのことではないでしょうか。別に中華柵封体制下の王である必要はないのでは?
私には「世有王」の伊都国王も、『昔朝貢してきた倭王の末裔』という感じがしません。
元の発言 [ Re: 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月12日(木)13時52分56秒 ]
名前が出たんで、§^。^§
>>
>>
#免田式土器の範囲が南部九州(=狗奴国)とすることができると思いますが、
#おにりんさんが下のように書かれている「筑紫と豊」に類似するのが「肥と日向」ですかネ。
#その場合、「肥=熊襲=狗奴、日向=投馬」とする説もあり。§^。^§
>>
>>
#遠賀川流域と福岡平野では違ってますネ。
#甕棺稀少地域だし、瀬戸内の影響も多い、でも九州式の装飾古墳も多い。
#筑紫と豊の境目だった可能性が高いと思います。
#北九州市は豊、そもそも豊前でしょう。
#そういう意味で「北九州」と「北部九州」、「筑紫」と「福岡平野」を使い分ける必要があると思います。
#ちゃんと「北部九州」を使っていらっしゃるおにりんさんには、蛇足ですけどネ。§^。^§
元の発言 [ Re: 女王国は ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月11日(水)19時01分19秒 ]
>> また、国名だけの国を挙げた後に「此女王境界所尽」とあり、女王の境は倭国の境と同じ意味と思えますが、女王国の境とは書いていません。これは女王国と倭国を陳寿が同一視せずに使い分けていたからと思います。
>>
邪馬台国が女王国とは直言していませんよね。(倭の)女王の都する所ですから、邪馬台国と女王国が同じという事を証明できないうちは、この認識は危ない。
女王国まで里数を記すという陳寿の言とも、邪馬台国の里数はないので一致しません。邪馬台国が女王国なら里数に書き換える事もできたのに陳寿はそうしていないのも邪馬台国を女王国とみていなかったからでしょう。
投馬国と邪馬台国の箇所の書き方が事なる点も、女王国までの旅程記事の一連のものと考える場合に問題です。
一大率は女王国以北を検察していたのですが、女王国が邪馬台国なら、北部九州から離れた投馬や邪馬台国も検察していたのでしょうか?
女王国と邪馬台国は違うものという認識の元で魏志倭人伝は書かれていると見た方がよさそうです。
>>
>>
倭国乱れ相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となすとありますから、共立に加わらなかった狗奴国は倭国に入らないのでは。
>>
>>
>> 陳寿は女王国がどの国か分かって(それが正しいかはともかく)著したと考えます。
>>
>>
>>
>>
女王国という名称は倭人の主張ではなく、中国側の認識だと思うのですが、複数の国に対して使うような事はないと思います。
元の発言 [ Re: Title 古事記偽書説 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月2日(月)12時01分44秒 ]
『古事記』偽書説を論じる前に、いくつか『古事記』について確認させていただきます。
(1)『古事記』の伝承について
『古事記』は、日本語で書かれた最古の書籍です。
残念ながら原本は残っていません。
現存する写本は、32本。
うち30本は、上巻のみです。
『古事記』全体、上・中・下巻を伝えるのは、『真福寺本古事記』と『兼永筆本古事記』の2本のみです。
@『真福寺本古事記』
特徴として、すべて「漢字和文」で書かれています。
基本的に句読点はなく、片仮名によるフリガナもありません。
『古事記』の文章は、日本に仮名が生まれる前の文章ですから、当然といえば、当然です。
『国宝真福寺古事記』は、賢瑜という若い僧が応安4〜5年(1371-72)に写本したものと言われています。
この『国宝真福寺古事記』は、現在知られている32の写本のうち最も古いもので、『古事記』原本の姿を現代に伝えてくれます。
古賀精一氏の研究によれば、「真福寺古事記は、当寺二世の真瑜が若僧賢瑜に書写させたもので、それを自ら同一の書本について再校正し、各帖の表紙に『古事記』の題字を記したもの」と推定されています。
※『古事記大成1』研究史編(平凡社1956/1994)P-243
ここで注目すべきは、『真福寺本古事記』は書写時に別人が校正しているという事実です。
書写時における賢瑜の誤りは、師匠の真瑜によって直されていることです。
したがって『真福寺本古事記』は、『古事記』原本、あるいは賢瑜が書き写した元写本の内容を、正しく伝えていると考えられます。
A『兼永筆本古事記』
卜部兼永による写本(1522)と言われています。
特徴として、片仮名によるフリガナが付けられています。
句読点は、朱墨で書き込まれ、注意書きは「施注」として小文字で書かれています。
厳密に言えば、『古事記』ではなく、『古事記』の翻訳本、あるいは解説本と考えるべきでしょう。
西田長男氏によれば、「本書は、卜部兼文・兼方が鋭意校勘にしたがった、鎌倉時代にまでもさかのぼらしめられる、その古伝本の直系に属するもののうち最善本であろう」といいます。
※西田長男解題『兼永筆本古事記』(勉誠社1981)解説P-28
のちに『古訓古事記』と呼ばれる『古事記』刊行本は、この『兼永筆本古事記』を底本にしています。
さて現在、一般的に『古事記』と言われる書籍は、すべて本居宣長の『訂正古訓古事記』が種本になっています。
『訂正古訓古事記』は、『古事記伝』の研究成果をもとに、享保年間(1802)に出版された和本です。
宣長が、『真福寺本古事記』を見ていたことは確実です。
しかし「序」における「尊」の解釈にみるごとく、宣長は『真福寺本古事記』表記の「正しさ」を無視する傾向があります。
※『本居宣長全集第九巻』(筑摩書房1968)P-78などに明らかです。
『真福寺本古事記』表記の「正しさ」を知っていて、恣意的に『古訓古事記』の”誤った”表記に従います。
そして自己の主張に従い、新たに『古事記』を書き替える。
それが、宣長の『訂正古訓古事記』における基本方針なのです。
改めて考えると、『真福寺本古事記』の文体は奇妙です。
『兼永筆本古事記』(1522)は、古代日本・鎌倉期における『古事記』写本の姿を伝えると言われます。
したがって鎌倉期には、すでに句読点、フリガナ付きの『古事記』があったことになります。
『真福寺本古事記』(1371-72)は、室町期の写本です。
しかし、すべて漢字で書かれ、句読点もフリガナも付いていません。
つまり『真福寺本古事記』は、『古事記』原本の復元を意識した写本ということができます。
宣長は、その意図を敢えて無視しています。
現時点で、私は次のように推定しています。
@『古事記』原本(712)は、古代日本・奈良期に成立、すべて古漢字による和文で書かれた。
そして角筆による句読点が明記されていた。
また行間には、角筆による注意書きも記されていた。
※『古事記』序には、『古事記』における”特別な”文章表記法が記されています。
句読点は、わざわざ注記することもない、当時における”普通の”方法で記されていたと考えられます。
逆に言えば、文章の読み易さ、正確さにこだわった『古事記』作者が、句読点機能を持たない文章を使ったとは考えられません。
A鎌倉期前後、『古事記』に訓読表記と句読点がつけられた解説書ができた。
角筆は使われず、句読点は朱墨で書き込まれ、注意書きは「施注」として小文字で書かれた。
これが、いわゆる『古訓古事記』の原本と考えられます。
その内容は、『卜部兼永筆古事記』(1522)が、いまに伝えています。
B鎌倉〜室町期にかけて、『古事記』写本は書紀神話と融合した贋作が主流となる。
それを憂いて、尾張真福寺の僧・真瑜は、弟子・賢瑜に命じて、本来の『古事記』を復元しようとした。
これが現在、『古事記』写本の最善本と言われる『真福寺本古事記』(1371-72)です。
残念なことに、角筆によって記された『古事記』本来の句読点は復元できなかったのでしょう。
おそらく既に、元写本にも、句読点は失われていたのではないかと思われます。
C契沖(1640-1701)が『古事記』を研究。
D荷田春満(1669-1736)が、注を書き込んだ『古事記』を残し、その研究を賀茂真淵(1697-1769)が継承した。
E本居宣長(1730-1801)は、真淵の勧めで『古事記』を研究、『訂正古訓古事記』(1803)を著わした。
その内容は、宣長の国学思想によって著しく歪められてしまった。
『訂正古訓古事記』以来の宣長系『古事記』は、歴史的な『改竄古事記』と考えられる。
F佐々木信綱(1916-)はじめ、多くの『古事記』研究者が、いま現在も宣長系『古事記』を継承している。
したがって『古事記』は、約1300年の間、正しく読まれたことがありません。
その内容は、厳密にいえば、ほとんど分からないのです。
『古事記』は、伝承の課程で、善意的に、また曲意的に書換えられています。
原本と同じ内容の写本は、残念ながらないようです。
『真福寺本古事記』の書換えは、基本的に善意によるものと考えられます。
この写本に忠実な翻訳本は、ひとつもありません。
『兼永筆本古事記』系、特に宣長の『訂正古訓古事記』は、曲意による原文書換えと曲解が露わになっています。
その偽物、『改竄古事記』の流れが、現在の主流となっています。
われわれは、知らず知らず、偽物の『古事記』を読まされ続けてきたのです。
『古事記』は、偽書か?
その問題以前に、何をもって『古事記』とするか、考える必要があります。
元の発言 [ Re: 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月12日(木)13時52分56秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
学生の頃、古い街道を自転車で名古屋から、亀山、伊賀上野を通って橿原へと入ったことがありますが。
距離は確かにそれほどでもないかもしれませんが、結構
道は大変だった記憶がありますね。
伊勢の人間が、大和へ向かうというのは、考えられる(
大和が発展した都市だったとして)けど、大和が大阪湾が
近いにも関わらず、伊勢湾に出る理由はないと思うんですよ。
ただ、意外だったのは信楽から琵琶湖は道は細いけど
割と行きやすいということでした。
ですから、大和、紫香楽、(琵琶湖)、伊勢という関連はあったかもしれませんが。
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 7月3日(火)00時10分41秒 ]
すっかりレスが遅くなりました。申し訳ありません。
さて、郭公さんの解釈に従って、前後を読み直して見ましょう。
『王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯。』
「(倭)王が使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣らしめ、及び(帯方)郡が倭国に使いすると、(使者一行)全員が港に臨んで(魏帝が)伝送させている文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣らしめるのに差錯することはない。」
といった所になるかと思いますが、これはおかしくはないでしょうか?
捜露が生じるケースとして、(1)倭王が魏の京都・帯方郡・韓の諸国へ遣使する場合と、(2)帯方郡が倭国へ使いする場合の二つが挙げられているのに、捜露の対象が魏帝の伝送せしめた文書・賜遺の物だけでは、(1)のケースがまったく浮いてしまいます。それとも、倭王が魏帝の文書や賜遺の物を魏の京都や帯方郡や韓の諸国に送り届けるようなことがあったのでしょうか?まさに郭公さんの引用中で那珂通世も申しておりますとおり、
>>「臨津捜露傳送文書賜遺之物ハ王遣使云云ト郡使倭王トノ両方に係リテ聞ユレド、詣女王不得差錯ハ郡使倭国ノミニ係リテ、王遣使云云ニハ係ラズ、コノ処勢稍穏カナラズ」(返り点省略)
なのです。何でそのようなことになってしまうのか?文章がおかしいのではなく読み方がおかしいのだ、というのが私の考えです。「皆臨津搜露」と「傳送文書・賜遺之物」間を切って読めば、そのような問題はありません。したがって、「傳送文書・賜遺之物詣女王」はやはり、「文書・賜遺之物を傳送し女王に詣らしめる」と読むべきです。
この文書が何を言っているかをさらに考えるために、景初三年十二月付詔文における魏帝から親魏倭王への贈り物に見てみます。
A. 今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。
B.
B-1. 今以絳地交龍錦五匹・絳地suu[扁糸旁芻]粟kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]十張・sen[冠艸脚倩]絳五十匹・紺青五十匹、答汝所獻貢直。
B-2. 又特賜汝紺地句文錦三匹・細班華kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・眞珠・鉛丹各五十斤。
皆裝封付難升米・牛利、還到録受。
帯方郡太守に託して卑弥呼に与えるAの金印紫綬と、卑弥呼の使者である難升米・牛利に託して卑弥呼に送り届けるBの品々に大きく分かれています。さらに、Bは、卑弥呼の献上品の対価にあたるB1と、それとは別に今回特別に下賜するB2に別れています。B2は多分、親魏倭王としての仕度料みたいなものなのでしょう。AとBの区別は次の文書にも現れています。
正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等、
a)奉詔書・印綬詣倭國、拜假倭王、
b)并齎詔賜金・帛・錦kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]・刀・鏡・采物
aは金印紫綬とそれに係わる冊封の詔書、bはそれ以外の品々で、詔書中のAとBの区別に対応しています。Bの品々は難升米たちが持ち帰るはずなのに、bでは梯儁たちが齎しているのは何故かはよくわかりませんが、多分、難升米たちの船の積載能力を超えていたか、安全性を考えてか、梯儁たちの中国船に預けたのでしょう。
さて、Aは梯儁たちが自ら携えて倭王のもとへ送り届けたはずです。Bも多分そうでしょうが、或いは、伊都国あたりに到着した時点で難升米たちに返却し、難升米たちは倭国内の伝送ルートで邪馬台国へと送り届けたのかもしれません。
さらに、次に正始四年条を見てみましょう。
『其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人、上獻生口・倭錦・絳青[糸兼]・緜衣・丹木・hu[扁犬旁付]・短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。』
ここには卑弥呼への下賜品については何も書いてありませんが、景初三年十二月付詔書中のB1、つまり献上品の対価にあたる下賜品はあったはずです。また、忠義を嘉し下賜品を列挙した文書も下されたことでしょう。これらは、景初三年十二月付詔書の記述に照らしてみても、掖邪狗等に託して倭王に送り届ければ済む性質のものです。掖邪狗等は帰還すると、伊都国あたりに暫く滞在し、ひと足先に文書・賜遺の物を伝送ルートに載せて卑弥呼の下へ送り届ける。そのようなことが行われていたのではないでしょうか。あるいは掖邪狗等も同行していたのかもしれませんが、実際の輸送は倭国内に設けられた伝送ルートに載せて行われたとも考えられる。
以上を踏まえて、もう一度問題の文章を見て見ます。
『王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯。』
1.「王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露」と「傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯。」の間で切らなければ通意しない。
2.したがって、「王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國及郡使倭國」と、「傳送文書・賜遺之物詣女王」は、併行しておこっている可能性もあるが、内容的には区別されるべきであり、前者には「皆臨津搜露」が、後者には「不得差錯」が対応する。
3.結論的には、「(倭)王が使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国へ詣らしめたり(帯方)郡が倭国に使いすると、いつも津に臨んで捜露する。文書や賜遺の物を伝送して女王に詣らしめては、入り乱れることがない。」という風に解される。
やはり、このようなことになろうかと思います。
>> 僕の書いた、
>> >>・皆、津に臨んで、伝送の文書賜遺の物を捜露し、女王に詣り差錯するを得ず。
>> これが一般的ではないでしょうか?
>> 那珂通世、内藤虎次郎、 喜田貞吉がこう読み、菅政友、橋本増吉が、若干読み下しは違いますが、意味としては同じように受け取れる。
最近では、むしろ「文書・賜遺の物を伝送し」と解するのが一般的ではないかと思います。山尾幸久『新版 魏志倭人伝』講談社現代新書、井上秀雄他注『東アジア民族史1 正史東夷伝』平凡社、森浩一編『日本の古代1 倭人の登場』中央公論、藤堂明保監修『中国の古典17 倭国伝』学習研究社、謝銘仁『邪馬台国 中国人はこう読む』立風書房、佐伯有清『魏志倭人伝を読む 上 邪馬台国への道』吉川弘文館など、皆そうです。
>> >>> (二)
>> >>> 年表によると、魏が成ったのは西暦220年である。倭国から魏への初めての使者は景初三年(239年、あるいは景初二年)である。じつに、19年後の朝貢である。これは、遼東、帯方郡に公孫氏が半ば独立状態で跋扈していたことによる。その公孫氏の滅亡を期に魏へ使者を派遣したのである。
>> >>> 「魏志倭人伝」に書かれている魏との交渉は、この景初三年(239年)から正始八年(247年)に張政が来倭し帰国するところまで書かれている。ただし、張政がいつ帰国したのかは不明であるが、魏使は正始元年(240年)と正始八年(247年)の二度来倭していることになるが、冒頭の記事は正始元年の梯儁一行の来倭と対応する。
>> > 上記のとおりですので、そのように限定的に解釈するのは問題があろうと思います。
>> 下賜されるのは倭の女王卑弥呼ですから、下賜するのは魏帝と言うことになると思うのですけれど。そうすると、魏志倭人伝の正始元年の記事がもっともふさわしい。
>> だから、「皆津臨…」の記事は梯儁一行の誰かが書いたものではないだろうか、と。
では、「王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國」は、一体何なのでしょう?
誰が書いたかはともかく、『王遣使詣京都...不得差錯』は、制度の叙述であって、ある時におこった事件の叙述ではないことは明かだと思います。
話が少しそれるかもしれません。
「皆臨津搜露」や「傳送」の主語が「於國中有如刺史」とある存在であることは、構文上からも疑いのないところだと思います。それは(一)大率だと普通は考えられているのですが、以前、それに疑問を呈したことがあります。大率は女王国以北に特に置かれたものです。これに対し、「於國中」は「倭国中に」の意味でしょうから、大率に関する叙述から内容が切り替わっていると考えられます。そもそも刺史は地方官であり、それに類するものが国中にいたというのですから、これは単数的な存在だとは考えにくく、複数の地方官が倭国内の各地に配置されていたことを意味していると思われます。イリヒコさんは、以前からそのように考えておられ、最近では佐伯有清氏が同様の考えを上掲書で明らかにしています。これについては、ALEXさんから有如という言い回しは、三国期には以前に出てきているものを形容する用例ばかりになり、「有如刺史」を大率と切り離し、それとは別の刺史に似た存在があったと解するのは無理だとの指摘を受け、大倭及び大率の両方を受けたものだとの修正案を考えてみたりしましたが、いずれにせよ、倭国内各地に地方官が配置されていたことを伝えたものだとの考えは変わっておりません。かれらは、對馬国・邪馬臺国間のルート上の要所要所にも配置されていたでしょう。その彼等が「皆臨津搜露」や「傳送」の主体であるとすれば、大率のみが主体であると考える場合とは、この文章がもたらすイメージも随分変わってきます。その辺を踏まえていささか意訳をしてみましょう。
『於國中有如刺史。王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯。』
「倭国内の各地に、中国の刺史のような地方官が配置されている。倭王が使者を派遣して魏の京都・帶方郡・韓の諸国に行かせたり帯方郡が倭国に使いしたりすると、いつも各地の地方官たちは任地の港に赴き隅々まで捜査して安全を確保している。魏からの文書や下賜された品々を地方官たちの間でリレー式に伝え送って女王の下へ送り届けるにあたっても、入り乱れるようなことはない。」
出だし部分の案の2「(大倭や大率は)倭国中において、中国の刺史のようなところがある。」
このように考えると、この文章は、従来考えられていたよりも倭国の内部に大きく踏み込んだ叙述であり、對馬から九州玄海灘沿岸部までのルートもさることながら、そこから投馬国を経て邪馬台国に到る、計三十日に及ぶ水行ルートの様子を伝えたものなのだと考えられます。そして、ここでは陸行ルート部分が問題にされていない、ということは示唆的であるように思われるのです。
元の発言 [ 勝山の資料bPについて ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 7月4日(水)23時16分20秒 ]
ALEXさん、貴重な情報をありがとうございます。
>> 勝山の年輪年代測定資料bPに関する毎日新聞の2001年5月30日「紫外線による劣化が切断面にない」という報道について、この「切断面」が何を意味するのか橿考研に問い合わせ、ご回答を頂きましたので報告します。
>> 橿考研の見解は「木材の表面には長期間外部に露出していた際に観察されるような、紫外線によって生じる目やせなどの劣化痕跡は認められない」というものです。したがって「切断面にない」は誤報で、なぜ報道に「切断面」という言葉が入ったか不明とのことです。
なるほど。目やせが観察されるようになるまでにはどのくらいかかるものなのでしょうか。置かれた環境によってもまったく異なるのでしょうが、まず、数年というような短いスパンでは考えにくそうですね。
>> 結論としては、橿考研の「木材の伐採から製材、加工にかかる時間幅、および、使用から廃棄に至る経緯やその間の時間幅をも考慮する必要があることは言うまでもない。残念ながら、現段階ではこれらの時間幅を明らかにするてだてはないが、それを極端に長く見積もる必要はないものと考えられる。」に行き着くものと思います。
今のところ、そうとしか言いようがないといったところですね。
元の発言 [ Re: 承前 「言語の興亡」読みました. ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月12日(木)17時18分32秒 ]
>>
>>
>>
>>
私はイブが最初の現代人であると言っているわけではありません。
現代人としての形質はイブより前にすでに確立されていたに決っています。イブの世代こそ最大のボトルネックだったのでしょう。
おにりん説を私なりにまとめると以下のようになると思います。
「知恵の遺伝子」はイブより後の世代で生まれた。そしてこの遺伝子が人々の間にある程度広まると、現代人的進歩主義の圧力が閾値を超え、構造化言語と後期旧石器文化が生まれ、世代を越えて受け継がれるるようになった。後期旧石器文化の世の中では、「知恵の遺伝子」を持たない人々は子孫を残せず、絶滅した。この淘汰は旧大陸のあらゆる場所で起こった。
#私の疑問。
#ある優れた形質が『徐々に広まる』ことが可能か。
進化のメカニズムに関して我々はほとんど何も知らないので、ありえないとは言えないが、どちらかといえば、『徐々に広まることはない』という断続平衡説がずっと良いシナリオに思えます。言語の習得という特殊な技能はともかく、ものを考え、工夫するといった生活態度は、「知恵の遺伝子」を持つ者なら日常的な生活にあふれている刺激で十分開花するのではないでしょうか。そうなら「知恵の遺伝子」を持つ者と持たない者が共同生活することは、あり得ないと感じます。
#文化が花開くには、一定量の文化への圧力が必要、というおにりん説は私もそのとおりだと考えています。しかし、イブの子孫がすべて「知恵の遺伝子」を持っていたとしても、人口が極めて少なかったとすれば、必要な圧力が得られなかったと考えて不都合はありません。
イブは現代人であり、現代語を話していた。しかし人口は非常に少なかった。この状況では、現代人の誇る「知恵の遺伝子」も他のヒト属や競合する動物との生存競争にそれほど圧倒的な優位はもたらさなかった、のではないでしょうか。文化を生み出すには、例えばフリントの発見のようなブレイクスルーが必要だった。
オーストラリア人の祖先が5万年前に渡ったのなら、彼らがすでに現代人であったことは明白です。とすれば、同時期に南アジアに進出していたであろう人々も完全な現代人であった。それでも、後期旧石器の出現まで2万年はあります。この2万年の眠りが許容できるなら、イブからクロマニョン人までの10万年を超える眠りも同じロジックで説明できると考えてよろしいのではないでしょうか。
「イブ(とその一族)は完全な現代人であった」と考えるほうが単純です。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#まさか、これをあり得るとお考えじゃないでしょうね。これがあり得ないというのは、私にとっては公理(=我々の脳が説明を要せずに正しいと感じること)です。ドブネズミは世界中に分布しているが、世界の各地で独自に進化したと考える人はいない。それなのに、現代人が世界のあちこちで独自に進化したと考えるのはどうしたわけでしょうね(SJグールド)。
後期旧石器というのは、世界の各地で異なる特徴をもっています。つまり、通常我々が使う意味での文化そのものです。だから、世界各地で独自に発展(発生)して何の不思議もありません。農耕が世界各地で独自に発生したであろうことを不思議と感じないなら、後期旧石器文化の発生も全く不思議ではありません。
>> ##100万年の多地域進化説は認めないけど、15万年の多地域進化説を自ら主張するという矛盾はどう説明するんですか。
>>
>>
#つまり、おにりんさんは多地域進化説を採っているということです。
元の発言 [ Re: 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 7月15日(日)02時07分25秒 ]
こんにちは。
>> 伊勢の人間が、大和へ向かうというのは、考えられる(
>> 大和が発展した都市だったとして)けど、大和が大阪湾が
>> 近いにも関わらず、伊勢湾に出る理由はないと思うんですよ。
東西交通路としては意味があるように思いますが。
とくに伊勢湾西岸には、古い墨書土器だったか刻書土器がでていて、渡来人の定着など注目されます。
大阪湾岸からなら、紀伊半島回りより近く、瀬戸内世界から東方へ抜ける、古代の重要通路だったと思いますが。
元の発言 [ 承前 「言語の興亡」読みました. ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月2日(月)00時23分32秒 ]
>>
#面白かったでしょ。
特に、チョムスキーの尻馬に乗っていいかげんな理屈をこねているアームチェア言語学者をけなすあたり。
>>
>>
>>
#そうですか?
私、実はな〜んにも知りませんが、ヨーロッパ人が発見した時もほとんど後期旧石器文化段階だったような印象を持っています。土器ぐらいあったんでしょうか。
なぜポリネシア人は行かなかったんでしょうか。ニュージーランドへは行ったのに。
>>
>>
#丸太にしがみついて、流れ着いた生き残り、かも。
>>
#私は、いろいろ考えて、おにりん進化論にはちょっと納得できないことがあります。この件、また後で(遅筆なもんで、すみません)。
>>
>>
#根拠を示していないのはいただけませんね。
いずれにしても、この先生は言語学者であって、考古学者・進化学者・人類学者じゃないから、そっちの方面はかしこく沈黙しているのでしょう。
>>
>>
>>
>>
#これは考え違いではありませんか(私の理解不足?)。イブはすべての現代人の直近の共通の先祖であって、イブ自身が原人や猿人や・・・に繋がっていることを否定するものではありません(ネアンデルタールはともかく)。
元の発言 [ Re: 女王国は ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月16日(月)09時51分41秒 ]
>> 邪馬台国が女王国とは直言していませんよね。(倭の)女王の都する所ですから、邪馬台国と女王国が同じという事を証明できないうちは、この認識は危ない。
>>
はい、書かれていないんですよ。
結局、陳寿の自女王国以北の注意書きがたよりなわけです。
>> 女王国まで里数を記すという陳寿の言とも、邪馬台国の里数はないので一致しません。邪馬台国が女王国なら里数に書き換える事もできたのに陳寿はそうしていないのも邪馬台国を女王国とみていなかったからでしょう。
>>
>>
問題なのは里数で標記しなかった事ですよ。
一致しているくらいだから、里数標記に直すのは簡単なことだったはずです。なのに、日数しか記さず、その上で女王国以北には里数と戸数を載せたと書いているわけです。
つまり里数で記さなかった邪馬台国や投馬国は女王国以北に入らなという認識が陳寿にあった場合になら、このような書き方もありえますが、
邪馬台国が女王国という認識なら、おかしな書き方だという事は分かるわけです。
日数標記を里数に直したり、以北は戸数を記したとか書き方はあるのに行わなかったのは変でしょう。理由はみつかりますか?
>> 投馬国と邪馬台国の箇所の書き方が事なる点も、女王国までの旅程記事の一連のものと考える場合に問題です。
>> 一大率は女王国以北を検察していたのですが、女王国が邪馬台国なら、北部九州から離れた投馬や邪馬台国も検察していたのでしょうか?
>>
>>
>>
>>
道程とは書いてないよね。原文に道程と書いてあるなら問題なかったのに。
>>
>>
>>
>>
>>
この場合だと、倭国の主要な国に対して威力を発していたわけですよね。
しかも、二月もの広がりのある地域に対して。それなりの船団とか持っていそうですね。
もし、武力的なもので威厳を示していたなら、常にいた伊都には、かなり大きな遺構が残っていても不思議じゃないですね。
個人的には、3世紀にそこまでの組織があったのは信じがたいのですが。
元の発言 [ Re: 女王国は ] お名前 [ おんじ ] 日付 [ 7月16日(月)13時01分01秒 ]
>> しかも、二月もの広がりのある地域に対して。それなりの船団とか持っていそうですね。
>> もし、武力的なもので威厳を示していたなら、常にいた伊都には、かなり大きな遺構が残っていても不思議じゃないですね。
>> 個人的には、3世紀にそこまでの組織があったのは信じがたいのですが。
最近考えていることなんですが、
題の通り、完全な下克上かどうかは、確認することは、
できないですが、
同じような、しくみじゃないかな?
船も人も馬も、それぞれの里に居て、招集がかかると集まる。
信長や道三、早雲なんかが城下町を作るまで状態と見ればどうだろう。
結局、人間のやることは、にてくるんでは?
古墳時代の大和朝廷のやり方を見れば、同じじゃないかな。
初めに動員する時は、そう多くはないが、移動しながら膨らんでいく、
途中、動員に応じないところは、その時点の兵力でつぶす。
また、国境と言っても個々の村村が固まって同じ国なのかは、疑問。
例を言えば、信長の領地の隣に道三の領地が有りその隣に信玄、
隣に家康、義元の領地だったりするんじゃ?
つまりは、虫食い状態なんじゃとおもうんだけど、戦国時代が、
そうだったらしいし。
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 7月9日(月)23時10分15秒 ]
>> その、古田武彦先生 は不弥国についてどのように書いておられるのでしょうか?
不弥国は、「邪馬壹国(邪馬台国ではありませんよ)」の玄関。
帯方郡治より、邪馬壹国に至る里程が記されていますが、その長さをよく見てください。
最初の七千余里から、順次距離が短くなってきているでしょう(壱岐・対馬の面積部分を除く)。
ということは、不弥国は、「邪馬壹国」に接している、すなわち、その距離は「0(ゼロ)」だと論証しています。
まず、古田武彦先生の第一書の「『邪馬台国』はなかった」だけでも、お読みになったらいかがでしょうか。
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 7月15日(日)16時21分26秒 ]
koujiさん、いつも丁寧なレスポンス、ありがとうございます。
きょう一日考えてみましたが、やはり、わたくしの当初の考えを変更するには至っておりません。
>・皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
まず「不得差錯」について。
【差錯】じぐざぐになる。入り乱れる。誤る。間違う。佐伯氏は、倭人伝では、後者だと言っています。
【不得差錯】
1.岩波文庫版『魏志倭人伝』
> みな津に臨んで捜露(さがしあらわす)し、文書・賜遺の物を伝送して女王にとどけ、差錯(いりみだれまじわる)することはできない。
2.佐伯有清『魏志倭人伝を読む 上』(吉川弘文館)
> 皆、津に臨みて捜露す。文書、賜遺の物を伝送し、女王に詣すには、差錯することを得ず。
1、2ともに、ここでは何を捜露したのかはっきりとしません。
3.『日本の古代 1 倭人の登場』(中央公論社)
> いつも津(水上交通の関所)で、文書や賜与された物品を点検して、伝送して女王のもとへ到着するときに間違いがないようにするのである。
ここでは、文書や賜与されたものを捜露すると理解していますので、「伝送の文書・賜遺の物を捜露し」、と読むべきなのではないかと思います。
4.一中国人の読む『魏魏志倭人伝』謝銘仁(「歴史と旅」59/8所収)
読み下し文には、「皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して…」とありますが、現代語訳には、
> みんな渡し場に出て、物品の封をとき、伝送の明細文書と照らし合わせて点検し、間違いのおこらないようにして、女王のもとへ届けさせる。
このように。3、4では読み下しと現代語訳で伝送の意味を変えているようにみえます。
どちらも捜露したのは、文書や賜遺の物(あるいは物品)ですから、「伝送の文書。賜遺の物」と読むべきであり、「伝送して」とは読めないと思います。
「差錯するを得ず」
上記の例から考えますと、入り乱れ交わったらいけない、間違いがあってはならない、の意味でいいと思いますが、いったい何と入り乱れ交わったらいけないのか、あるいは、どのような間違いがあったらいけないのでしょうか。
私は、まさにkoujiさんが整理された下記の物品が差錯しないように捜露したという意味ではないかと思うのです。
B-1とB-2が入り乱れないように、文書と照合しながら捜露したということではないでしょうか。
したがって、捜露したのは、「伝送」の文書・賜遺の物としか読めないのではないかと思います。
>A. 今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。
>B.
>B-1. 今以絳地交龍錦五匹・絳地suu[扁糸旁芻]粟kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]十張・sen[冠艸脚倩]絳五十匹・紺青五十匹、答汝所獻貢直。
>B-2. 又特賜汝紺地句文錦三匹・細班華kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・眞珠・鉛丹各五十斤。
>皆裝封付難升米・牛利、還到録受。
>
> 帯方郡太守に託して卑弥呼に与えるAの金印紫綬と、卑弥呼の使者である難升米・牛利に託して卑弥呼に送り届けるBの品々に大きく分かれています。さらに、Bは、卑弥呼の献上品の対価にあたるB1と、それとは別に今回特別に下賜するB2に別れています。
西嶋定生『倭国の出現』(東大出版会)でも、
> 王遣使詣京都・帯方郡・諸韓国、及郡使倭国、皆臨津捜露伝送文書賜遺之物、詣女王、不得差錯。
これを、
> 王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使するや、皆な津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣らしめ、差錯するを得ず。
と読んでいます。
ただ、こう読んでみても、御指摘のようにたしかに前段の「王遣使詣京都・帯方郡・諸韓国」と後半とはどうもしっくりしないとは思います。例えば倭から使いを出すとき、この伊都国の港で献上の品物を捜露したことはあったでしょう。その一節がうまく表現されていないのかもしれません。
> 「皆臨津搜露」や「傳送」の主語が「於國中有如刺史」とある存在であることは、構文上からも疑いのないところだと思います。
そうでしょうか? 皆=於國中有如刺史でしょうか?
私が何故、皆=船中の誰もが、と書いたかと申しますと、魏志倭人伝に、張政が、年十三であるとは言え、倭の女王台与に告諭するところがありますので、魏帝からの賜遺の物を倭人が捜露するのも非礼なことではあるまいか、と思ったからなのです。
変ですか?
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 7月16日(月)17時48分13秒 ]
>> 帯方郡治より、邪馬壹国に至る里程が記されています
魏志倭人伝には「自郡至女王國萬二千餘里」と書かれています。
女王国と言ったほうが紛らわしくなくていいですけど。
冒頭にも書きましたように、私は不弥国=宇美、女王国は大宰府ではないかといまは考えています。
まあ近接しています。
ただ、大宰府から、その傍証となる考古史料がどの程度出ているのかはまだわかりませんけれど。
元の発言 [ 津に臨んで捜露する ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 7月1日(日)19時27分37秒 ]
>> こんばんは。ハヤシライス改め、郭公です。久しぶりに投稿します。手前味噌になってもいけないので、みなさんのご批判とご教示をいただければありがたいです。ご賛同いただければなおありがたいです。
ご無沙汰しております。
>> ・皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
>> この文の読み下しにはまだ定説がない。私は、
>> ・皆、津に臨んで、伝送の文書賜遺の物を捜露し、女王に詣り差錯するを得ず。
>> と読むのがいいのではないかと思う。
>> 津とは船着場のことだから、津に臨むとは、入港する際に、上陸する際にと考えられる。
>> 捜露するとは、捜し出し露わにする、捜してはっきりさせると言うことであろうか。
>> 皆とは誰のことか。港で待つ側の者たちであるのか、船内の者たちであるのか。
>> 賜遺とは賜い遣わす、受け取るのは倭の女王であるから、与える側は魏帝と言うことになる。その役目を負った使者一行は責任重大である。そのように考えると、「皆」とは、船内の使者一行を指すと考えるのが穏当ではあるまいか。伊都国の港で検閲する側を指しているのではない。そもそも、検閲する立場でもなかったのではないか。
この部分をもう少し長く引用すると以下のとおりです。
『王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯。』
「王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國及郡使倭國」、つまり大陸・半島と倭国の間をそれぞれの使者が往来する際に「皆臨津搜露」という行為が行われるわけです。
一方、「傳送文書賜遺之物詣女王」はこれとは別のケースと考えられます。単に大陸から倭国への一方通行だというだけではなく、そもそも「伝送」とは駅などを介してリレー式に送付することで、使者が自ら文書や下賜品を携えて送り届ける場合に用いる言葉ではないと思うからです。
したがって、「王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露」と「傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」は別々のケースに関する記述であり、「搜露」の対象を、「文書・賜遺之物」と解するのは誤釈だと思います。では何を「搜露」するのか?私は今のところ、使者往来の際の安全確保のために「津」を「搜露」するのだという解釈に従いたいと思います。
>> したがって意味としては、私は下記のように考える。
>> ・「伊都国へ上陸する際、船中の誰もが、魏帝から伝送された文書や賜遺の物を漏れのないように探し明らかにした。倭の女王卑弥呼のもとへ行き、文書と物とに齟齬があってはならないからだ」
「(倭王は倭国中にいる刺史の如き者たちに、)大陸・半島と倭国の間の使者の往来に際しては行程上の港を隅々まで調べて安全を確保させ、文書や下賜品をリレー式に女王のもとへ送り届ける際には間違いのないようにさせている」
という意味であろうと思います。
>> この一文からいくつかのことがわかる。
>> (一)
>> まず、伊都国へは末盧国から陸行したのではなく、伊都国まで船で行ったことがわかる。つまり、末盧国から伊都国への陸行の記事は魏使の旅程ではない。
これは賛成。
>> (二)
>> 年表によると、魏が成ったのは西暦220年である。倭国から魏への初めての使者は景初三年(239年、あるいは景初二年)である。じつに、19年後の朝貢である。これは、遼東、帯方郡に公孫氏が半ば独立状態で跋扈していたことによる。その公孫氏の滅亡を期に魏へ使者を派遣したのである。
>> 「魏志倭人伝」に書かれている魏との交渉は、この景初三年(239年)から正始八年(247年)に張政が来倭し帰国するところまで書かれている。ただし、張政がいつ帰国したのかは不明であるが、魏使は正始元年(240年)と正始八年(247年)の二度来倭していることになるが、冒頭の記事は正始元年の梯儁一行の来倭と対応する。
上記のとおりですので、そのように限定的に解釈するのは問題があろうと思います。
>> 伊都国で上陸したと言うことは、倭の女王卑弥呼は伊都国から陸行できるところにいたことを示している。
私は上記のように理解しておりますので、伊都国・邪馬台国間の主要行程も水行であったものと思います。
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 7月16日(月)23時47分12秒 ]
こんにちは。割り込み失礼します。
>> 冒頭にも書きましたように、私は不弥国=宇美、女王国は大宰府ではないかといまは考えています。
#「不弥国=宇美」とする根拠として、どんな理由をお考えですか。
(1)音が似ている。
(2)港があったと考えておかしくない。
(3)・・・
元の発言 [ Re: 弥生と古墳と戦国の共通項 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月17日(火)11時49分13秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
まあ、何と言うか。
村の長老や指導者が、どの国(村と言ったほうが良い)につくか決めて居たんでしょうが。
力関係のバランスを見て、自分に有利な相手につくのが普通でしょう。
弥生の乱世においてもある程度首都が、作られていることは、発掘から想像され始めているらしいし。
特に金属器の供給に利益のを得やすい所と結びやすいのでは?
なんて、自明のことを書くのもなんですが。
古墳の初めのころなんと言っても戦国の真っ只中なのは、変わらないし、社会として弥生の戦乱の中で豪族や、
村長たちが古墳を築き始めたので分けているだけと書いてるうちに思うようになったんですが。
元の発言 [ Re: 女王国は ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月16日(月)18時04分13秒 ]
>> 問題なのは里数で標記しなかった事ですよ。
>>
>>
倭人に聞いて里数が分かるんですか?倭人が里数を使っていた、ないしは計れたということでしょうか?
倭人は里数を知らないと考えていたのでおどろきです。
不弥国までは里数がわかって、女王国より東の国や侏儒国(四千余里)まで里数で倭人が答えてくれたけど、投馬国と邪馬台国については日数しか教えてくれなかったという事ですか?
仮に倭人から聞けた情報が日数(時間)とした場合、どこかで里数に直しているはずです。でも投馬国と邪馬台国の記事は日数のみ。
無理に直さないということなら、何故、不弥国までは里数標記なんでしょうか?
>> つまり里数で記さなかった邪馬台国や投馬国は女王国以北に入らなという認識が陳寿にあった場合になら、このような書き方もありえますが、
>>
1、邪馬台国に里数はない。
2、陳寿の言葉で、自女王国以北には道里と戸数を記したとある。
1、2、から里数のない邪馬台国は女王国以北の条件に一致しない。
よって、邪馬台国は女王国ではない。
勝手な想像でしょうか。
元の発言 [ Re: 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月16日(月)02時00分46秒 ]
>>
>>
>>
>>
#やっぱり蛇足でした。§^。^§
>>
#いいえ、筑紫島は四面です。(^。^)
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月16日(月)10時11分24秒 ]
> 狗奴国は、魏と倭とが、もっとも頻繁に交流していた、魏の正始年間における
> 歴史として登場するわけです。
えっ、そうですか? まあ、魏略逸文の評価次第でしょうが、
それ以前から登場しているように私には思えます。
> とすると、ウラワザっぽい、「狗奴国東遷説」なんぞはおいとくとすると
おお、そういうアイディアもありえますね。
後漢書では「自女王國東度海千餘里至拘奴國」てな一文もありますし・・。
> あっこには、歴史はかかれていないんでしたっけ?
書かれていません。
(まあ、魚豢の魏略に書かれた事自体が歴史だっていえば、そうですけど)
> だとしても、卑弥呼が登場する以上は、卑弥呼時代の倭ですよね。
えっと・・魚豢の魏略の逸文に、卑弥呼は登場しません。
邪馬臺國も投馬國も登場しません。
魏略逸文に登場する「國」は、
韓國、到拘耶韓國、對馬國、一支國、末廬國、伊都國、狗奴國、女王国
だけです。
ちなみに、魏略逸文に登場する「女」は
其国王皆屬王女也
女王之南又有狗奴國
不屬女王也
自帯方至女萬二千餘里
倭南有侏儒国其人長三四尺去女王国四千余里
のみです。
倭人伝の「女王国」は「一地域国家」と見なし得ると思っていますが、
魏略逸文の「女王国(王女/女王/女)」は「玄界灘/北部九州連合」
という意味にとるのが良いように思います。
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ EK ] 日付 [ 7月17日(火)12時45分08秒 ]
こんにちは。
>> #「不弥国=宇美」とする根拠として、どんな理由をお考えですか。
本スレッドの冒頭の投稿文に書いています。ご面倒ですがそちらをお読みください。
>> (2)港があったと考えておかしくない。
当時も海に面してはいなかったでしょう。
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月16日(月)10時21分14秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
#ここで、帥升(等)が献じた生口の数(百六十人)が異様に多いことをどう見るか。
#この時点で糸島平野の首長が福岡平野(奴国)を支配下に入れ、伊都国王となったと言う見方もできます。
元の発言 [ 下戸遺伝子 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月17日(火)11時19分44秒 ]
>>
>>
>>
>>
#おっしゃっていることが、よくわからないっす。
木村資生の中立進化論と同じ意味で「中立進化」という言葉を使っているのですか。
そうすると、「それが発現して、後期旧石器文化に至らない間」ってことは、「智恵遺伝子」は形質を発現する以前の、偽遺伝子状態で広まるのですか。
「だけど、いざ発現すると」ってことは、世界のあちこちで、5万年前から3万年前にかけて、この偽遺伝子が本物の遺伝子に変異するんですか。
それならトンデモですけど。
>>
#断続平衡説は中立進化を前提としていません。
断続平衡説は進化のメカニズムについては論じていません(だって、そんなもん全然わかっていないです)。
>>
#いいえ。「発現」が「拡散」に「大幅に先行した」ということです。「拡散」とはもちろん、遺伝子の拡散ではなく、種としてのホモ・サピエンスの拡散(進出)です。
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 7月18日(水)02時28分40秒 ]
御存知かもしれませんが,狗奴国東遷説あるいは,
狗奴国を神武系とする論陣を張っているのは,
次のサイトですね。
吉備国も同系統と見るわけです。
どうやらファンが多いらしい。
奴国・伊都国が邪馬台国に攻められて,
九州北部から九州南部に移動したのが狗奴国,
という辺りが「ウラワザ」なんでしょうかね,,,(^^;
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月18日(水)22時58分27秒 ]
>>
後継者,ってとこですか,,,(^^;
いやしかし,魏略は改めて新鮮な感じがしました。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月2日(月)09時23分23秒 ]
>> 公孫氏三代の間は東夷からの朝貢はなかったと書いてありますから、畿内、北部九州とも中華冊封体制下
>> にあった事はないでしょう。
>> 邪馬台国が九州にあっても公孫氏の方と交易をしていたのだと思いますが。
#おっしゃる事は了解しました。
#私としては、「漢倭奴国王」印の時代から冊封体制下にあったと思います。
>> 魏は公孫淵を討つに当たって隠密裏に船で帯方の方に行き、帯方を落とし、大陸側からと挟みうち
>> にしたのではないでしょうか。
>> そこに邪馬台国の使節が何も知らずにやってきた。
>> なんてありそうな話です。
#ありそうな話ですネ。
>> 魏にとって公孫氏の為にはばまれていた東夷からの朝貢が、公孫氏が滅んで初めて邪馬台国が第一号
>> でやってきたので多いに喜んで不相応な歓待をした。
>> というのも肯けます。
#不相応と言う意味では「委奴国王」もそうですネ。
>> >> #「奴国王」の時代から“金印国家群”の一員として中華冊封体制下の国王を授爵していて、
>> >> #半島情勢を熟知していた北部九州なら公孫氏と言う障害が無くなると同時に魏に遺使したでしょう。
>> >> #女王国内での政権安定と対狗奴国対策として、金印授爵が必要だった。
>> 北部九州なら半島や中国情勢に対して、より敏感に反応し、かつ機敏な行動が可能だと思いますね。
#でしょー。(^○^)
#六世紀の磐井も百済支援に反対し、大和は半島情勢を把握していなかった。§^。^§
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月18日(水)23時43分55秒 ]
>> いやしかし,魏略は改めて新鮮な感じがしました。
>>
省略されていないで,そのまんまだったのなら,
女国=奴国か,ってやつですかね。
これだと狗奴国東遷説は成立しないだろうけど,,,(^^;
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月17日(火)11時40分25秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
公孫淵自信やその一族が生き残れなくても部下達には生き残るチャンスはあったのではないでしょうか。
>> 公孫氏から高句麗→大和の線もありえますね。
>>
>>
>>
公孫氏は再興の一縷の望みを託し部下に子供と刀を預けて城から密かに逃した。
ところが途中で高句麗に捕らえられ子供は殺され、刀だけは高句麗にわたる。
なんて有りそうな事ですが。
>> 私も三世紀には無かったと思います。
>>
>>
滅びなくても4、5世紀になって強大になってきた大和政権に従属するようになったかもしれません。
>> 但し、五世紀位になって畿内が十分発展してからなら東遷の可能性を排除しません。
>>
まあ、そのあたりですね。
朝鮮征伐の為に畿内から送り出された(神功応神軍)が一旦朝鮮まで行くものの、畿内に残った兄弟達が自分を高句麗と戦わせて殺させる陰謀がある事を感じ取った神功応神は取って返して、九州内で更に兵を募り畿内に攻め上る。
なんて妄想抱いてます。
五世紀位になると畿内大和政権はかなり強大ですから九州勢力だけで攻略するのは無理で、朝鮮遠征軍と九州の合同軍なら大和の勢力は分断されていますし可能性が有るかなと。
元の発言 [ 倭人伝の王って柵封体制の王位? ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 7月11日(水)23時39分42秒 ]
>> 時々、ネット上で、
>> 伊都国は倭人伝では「世有王」とされている。
>> 倭人伝は中国の正史であり、その中で「王」と書かれているのは
>> 柵封体制下の王位の事である。
>> 後漢書にある、帝永初元年の倭國王 帥升 こそが倭人伝の伊都国王である。
>> という主張を読む事があります。
1 「王」とあるからといって、柵封体制下にあるとはかぎらないでしょう。
諸々の国があることについてまで、中華思想でどうこうしようということは、どこにもみえません。
ということは、そこに「王」がいるかどうかまでは関与してなとおもいます。
柵封体制下にあるというのは、中国に通じて(朝貢して)きた国にたいしてのみ考えているはずです。
通じていない国でも、王として認めている例は多々あります。
顕著な例では、匈奴があります(ここでは、王とはいわず、「単于」といってますが)。
2 伊都国王が倭國王などとは、後漢書には書かれていないはずです。
伊都国は「世有王」とされていますが、中国と直接通じてはいません。
それこそ、「一大率」は、外からくるものの検察ももちろんですが、倭國内から出てゆくときにも、この検察の対象にしていたでしょう。
それでなければ、「邪馬壹国」が三十余国を統治しているということにはならないでしょう。
「邪馬壹国」の大義名分が立ちません。
元の発言 [ Re: 女王国は ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月17日(火)19時30分15秒 ]
>> 倭人に聞いて里数が分かるんですか?倭人が里数を使っていた、ないしは計れたということでしょうか?
>>
>>
里数を知らない倭人あいてに、里数でどのくらいとは聞かなかったでしょうね。
どのくらい離れているのかを聞いて、日数で答えたのでしょう。
>> 不弥国までは里数がわかって、女王国より東の国や侏儒国(四千余里)まで里数で倭人が答えてくれたけど、投馬国と邪馬台国については日数しか教えてくれなかったという事ですか?
>>
>>
#っていうのはどうですかね、畿内説のみなさん。
一大率がいて、女王国に統属していた伊都が倭国でないという意見は無茶だと思います。
>> 仮に倭人から聞けた情報が日数(時間)とした場合、どこかで里数に直しているはずです。でも投馬国と邪馬台国の記事は日数のみ。
>>
>>
>>
ここでは、誤差が大きいかどうかは問題にしてませんよ。
倭人は里数を知らないから、日数で答えた。なら、投馬国と邪馬台国の記事だけ日数が残っている理由はなんでしょう?
>> 無理に直さないということなら、何故、不弥国までは里数標記なんでしょうか?
>>
>>
女王国の東の倭種の国も同じように、おにりんさんは考えているのでしょうか?
里数で計る人たちが不弥国までと女王国より東にはいて、投馬国と邪馬台国には浸透しなかったんですね。
魏使に答えれる程の里数を知っていた人が居たなら、考古学的にも残っているといいですね。
>> 1、邪馬台国に里数はない。
>> 2、陳寿の言葉で、自女王国以北には道里と戸数を記したとある。
>> 1、2、から里数のない邪馬台国は女王国以北の条件に一致しない。
>> よって、邪馬台国は女王国ではない。
>> 勝手な想像でしょうか。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
では、それに従って
1)は自女王国以北の文からありえませんね。他国を一大率が検察したはずありません。
2)女王国の東渡海して倭種の国があるから、これも違います。
3)「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」と女王国までは戸数と道の里数を載せているという陳寿の言葉と一致しないので違います。
よって、4)のみ可能性が残る。
女王国までは戸数と道の里数を載せているという陳寿の言葉に合う国は、里数と戸数のある最後に記された国になりますから、不弥国が女王国になりますね。
どこがおかしいですか。
とある条件にしたがって導き出された結論ですから勝手というのとは違うでしょ。
根拠の乏しい邪馬台国は女王国というのを前提条件とする諸説の方がよほど勝手だと思いますよ。
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月18日(水)23時49分46秒 ]
>> #この時点で糸島平野の首長が福岡平野(奴国)を支配下に入れ、伊都国王となったと言う見方もできます。
>>
#ということで、「んなもんかもねー」ではすまないです。
>>
>>
#“魏”ですからネ。
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 7月18日(水)22時03分35秒 ]
>> 奴国・伊都国が邪馬台国に攻められて,
>> 九州北部から九州南部に移動したのが狗奴国,
>> という辺りが「ウラワザ」なんでしょうかね,,,(^^;
#奴国は邪馬台国連合側についた伊都国に攻められて大和に逃れた、狗奴国は奴国の分家だった。
#こっちのほうが整合性は高い。物語性が高い(面白い)と言うべきか。§^。^§
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 7月19日(木)20時22分53秒 ]
邪馬台国九州説を前提とする点がミソなんですね,,,(^^;
やっぱり金印の出土状況から見て,
奴国は敵国に攻め込まれた,
と見るべきなんでしょうけど,
倭国王帥升というのは,ホントに伊都国王なんでしょうか。
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 7月2日(月)13時17分23秒 ]
> ご無沙汰しております。
こちらこそご無沙汰申し上げております。
>>> ・皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
> この部分をもう少し長く引用すると以下のとおりです。
>『王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯。』
> 一方、「傳送文書賜遺之物詣女王」はこれとは別のケースと考えられます。単に大陸から倭国への一方通行だというだけではなく、そもそも「伝送」とは駅などを介してリレー式に送付することで、使者が自ら文書や下賜品を携えて送り届ける場合に用いる言葉ではないと思うからです。
伝送についてまず考えてみます。
倭の女王卑弥呼の使者難升米は、まず帯方郡に行き天子に朝献したい旨を告げる。
郡の太守劉夏は吏を遣わして難升米等を京都に送る。
魏帝は、郡の太守に付して金印紫綬を仮綬させる。実際は、この金印紫綬は、難升米等を送った吏員が受け取り、郡の太守に託けた。倭へは郡の太守弓遵が来ずに、その部下にあたるのでしょうか、建中校尉梯儁が来た。
このように、魏帝から齎された文書、賜遺の物は言わば数人の人づてに届けられています。このことを「伝送」と言っているのではないでしょうか?
> 「王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國及郡使倭國」、つまり大陸・半島と倭国の間をそれぞれの使者が往来する際に「皆臨津搜露」という行為が行われるわけです。
三品彰英『総覧』でも、冒頭の読みについて諸説を紹介していますが、その中で、那珂通世は「臨津捜露傳送文書賜遺之物ハ王遣使云云ト郡使倭王トノ両方に係リテ聞ユレド、詣女王不得差錯ハ郡使倭国ノミニ係リテ、王遣使云云ニハ係ラズ、コノ処勢稍穏カナラズ」(返り点省略)
僕の書いた、
>>・皆、津に臨んで、伝送の文書賜遺の物を捜露し、女王に詣り差錯するを得ず。
これが一般的ではないでしょうか?
那珂通世、内藤虎次郎、 喜田貞吉がこう読み、菅政友、橋本増吉が、若干読み下しは違いますが、意味としては同じように受け取れる。
>「(倭王は倭国中にいる刺史の如き者たちに、)大陸・半島と倭国の間の使者の往来に際しては行程上の港を隅々まで調べて安全を確保させ、文書や下賜品をリレー式に女王のもとへ送り届ける際には間違いのないようにさせている」
>という意味であろうと思います。
文書賜遺の物を伝送し…、と言う意味ですね。
ただ「倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・采物を賜う」とあるので梯儁自身が倭王に会っているのではないでしょうか。
倭人伝には、「また特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す」とも書いていますが、この難升米・牛利が、誰か他の者に伊都国以降を託して倭の女王卑弥呼のもとへ齎したとも考えられないので、「伝送し…」よりも「(魏帝から)伝送の文書賜遺の物」の方が良くはないでしょうか。
>>> (一)
>>> まず、伊都国へは末盧国から陸行したのではなく、伊都国まで船で行ったことがわかる。つまり、末盧国から伊都国への陸行の記事は魏使の旅程ではない。
>
> これは賛成。
ありがとうございます。
>>> (二)
>>> 年表によると、魏が成ったのは西暦220年である。倭国から魏への初めての使者は景初三年(239年、あるいは景初二年)である。じつに、19年後の朝貢である。これは、遼東、帯方郡に公孫氏が半ば独立状態で跋扈していたことによる。その公孫氏の滅亡を期に魏へ使者を派遣したのである。
>>> 「魏志倭人伝」に書かれている魏との交渉は、この景初三年(239年)から正始八年(247年)に張政が来倭し帰国するところまで書かれている。ただし、張政がいつ帰国したのかは不明であるが、魏使は正始元年(240年)と正始八年(247年)の二度来倭していることになるが、冒頭の記事は正始元年の梯儁一行の来倭と対応する。
>
> 上記のとおりですので、そのように限定的に解釈するのは問題があろうと思います。
下賜されるのは倭の女王卑弥呼ですから、下賜するのは魏帝と言うことになると思うのですけれど。そうすると、魏志倭人伝の正始元年の記事がもっともふさわしい。
だから、「皆津臨…」の記事は梯儁一行の誰かが書いたものではないだろうか、と。
元の発言 [ Re: 下戸遺伝子 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月19日(木)00時03分51秒 ]
>>
#やっと調子が出てきましたね。今までおとなしずぎて不気味でしたよ ^_^
>> 断続平衡説は進化のメカニズムについては論じていません(だって、そんなもん全然わかっていないです)。
>>
#この10年で進化のメカニズムが少しでも分かってきたというなら、大変めでたいことです。
おにりんさんは「専門家」ですか。それならこの主張が理解できます。専門家は『日本の高架道路は地震では壊れない』といいました。専門家は『非加熱血液製剤は安全だ』といいました。専門家は『邪馬台国は大和で決まりだ』と主張しています。専門家は『進化のメカニズムがかなり解明できた』といっているんですね。
でも、ほら、専門家の発言はセールストークと理解した方がよろしいわけで。
>> >> 断続平衡説は、「中立進化」をベースに語られているんです。
>> #断続平衡説は中立進化を前提としていません。
>>
#遺伝学の先生方が「進化のメカニズムは中立遺伝子以外に考えられない」と主張するのは勝手ですが、進化学の先生方はもう少し冷静でしょ(だって自分の専門分野じゃありませんから、入れ込む理由が無い)。
断続平衡説が出てきたのは20年も前だし、中立進化論もほぼ同じ時期じゃないでしょうか。後になって分子進化学の研究者が中立進化論を断続平衡説と結びつけたセールストークを行っているとしても、グールドやエルドリッジが責任をとるいわれはありません。
>>
>>
>>
#勉強してきました(コレ、ホント)。
今までの議論を思い返してみるに、おにりんさんは「知恵遺伝子」を持っていても、ムスティエ文化の社会では刺激がないから機能を発揮しないと主張しているのですね。その証拠として野生児や読み書きの習得や魚の目を上げているようです。考え直してみたら、おにりんさんは最初からそう言っている。そういうことですか?
>>
>>
#下戸遺伝子は酒が発明された後でも、淘汰に関しては中立だな〜。
「オレの杯が・・・」って言われて給料が上がらないから子どもがたくさん養えないかもしれないけど、酒の楽しみがない分、かえって子作りに励んだりして。
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月20日(金)19時58分47秒 ]
>>
>>
>>
>>
#王墓は紀元前後に消滅?
#消滅(有ったものが無くなる)したのはもっと後。ほんの冗談m(__)m
#別のところにレスしましたが、(可能性が)まったくないわけではありません。
#今年の8月に昇町にある丘の上の神社が移転するとのことで何か出るでしょう。
#丘のふもと(まんま、宮ノ下遺跡)から石棺と銅鏡その他が出土しています。
#春日市ではお宮の下には必ず遺跡がある。
#白玄社遺跡も、まんま、白玄神社の下だったし、須玖岡本の熊の神社祠の下は方形周溝墓だと言うのが昨年分かった。
#そうそう、須玖岡本王墓の一部が市の土地になります。一部とはいえ、やっと本当の学術調査ができる。§^。^§
>>
>>
#丘の斜面で周りが田圃、溝を修理していて大石の下から発見ですから、形態としては須玖岡本王墓に似てるけどよくわかりませんネ。
#場所的には博多湾(奴の津)に出入りする船がよく見える場所ともいえます。
#御笠川河口、現博多駅から比恵にかけての辺りに奴国の港があったとしてですけど。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#あらためて授爵する必要はなかった、「倭」の「奴国王」ですから。
#卑弥呼が「倭国王」じゃないのは女だったからと言うのはどうでしょう。
#女に国王を授爵した例はない。
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月20日(金)19時51分52秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#半島系の土器に関しては断絶と言うか、新羅系から百済系への画期があるようですが。
元の発言 [ Re: 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月18日(水)23時47分10秒 ]
>> #いいえ、筑紫島は四面です。(^。^)
>>
#おにりんさんに地図を一枚!!(^^)!
>>
#そげなふうでしょう。
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月20日(金)19時51分52秒 ]
畿内説に立った場合,女国と奴国の情報が混乱したのなら,
女国の南にあるのが狗奴国なのか,奴国の南にあるのが狗奴国なのか,
二つの情報に整合性を持たせるために,
女王の都する所(邪馬台国)を,奴国と狗奴国の間にもってくる必要が生じ,
女王国の東には倭種の国がある,という情報を恣意的に重視して,
それで東とすべきところを南としたのかもしれませんね。
>>
>>
>>
それは,倭国大乱直後から奴国で畿内の土器文化が流行している,
ということなんでしょうか?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
これは,狗奴国は後に大和朝廷を樹立する神武系統,
邪馬台国は先行大和としての出雲系統,
という読みも可能で,狗奴国東遷説に近いような感じですが。
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月20日(金)19時51分52秒 ]
こんにちは。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
瀬戸内はどっちともとれそうな気がしますけど、私はこ
の憶測におおむね賛成したいです。大雑把に言って対馬
海流勢力対黒潮勢力という感じですね。
今回はこれといった意見がなくてすみません。
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 7月20日(金)23時21分52秒 ]
こんにちは。
>> >> 狗奴国もまた、「南方系の連合」と考えるならば、
>> >> 南部九州と、瀬戸内海西部(吉備)と、紀伊半島南部
>> >> 東海地方を合わせこんだ、いわば、広域国家であり、
>> >> これが、北部九州、山陰、北陸、東部瀬戸内海と、
>> >> 大和方面(山背方面もふくめ)をいっしょくたにした
>> >> 「邪馬台国連合」と覇権争いをしていた、っていうよう
>> >> な、構図が考えられるかと思うんです。
>>
>> これは,狗奴国は後に大和朝廷を樹立する神武系統,
>> 邪馬台国は先行大和としての出雲系統,
>> という読みも可能で,狗奴国東遷説に近いような感じですが。
この場合は狗奴国“北遷”説と言うべきでしょう(^^)。
おにりんさんの言うように、記紀神話が6世紀に成立し
たものとすれば、南九州に残っていたウガヤフキアエズ
神話と、紀伊半島南部からの侵入者が近畿地方にすでにいた実力者の婿になって後を襲ったという物語を、瀬戸
内海行路で接ぎ木しただけのようにも思えてきます。
うーん、東遷説ってスケールでかくて面白いんですけど、
最近は事実であったとは思えなくなっています。
なんかもっとグチャグチャと、なし崩し的に統合されて
行ったのではないかと。
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ 鐙 ] 日付 [ 7月21日(土)14時31分49秒 ]
>> おにりんさんの言うように、記紀神話が6世紀に成立し
>> たものとすれば、
伝承内容の実態が古くは遡れない,ということなんでしょうけれども,
でも,おにりんさんは卑弥呼モモソヒメ説ですよね。
記紀,特に古事記の場合には,
起承転結の妙を犠牲にしてまで話を圧縮したようなところがありますから,
その辺りを解凍できれば,古い相が現れてくるのではないか,
と期待はしています。
イザナキ新興説については,履中紀からの類推でしょう。
ここら辺りに淡路島とイザナキ信仰,皇統との関連が見出されますから。
履中天皇はイザホワケといい,
息子の反正天皇は所在不明ながらも「淡路宮」というところで生まれた,
とあります。
しかし,イザナキ信仰中興の祖ということも考えられるでしょう。
>> うーん、東遷説ってスケールでかくて面白いんですけど、
>> 最近は事実であったとは思えなくなっています。
>> なんかもっとグチャグチャと、なし崩し的に統合されて
>> 行ったのではないかと。
狗奴国が実は大和朝廷につながるのではないか,という発想は,
不思議な魅力があるので,一度食べると止まらない感じがありますが,
しかし,奴国に攻め入ったのが狗奴国かもしれないわけで,
その際に伊都国,畿内勢,外来勢が狗奴国を退ける傍らで覇権を主張し,
倭国の王位は伊都国か畿内大和が奪ったものか,なんて勝手な想像も。
元の発言 [ Re: Title 古事記偽書説 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月2日(月)12時01分44秒 ]
『古事記』は偽書か?
前回の投稿で、『古事記』自体の伝承について、その問題点を指摘させていただきました。
今回は、『古事記』の成立事情、特に『日本書紀』との関連について、通説の問題点を述べさせていただきます。
(2)『古事記』と『日本書紀』の成立背景
律令制国家の問題としての祭祀をどう考えるか?
その研究によって、『古事記』と『日本書紀』の違いが明らかになります。
その実像は、通説とは違ったものです。
神野志隆光氏は、『古事記の現在』(笠間書院1999)の対論で「古事記を古代の多元的な天皇神話のなかにとらえることに帰着する」と述べています。
それは「古事記や日本書紀が天皇の神話として成立っている」からだといいます。(P-107)
ここで氏は、注目すべき「神話」観を指摘、かつ放棄します。
・・・・・その点で、「神話」という用語も適切ではないかもしれない。
神話という言葉を避けて「天皇の世界の物語」という言い方をするほうがむしろ相応しいかもしれませんが、今言いならわされている「神話」をあえてそのまま用いることにします。
続いて神野志氏は、王権神話や日本神話という一般的な用語を避け、「古代天皇神話」という観点から自説を展開します。
・・・・・具体的に言えば、ムスヒのコスモロジーにおいて全てを導くものとして語る古事記と、陰陽論に依存することによって世界の成り立ちを語る日本書紀と、その世界像とともに作品が具体的な形を取るということです。
ここで確認すべきは、神野志氏の立場と研究の視点です。
「古事記や日本書紀が天皇の神話として成立っている」という根本的な考え方が、その立場と視点を表わしています。
・・・・・日本においては、古事記や日本書紀という神話を持つことにおいて初めて天皇の正当性を具体化するということがあるわけです。(P-108)
これに対し、対論者の水林彪氏は反論します。
・・・・・律令天皇制の非専制的王権としての実態に照応的なのが古事記で、古事記神話とは異質な日本書紀神話は、むしろ、天皇制を専制的なものと描く政治思想を語っていたと私は理解しています。
神野志さんは、古事記も日本書紀も、それぞれの仕方で当時の天皇を成り立たせていたとおっしゃるのですが、私はそう考えないのです。(P-122)
ここで『日本書紀』に関する水林氏の補足が興味深い。
・・・・・日本書紀は神代とそれ以後では性質が大分違うように思います。
神代は一貫した作品であることを放棄した体裁を取っています。
本文と諸一書を併記する日本書紀には古事記と同等に論じられるような作品性がないと私は思っています。(P-122)
古事記と祭祀に関する意見の相違も、水林氏は明解に指摘します。
・・・・・基本的に古事記は神祗令祭祀の祭儀神話であり、両者は照応しているのだと考えますが、神野志さんは非照応で、神話と祭祀は平安時代に入ってはじめて照応関係を有するようになるという考えだと思います。(P-123)
この対論で、両者の意見は最後までかみ合いません。
実は、その理由は単純です。
両者とも『古事記』本来の内容を無視して論議しているからです。
神野志氏は、一言でいえば「古事記読みの古事記知らず」。
水林氏は、自ら明言するように、その神野志氏の古事記論を前提として、古事記を読んでいるからです。
いみじくも神野志氏が述べています。
・・・・・神祗令祭祀が意味づけられるというのはそのものとして意味づけられるのではなく、その変質なのです。
テキスト側へ神祗令という王権の祭儀を引きつけることで通路は作られた。(P-138)
この発言は、『古語拾遺』に関するものです。
しかし『古事記』自体も、伝承と解釈の課程で、大きな変質を生じています。
特に伊勢本系の変質は甚だしく、『古事記』本来の内容ではなくなってしまいました。
その問題性のある写本から翻訳された『古事記』が、現在一般的な『古事記』になっているのです。
いわば『改竄古事記』を資料として、両者は論戦しています。
対論に、正しい結論が出るはずがありません。
水林氏が、神野志『古事記』論に満足できぬのは当然です。
改竄されたとはいえ、現在の『古事記』にも、数多く本来の内容が残っています。
正しい歴史観を持った人が読めば、それに気づくからです。
水林氏は、法学者の立場から『古事記』と『日本書紀』を分析、独特な『古事記』論を展開します。
@水林彪『「古事記」への道』・・・『法制史研究47』(法制史学会1998)
A水林彪『律令天皇制における「天」と「日」の観念』・・・『思想 No.816』(岩波書店1992-6)
B水林彪『「古事記」における神々の誕生表現についての一考察』・・・『日本歴史 No.550』(吉川弘文館1994-3)
水林氏は、石母田正氏の律令国家論をベースに、独自の歴史観から飛鳥・奈良朝の社会構造を見直します。
氏は『続日本書紀』の宣命を分析、天平元年(729)を境に内容が変わっていることを指摘。
石母田論の問題点を正します。
・・・・・石母田が律令国家のイデオロギー的権力としての側面を論ずるにあたって議論の中核にすえた仏門徒共同体観念は、実は、宣命史における第二段階に属するものなのである。(P-17)
そして初期の宣命に、『古事記』的タイプの神話を見出すのです。
氏のいう『古事記』タイプの神話とは、「非専制的王権」の実体を背景とする物語で、「臣下の正当性」を証明することを目的とするものです。
・・・・・律令制国家の時代に、この国家の中枢に位置していた人々によって書き記された神話には、一見すると似たような話でありながら、実は内容を根本的に事にするところの、『古事記』神話と『日本書紀』神話があったのであるが、宣命の背後にある神話は、明らかに、『古事記』型の神話に他ならなかった。(P-24)
さらに、その『古事記』神話は、単に宣命の背景にとどまらず、律令国家の祭祀共同体儀礼をともなっていたことを明らかにします。
・・・・・第12詔が詔られる儀式の構造は、君臣の擬似的共同体が君主たる聖武を筆頭に盧舎那仏に対面するというものであったのに対して、第1詔が詔られた文武即位儀礼は、『続日本書紀』の記事などから、大極殿に出御して臣下に向かって南面する文武と、朝庭に列立して文武の方に向かって北面する臣下たちとの、対面的構造であったことが知られる。(P-25)
このような儀礼の規模を、水林氏は次のように推定します。
・・・・・大宝令施行化の祈年祭は、約三千の神々を祭る大祭であり、神祗官には、中央官人と地方豪族からなる三千人をこえる人々が参集していたことになるのである。(P-29)
さて『古事記』成立期、参集した三千の神祗官を率いた人物は誰だったのでしょう?
時の左大臣・石上朝臣麻呂。
そう考えるのが、もっとも合理的な判断です。
麻呂は、慶雲元年(704)に右大臣、和銅元年(708)に左大臣に任じられています。
つまり臣下の最高位です。
『日本書紀』、『続日本書紀』で、麻呂の経歴を追ってみました。
石上朝臣麻呂は、壬申の乱(672)の末期、はじめて古代史に名を現わす。
※「大友皇子自害の際、ただ物部連麻呂(麻呂の旧姓)と、一、二の舎人のみが皇子にしたがっていた」と記されている。
天武5年(676)大使として新羅に使わされる。この時の冠位は、大乙上(19位)。
朱鳥元年(686)天武天皇崩御の際、法官のことを誄する。冠位は、直広参(14位)。
持統3年(689)筑紫に赴き、新しくできた城を監視。
持統10年(696)舎人50人の使用を許される。冠位は、直広壱(12位)。
文武4年(700)筑紫総領に任じられる。冠位は、直大壱(9位)で、いつの間にか中納言になっている。
大宝元年(701)正三位(5位)となり、大納言を任じられる。
同年(701)左大臣・多治比真人嶋薨去の際、三品の刑部親王とともに弔う。
大宝2年(702)太宰師(太宰府の長官)に任じられる。
大宝3年(703)右大臣・阿部朝臣御主人薨去を弔う。
慶雲元年(704)右大臣となる。冠位は、従二位(4位)。
※この時、麻呂に2,170戸が増封された。
大納言・従二位の藤原朝臣不比等に800戸、三品の刑部親王の増封は、わずか200戸。他の親王4人の親王も、200〜100戸の増封だった。
和銅元年(708)正二位(3位)を授けられ、左大臣を任じられる。
和銅3年(710)平城遷都に際し、藤原京の留守司となる。
養老元年(717)薨去。従一位(2位)が贈られた。
※「天皇は朝政を休み、式部卿で正三位の長屋王らが死を弔った」ことが記されている。
また誄の際、「人々は慕い思いおこして惜しまないものはいなかった」という。
このように石上朝臣麻呂は、叩き上げの人物です。
その後を追って、有名な藤原朝臣不比等が次位を追随しています。
不比等が歴史に登場するのは、麻呂が朱鳥元年(686)天武天皇崩御の際、法官のことを誄した2年後、刑部省の役人としてです。
つまり麻呂の部下として現れ、麻呂の薨去まで、常に麻呂の次位を追っています。
麻呂が薨去の祭に贈られた従一位は、当時臣下の最高位でした。
それまで一位を与えられた臣下は一人もいません。
養老4年(720)不比等が薨去し、臣下の最高位である正一位が贈られます。
死んで、はじめて、不比等は麻呂を超えるのです。
麻呂の事績をみると、元年が多いことに気づきます。
まるで改元ごとに昇進している観があります。
それだけ改元理由に、大きな関わりを持っているのでしょう。
最後の「養老」など、麻呂の死を悼んで改元されたと思えるほどです。
慶雲元年(704)の増封も、他と比べて破格です。
天武天皇崩御禹の際、麻呂は法官のことを誄しています。
また麻呂には、遣新羅使の経歴もあります。
言うまでもなく遣新羅使の目的は、中国情勢の把握と大陸文化の吸収です。
激動の時代、無能な人間を遣新羅使にするはずがありません。
このような経歴から考え、麻呂は当時における法制度の専門家、あるいは管理責任者だったと思われます。
したがって、慶雲元年の褒賞は律令制度の制定に対する褒賞と考えられるでしょう。
まさに麻呂は、日本の律令国家と作った人物といえます。
『古事記』は、和銅5年(712)に成立しました。
水林氏によれば、「非先制的王権」のイデオロギーをもった書物です。
端的に言えば、「王権を支える臣下の書」といえます。
当時このような書を世に問える人物は誰か?どのような資質と権力を持った人か?
私は、時の左大臣・石上朝臣麻呂しかいないと思います。
問題は、麻呂の思想が自ら作り上げた律令国家の本質と矛盾していたことです。
石上朝臣麻呂は、下級官僚から身を起こし、臣下の最高位・左大臣にまで登りつめました。
時代の要請から律令制度を、古代日本に構築しました。
その功績で、出世したのでしょう。
最高位につき、ふと振り向くと、自ら作った律令制度は、「物部の思想」とは正反対のものだった・・・・。
それを痛いほど実感したのではないでしょうか。
麻呂は、和銅3年(710)平城遷都に際し、藤原京の留守司となっています。
その頃、後に古代律令制度の思想的根拠となる『日本書紀』の編纂が進んでいました。
おそらく不比等が、その責任者だったと考えられます。
森博達氏の研究成果から考えると、『日本書紀』の原型は平城遷都(710)以前に完成していたと推定されます。
※森博達『日本書記の謎を解く』(中公新書1999)
右大臣・不比等の上司は、左大臣・石上朝臣麻呂ただ一人です。
天皇制を専制的なものと描く不比等の『日本書紀』の上奏を押さえ、対峙する非先制思想を持った『古事記』を編纂、先に成立さしめる。
そんなことができる人物は、石上朝臣麻呂以外に考えられません。
われわれは、『古事記』と『日本書紀』の成立過程と関係を見直す必要があります。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月20日(金)02時05分19秒 ]
>> 公孫氏は再興の一縷の望みを託し部下に子供と刀を預けて城から密かに逃した。
>>
おにりんさんも「15歳以上の男子は全員殺されました.」
と仰いました。
部下と言うのも15歳以下であれば逃げられた可能性があったわけです。
>>
考古学的証明が無いのは邪馬台国論議全般に云える事で、、。
元の発言 [ Re: 倭人伝の王って柵封体制の王位? ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 7月19日(木)13時51分26秒 ]
>> 伊都国は「世有王」とされていますが、中国と直接通じてはいません。
#銅鏡の大量副葬と壁の出土が中華王朝に認可された王であることを示しています。
元の発言 [ Re: 倭人伝の王って柵封体制の王位? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 7月22日(日)20時30分04秒 ]
大型鏡の副葬は前漢皇室から行われています。
実際には、皇帝が下賜する葬具の一つで、その他に璧などの玉器や棺、槨を作る材料共に下賜されたようです。
鏡は、東園温明(漆塗りの桶)に入れて下賜され、遺体の上に置いていたそうです。
それが、北部九州の弥生墓から一括大量出土する理由です。
大量の漢鏡、玉器である璧、棺を作る材料の四葉座金具が出土しているのは、
中華皇帝から冊封体制下の王と認められた者の墓であると言うことが出来ます。
特に、玉壁は殷周時代から身分を表す器物で、宮崎県串間市の王之山(現在地不明)箱式石棺墓出土の直径33.3センチの穀璧があります。
邪馬臺国、宮崎説もまんざらじゃないですネ。
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 7月16日(月)23時47分12秒 ]
>> >> 帯方郡治より、邪馬壹国に至る里程が記されています
>> 魏志倭人伝には「自郡至女王國萬二千餘里」と書かれています。
>> 女王国と言ったほうが紛らわしくなくていいですけど。
女王国というのは、固有名詞でしょうか?
「郡より女王國に至る、萬二千余里」とありますが、その前に、「南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日・陸行一月」とあります。
この個所をうけて、女王国と書かれていると考えるのがまともではないでしょうか。
したがって、国の名前は「邪馬壹国」でしょう。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 7月2日(月)20時25分19秒 ]
>> >> 公孫氏三代の間は東夷からの朝貢はなかったと書いてありますから、畿内、北部九州とも中華冊封体制下
>> >> にあった事はないでしょう。
>> >> 邪馬台国が九州にあっても公孫氏の方と交易をしていたのだと思いますが。
>> #おっしゃる事は了解しました。
>> #私としては、「漢倭奴国王」印の時代から冊封体制下にあったと思います。
冊封と言えば邪馬台国は魏から親魏倭王の金印をもらいましたが帯方太守から授けられたような形を取っています。
「裝封付帶方太守假授汝」
卑弥呼は魏の直接の家臣ではなく、帶方太守を介した陪臣のようなものだったんでしょうか。
>> >> 魏にとって公孫氏の為にはばまれていた東夷からの朝貢が、公孫氏が滅んで初めて邪馬台国が第一号
>> >> でやってきたので多いに喜んで不相応な歓待をした。
>> >> というのも肯けます。
>> #不相応と言う意味では「委奴国王」もそうですネ。
私の言う不相応は
「今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬」
の部分なんですが。
使者に対してまで魏の官位を与え、銀印を授けています。
>> >> 北部九州なら半島や中国情勢に対して、より敏感に反応し、かつ機敏な行動が可能だと思いますね。
>> #でしょー。(^○^)
>> #六世紀の磐井も百済支援に反対し、大和は半島情勢を把握していなかった。§^。^§
そう言えば大和だけでなく高句麗も魏の冊封体制下に入るのを嫌って反乱を起こしていますね。
多分、不利と判っていても戦ってしまうなんて、北条時宗の元寇に対する態度に似ている?
高句麗も神風頼りの戦争をする民族だったのかな?(^^;
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月23日(月)11時31分46秒 ]
>> #そうそう、須玖岡本王墓の一部が市の土地になります。一部とはいえ、やっと本当の学術調査ができる。§^。^§
>>
>>
#いいえ。
#庄内式併行期の王墓はここにはないでしょう。
#あるとすればもっと東南の那珂川町の方。日拝塚古墳辺り。§^。^§
>> #丘の斜面で周りが田圃、溝を修理していて大石の下から発見ですから、形態としては須玖岡本王墓に似てるけどよくわかりませんネ。
>> #場所的には博多湾(奴の津)に出入りする船がよく見える場所ともいえます。
>> #御笠川河口、現博多駅から比恵にかけての辺りに奴国の港があったとしてですけど。
>>
>>
#金印が出土した場所が墳墓だったかもしれない、ということです。
>> #あらためて授爵する必要はなかった、「倭」の「奴国王」ですから。
>> #卑弥呼が「倭国王」じゃないのは女だったからと言うのはどうでしょう。
>> #女に国王を授爵した例はない。
>>
#女性だと知ってて授爵したんでしょうか。
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月23日(月)01時52分17秒 ]
いわゆる三輪族ってやつですか・・・(^m^)
崇神紀は,三輪の神の意向に沿いつつも離脱して,
以降,天照型政権を確立してゆく過程が見られます。
垂仁紀での,その際の人脈が,
安倍臣,和珥臣,中臣連,物部連,大伴連の各遠祖です。
中臣,物部,大伴と聞くと九州を連想しますが。
物部の場合は特に,ニギハヤヒの東遷と関わりますよね。
古墳文化については,高度の建築学や天文学が駆使されている,
とのことであるから,背景となる人脈を探る必要があります。
古墳がらみで吉備や出雲から人や物が入ってきていますから,
そういう人達の世界観として伝わっていたものが,
古くて新しいものとして畿内大和に移り,
古墳文化の諸相に正統的な伝流として結びついたかもしれないです。
義略逸文には、邪馬臺國も投馬國も卑弥呼も登場しません。
登場しているのは、韓國、到拘耶韓國、對馬國、一支國、末廬國、伊都國、狗奴國、
女王国、そして侏儒国だけです。
作業仮説 魚豢の魏略は、玄界灘諸国〜北部九州時代の資料を基に記述されている。
傍証 魚豢の魏略の逸文には、卑弥呼も邪馬臺國も投馬國も登場しない。
反論 単に引用された部分(逸文として残った部分)がその部分であるに過ぎない。
反論に対する反論 義略逸文を残す翰苑には、
後漢書からの引用として「卑弥呼宗女[冠去脚冖至](臺)與」を引いている。
廣志からの引用として「邪馬嘉(臺)國」を引いている。
義略からの引用のみ、邪馬臺國や卑弥呼を落としたとは考えにくい。
結論
「魚豢の魏略は玄界灘諸国連合〜北部九州連合時代の資料を基に記述されている。」
は仮説として成立し得る。
事実 魚豢の魏略逸文には女〔闕「王」〕國が登場している。
事実と仮説を合わせての推論
女王国は玄界灘諸国連合〜北部九州連合時代から存在していた。
即ち「女王国<>邪馬臺國」は仮説として成立し得る。
これ、本当?
元の発言 [ Re: 弥生と古墳と戦国の共通項 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 7月17日(火)12時47分08秒 ]
>> >> 戦国時代は、そうじゃないです。
>> >> Aさんは、Bさんと主従関係を結ぶ、というのは、あくま
>> >> で、AさんとBさんの関係であって、AさんとBさん以外の
>> >> ところではぜんぜん無関係だから、AさんはCさんと主従
>> >> 関係を結ぶこともある。明智光秀などは、当初は、
>> >> 足利将軍(名前なんだっけ?)の家臣でもあり、信長の
>> >> 家臣でもあるという関係だったわけで。
>> >> 国境というのも、ようするに、村の村長さんをはじめと
>> >> する人々が、「どの土豪にくっつくか」とかそういう話
>> >> ですよね。武力で強制されることもありますけど。
>> >> 江戸幕府の成立は、結局、「生き残っている大名は全部
>> >> 家康の家臣になった」ということから始まった制度です
>> >> し。
>> >> こういう観点で、古墳時代の始めのほうを見るとどういう
>> >> ことになりましょうか。
>> まあ、何と言うか。
>> 村の長老や指導者が、どの国(村と言ったほうが良い)につくか決めて居たんでしょうが。
>> 力関係のバランスを見て、自分に有利な相手につくのが普通でしょう。
>> 弥生の乱世においてもある程度首都が、作られていることは、発掘から想像され始めているらしいし。
>> 特に金属器の供給に利益のを得やすい所と結びやすいのでは?
>> なんて、自明のことを書くのもなんですが。
>> 古墳の初めのころなんと言っても戦国の真っ只中なのは、変わらないし、社会として弥生の戦乱の中で豪族や、
>> 村長たちが古墳を築き始めたので分けているだけと書いてるうちに思うようになったんですが。
どうも、発言が的確ではなかったようです。
改めて、旅先で考えてきたことを。
まず、縄文時代にさかのぼって考えましょう。
各地に村が有り、一種の部族社会です。
最近の発掘でいちお階級社会であることも分かってきています。
この中で、仲の良い部族悪い部族があり戦争も有るわけです。
以前、テレビで見たんですが、
アフリカの部族で馬が入ってきたとき馬を持つものは、
効率良く狩りや採集ができるわけですが、
ここで貧冨の差が出始めるんですがその事に起こった老人が村を出て行くわけです。
”こんな所に居たら飢え死にしてしまう。”
と言うわけです。
此所できずくのは、厳しい自然の中で簡単に出ていけることと行き先が有ることです。
同じようなことが、起こったのでしょう。
そして、争いの種が増え、弥生の戦国時代に入って行くはけです。
この中で、部族内のリーダー争いなどで更に戦国の様相をふかめるとなると、村のリーダーは、村を守るために権謀術数限りないことになると思います。
大和武の熊襲退治や出雲武に対するだまし討ちなど当たり前のことっだ他のでしょう。
このような風潮の中では、村の生き残りをかけての合従連衡など当たり前でしょう。
その中でいくつかの村が集まり国になる。
ただしこの中での裏切りは、当たり前のことだとされていたでしょう。
この中で、勢力をアピールするのに選ばれたのが古墳作りでは、なかったろうか。
その勢力分布は、モザイクのようになってはいなかったろうか?
その中で強国がアメーバーのように侵食して行くこのようなかんじではないでしょうか。
元の発言 [ Re: Title 思い付いたこと ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 7月5日(木)20時11分08秒 ]
>> >> もう一つ、吉野ヶ里ほかの遺跡から出土している
>> >> 貝類のアクセサリってどうやって手に入れているんでしょうね?
>> >> 吉野ヶ里他北九州の遺跡のほとんどは、
>> >> 邪馬台国の勢力かであることに異存があるかたは、まず居ないでしょう。
>> >> 貝類の取れる南九州や沖縄は、
>> >> 久那国と呉の勢力下と見て間違いないでしょう。
>> >> すると、現代のように適大国貿易がなされていたんでしょうか。
>> #時代が違うっしょ。
>> #以前も書きましたが、貝輪などの製品は銅釧や巴形銅器などに取って代わられています。
>> #貝製品の元となる貝は南海産のもので、鹿児島県の出水(イズミ)辺りに半加工品が出土しています。
>> #それまで南九州の主交易品だった貝製品を北部九州の銅製品が駆逐したと言うこと、それが「素不和」となった原因の一つです。
では、大和の古墳から鍬がた石や車輪石など貝を燃した出土物が多く出てくる理由は、何でしょう?
貝製品に宗教的な意味か、何かの重要性が有ったと見るべき名のでは?
銅になったにしても、貝製品にまたは、その形に意味が有るから作られたと考えるべき名のでは?
それとも製品が手に入らないからどうで作ると考えたほうが自然では、卵かにはと理科の論議ですけど。
後それから、国立博物館の舟形埴輪示唆しぶりに見てきましたが、なんと、解説に帆柱接地用と思われる穴が有ると有りました。
解説は、ちゃんと読むべきで質問もしとくべきですね!
改めて感じました。
元の発言 [ Re: Title 思い付いたこと ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月7日(土)18時09分57秒 ]
>> 可能性としては、ただ編集者が、その重要性を見逃して
>> 削らなきゃならない古事を残しているのも多いんじゃ?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 貝類の取れる南九州や沖縄は、
>> 久那国と呉の勢力下と見て間違いないでしょう。
>>
では、どのようになっていたのでしょうか?
勢力範囲と言えば、商売にも縄張りが有りました予ね!
通商関係が、在るのは間違い内として、どの当たりの商人が、きていたのか。
庶民のというか、当時の大商人なんかの墓なんかに記録は残っていないのかな?
元の発言 [ Re: Title 日本書紀編纂者は、口述筆記? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月24日(火)13時16分13秒 ]
>> ここで、「泰始」を「泰初」と書き誤っているわけですが、まあ、発音上、
>> 「し」「しょ」で似ていることは良いとして、これってやっぱり、口述筆記
>> やっている人がいて、文字を「はじめのシ」とかいって(電報屋みたいに)、
>> で、「初」と書いたんではないかなーと思ったりします。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
間違ってたらゴメンナサイ。
日本書紀は、稗田阿礼てゆうおっさんの口述筆記録の編集だったんじゃ?
景初二年、卑弥呼は公孫氏に朝貢しようとして帯方まで使者を送った。
ところが帯方に到着してみるとそこは魏に占領されてしまっていた。
難升米はとっさに魏に貢を持ってきたと嘘をついた。
帯方占領軍の将劉夏は公孫淵が8月に滅びるまで難升米達を帯方に留め、
それから残党狩りの行われる中、案内を着けて楽浪まで送っていった。
こういう説も一部にあるようですが、皆さんはどう思いますか。
私が以前、公孫氏の滅亡の情報を得てから景初三年6月に遣使するのは
邪馬台国が畿内にあれば時間的に困難である、と発言しましたが、
この説を採用すれば畿内に邪馬台国があっても可能になります。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月3日(火)11時43分26秒 ]
>> >> >> 公孫氏三代の間は東夷からの朝貢はなかったと書いてありますから、畿内、北部九州とも中華冊封体制下
>> >> >> にあった事はないでしょう。
>> >> >> 邪馬台国が九州にあっても公孫氏の方と交易をしていたのだと思いますが。
>> >> #おっしゃる事は了解しました。
>> >> #私としては、「漢倭奴国王」印の時代から冊封体制下にあったと思います。
>> 冊封と言えば邪馬台国は魏から親魏倭王の金印をもらいましたが帯方太守から授けられたような形を取っています。
>> 「裝封付帶方太守假授汝」
>> 卑弥呼は魏の直接の家臣ではなく、帶方太守を介した陪臣のようなものだったんでしょうか。
>> >> >> 魏にとって公孫氏の為にはばまれていた東夷からの朝貢が、公孫氏が滅んで初めて邪馬台国が第一号
>> >> >> でやってきたので多いに喜んで不相応な歓待をした。
>> >> >> というのも肯けます。
>> >> #不相応と言う意味では「委奴国王」もそうですネ。
>> 私の言う不相応は
>> 「今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬」
>> の部分なんですが。
>> 使者に対してまで魏の官位を与え、銀印を授けています。
>> >> >> 北部九州なら半島や中国情勢に対して、より敏感に反応し、かつ機敏な行動が可能だと思いますね。
>> >> #でしょー。(^○^)
>> >> #六世紀の磐井も百済支援に反対し、大和は半島情勢を把握していなかった。§^。^§
>> そう言えば大和だけでなく高句麗も魏の冊封体制下に入るのを嫌って反乱を起こしていますね。
>> 多分、不利と判っていても戦ってしまうなんて、北条時宗の元寇に対する態度に似ている?
>> 高句麗も神風頼りの戦争をする民族だったのかな?(^^;
STOP 公孫氏の作らせた剣が日本の古墳から出ているってこないだのテレビ番組でやってたけど、それは、何を意味するのかな?
確か銘文の、とのときの解釈は天下への野心だったと思うけど??
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月23日(月)02時00分55秒 ]
>> 考古学的証明が無いのは邪馬台国論議全般に云える事で、、。
>>
>>
通説が正しいのなら、古代史がこんなに百花繚乱にならないのでは?
一度、通説を否定する意見をじっくりと理解する人達が増えてこないといけないのでは?
通説といえども、あくまでも“仮説”のはず。
一度、“仮説”を立てても、理論展開をしてゆくうちに、いつのまにかこの“仮説”であったものを忘れている
人が多いように思えます。
今、異説といわれている意見がだされても、論拠をあげて反論するという人をあまり見ないように思えます。
このへんが、古代史学会が混乱している根幹ではないでしょうか。
元の発言 [ Re: 倭人伝の王って柵封体制の王位? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 7月22日(日)20時30分04秒 ]
>> >> 伊都国は「世有王」とされていますが、中国と直接通じてはいません。
>> #銅鏡の大量副葬と壁の出土が中華王朝に認可された王であることを示しています。
柵封体制と言うけどどの程度の意味が在るのか。
豊田 有恒(この字で良かった名かな)さんの本を読んでから考えると意味に天地の幅が、有るように思うけど。
ただ、中国が、その国の政権を承認したと言う意味から始まって保護国まで大きな幅が有ると思うけど、どう見分けるの?
元の発言 [ Re: Title 「ローマ文化王国 新羅」っつう妙な本 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月23日(月)11時57分09秒 ]
>> さて、内容は、ってまだ読んでません。時間なくて、、、。
>>
新羅の古墳からは、鏡の副葬例がほとんどない。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
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>>
>>
>>
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>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
なんか、サエグサシキとかなんとか別の歴史書があるらしいんだけど、これ日本歴史書か?てほど半島のことを書いているらしいけど。
これには、参照されてるの?
それから、日本にきていたのは、ローマ人じゃなくカルタゴ人何んじゃ?
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 7月23日(月)18時16分26秒 ]
こんばんは
>> >> >> 帯方郡治より、邪馬壹国に至る里程が記されています
>> >> 魏志倭人伝には「自郡至女王國萬二千餘里」と書かれています。
>> >> 女王国と言ったほうが紛らわしくなくていいですけど。
>> 女王国というのは、固有名詞でしょうか?
>> 「郡より女王國に至る、萬二千余里」とありますが、その前に、「南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日・陸行一月」とあります。
>> この個所をうけて、女王国と書かれていると考えるのがまともではないでしょうか。
>> したがって、国の名前は「邪馬壹国」でしょう。
女王国が女王の居る国を指すと考えて、(倭国の)女王が都とした邪馬壹国が女王国にあたると考える事じたいはいいと思いますが、それで矛盾が生じないかが問題です。
邪馬壹国の直後の文章に、普通は文の途中に入らない作者の注記的文が入っており、それは、
「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」
と女王国までは戸数と道の里数を載せているというものです、日数で書かれた邪馬壹国は、この文と矛盾していますよね。
この矛盾に陳寿が気づかないはずはないでしょう。里数に直すか、逆に自女王國以北其戸數道程とかに文を直さなかった以上は、女王国と邪馬壹国を違うものと考えていたからと思えます。
元の発言 [ Re: 女王国は ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月20日(金)20時06分01秒 ]
>> 里数を知らない倭人あいてに、里数でどのくらいとは聞かなかったでしょうね。
>> どのくらい離れているのかを聞いて、日数で答えたのでしょう。
>>
同じという事は、倭人からは里数の答えは得れないって事でしょ。
総計をだすためにも、日数を直す必要はあったのに、邪馬台国と投馬国だけ日数を残す理由が、倭国は里数をしらないからじゃ理由にならない。
里数に直す直さないの判断は、最終的には三国志を編纂する段階の陳寿にあったのだから、自分が付け(または残し)た注記と矛盾する記述をするのはおかしい。
>> 一大率がいて、女王国に統属していた伊都が倭国でないという意見は無茶だと思います。
>>
>>
>>
>>
>>
一大率は女王国も検察していたんですよ、倭国じゃないから置いた総督府がお膝元の倭国の国まで監察するのは普通ありえないでしょ。
仮に邪馬台国と女王国は違う国で、里数のある不弥国が女王国なら総督府的な考えもまだわかりますがね。
任那日本府の管理が、ヤマト政権のお膝元の地域まで行ったでしょうか?
太宰府は京の都まで監察したのでしょうか。
>>
>>
>>
あれ、倭国だから投馬国も里数でなく日数標記と言われてたと思ってました。
では、歴年乱れて卑弥呼を共立した倭国は、邪馬台国とその周辺の名前しかない国だけですか?
それで、北部九州を 卑弥呼の権威で検察した一大率はその行為をよくできましたね。
共立に参加しなかった国々が卑弥呼に従う理由なんてないでしょう。卑弥呼は狗奴国と争って、魏に助けを求めているくらいの国ですから。
>> では、それに従って
>> 1)は自女王国以北の文からありえませんね。他国を一大率が検察したはずありません。
>>
>>
>>
>>
倭国でない国を統合した力はみせつけるくらいですから武力ですか?
邪馬台国7万と他国の人口と狗奴国の勢力を考えると、一月以上も離れた地を統合できる武力があったのでしょうか?
仮に、そこまでの武力なら遺跡に残りそうな気がしますが。
>> 2)女王国の東渡海して倭種の国があるから、これも違います。
>>
>>
2)の意味するところは「女王国は倭人の住む領域を表す。」という可能性があると挙げたわけでしょ。
だから、女王国の東にも国があって、そこにも倭人がいる以上は、2)は成り立たないから違う(女王国は倭人の住む領域を表さない)としたんですよ。
北部九州が倭国でないというのは納得できませんが、その立場なら1)はありえるわけですね。
でも、3)は、里数で書かなかった以上ありえませんね。そこから、日数地域を倭国とする以上は、1)もありえなくなります。
元の発言 [ Re: 倭人伝の王って柵封体制の王位? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 7月24日(火)17時40分36秒 ]
>> >> >> 伊都国は「世有王」とされていますが、中国と直接通じてはいません。
>> >> #銅鏡の大量副葬と壁の出土が中華王朝に認可された王であることを示しています。
>> 柵封体制と言うけどどの程度の意味が在るのか。
#「中国と直接通じてはいません」に対するレスであって、「冊封体制」云々とは別ですが、
>> 豊田 有恒(この字で良かった名かな)さんの本を読んでから考えると意味に天地の幅が、有るように思うけど。
>> ただ、中国が、その国の政権を承認したと言う意味から始まって保護国まで大きな幅が有ると思うけど、どう見分けるの?
#その本は読んでないので良くわかりませんが、
#「冊封」と言うのはその国の誰かに位を授けることによって外臣とすることで結果的にその国全体を属国とし、皇帝の権威を高め、
#授爵したものは中華王朝の後ろ盾が国内での権力強化になった。
#と言うことでしょう。
#倭の五王が追加叙勲を欲したことは「冊封体制」の下での半島支配権を得ようとしたわけで、
#一部しか授爵されなかったということは「冊封体制」の中に位によるランク分けがあったとは言えるけど、国としての扱いに幅があったと言えるのかどうか。
#伊都国云々と言うこととは別の話だし。
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月23日(月)01時57分54秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
#石棺の石材で関係が有りませんでしたでしょうか。
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月23日(月)01時52分17秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#今までで、最も核心をついてる発言でしょう。
#これこそが「多元史観」だと。§^。^§
#考古学的にも、大和から百済系の文物が出土する時期の北部九州からは新羅系の文物の出土は半島との自主的交流を物語っています。
#「磐井の敗戦」以後大幅に封じられるまでは北部九州の独立性が保たれていた。
#先月から適当に思い付いたのを脈絡なく。
#古事記でも、日本書紀でも
#ギは、男神をあらわし、ミは女神をあらわすと
“仏教用語に「伊舎那天」(いしゃなてん)という言葉があります。
「伊舎那」は梵語の音訳で、「伊邪那」とも書き、支配者の意味だといいます。
『古事記』の編纂者は、「伊邪那天」という言葉を知っていたのではないでしょうか。
そして「天の地堅めし去来子等」を、「伊邪那天」の「天」を「岐」と「美」に置き換えて表記、上代日本建国の主人公として描き出したのです。
まさに建国の主人公、「支配者(殿す人)」にふさわしい名前です。“
#この件
#伊舎那天とは、胎蔵界曼荼羅の外苑の東北の鬼門を守る三個か三叉戟を担ぎ髑髏の血杯をかざしている鬼神でしょう。
インドで破壊をつかさどる正体不明の神(アーリア人の神ではない)と聞きます。
また暴悪の性質も持つとも。
依然読んだ小説では、源義経の幼名の遮那王もこれからきており、鞍馬寺ではこれをサナートクマラ、魔王尊と呼んで祭っていると。
また、“この天喜ぶ時、諸尊もともに喜びこの天怒るとき諸尊も怒り天地は荒廃するであろう。”なんて仏典には書いてあるとうんちくされてました。
ついでに、この神は神道ではどんな神かと聞かれたキャラが、スサノウの命と答えたが、間違いでそれはイザナギの命だと解説がされてます。
創世神がなぜと?シバ神みたいなものかと思ってたんですが、変な所でつながってますね。
“岳南『秦・始皇帝陵の謎』(講談社現代新書1994)P-46に、「青銅剣の驚異」が紹介されています。
始皇帝陵で発掘された「青銅剣」に、20世紀半ばになってドイツ人が発明、特許をとったメッキ技術が使われていたそうです。
『史記』が伝える徐福の「東渡」が事実で、その渡来地が上代日本「天」ならば、「倭5王時代の関東の古墳から出た剣」が優れものであって不思議ではありません。
また上代日本における「関東」の役割も、根本的に見直すべきでしょう。
千葉県南部の「天津」、「一宮」付近から、関東内陸部の「秩父」、「宇都宮」にかけて、今後「日本古代史」を覆す発見が出てくる予感がします。“
ちと、異議有り。
どういう訳か中国は、鉄について弱点を持つ傾向が、ある。
銅や他の合金類やその処理においては、信じられないほどの技量を示す反面(何しろジュラルミンの腕輪さえ出土しているらしい)、鉄だけは、超一流の折り紙をつけかねます。
この時代の鉄の超一流は、現在のところ中東からインド特にシリアのダマスカスでしょう。
そして、日本では、何時頃から鉄を作ったり使ったりし始めたのでしょう。
始皇帝のころには、中国でも鉄が使われ始めています。
ですが、やはり主力は銅のようですよ、史記に始皇帝が古墳を盗掘して銅剣を奪おうとした記事が見えますしね。
漢代でも、武器としてはかなり銅が使われたのでは?
中国のだ銅剣は、へたな鉄剣より強いと聞くから、ある分仕方ないけど。
日本で、製鉄がほんとに行われるようになったのは、何時頃なんだろう。
中東からインド日本と海のネットワークが、有ったことは皆さんうすすみとめていると思うけど。
これ、鉄のネットワ−クでも有ったんじゃないのかな?
大分に、まだ認められていなくてオーパーツ扱いだけど縄文時代の製鉄後とみなされる遺跡があるらしいし。
それと、これは、かなり後になるんだけれど、九州や西日本の刀鍛冶が東北との間を行き来しながら作刀していた気配がある。これ縄文期からのネットワ−クなんじゃ?
稲作など、縄文晩期から行なわれたことは、菜畑遺跡で証明されてるし。
かなり進んでいたんじゃ?
元の発言 [ 女王国邪馬臺國 ? ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 7月24日(火)01時14分06秒 ]
由さん 始めまして こんばんは
マルセと申します。
>>後漢書からの引用として「卑弥呼宗女[冠去脚冖至](臺)與」を引いている。
後漢書は魏の時代の内容については書かれていませんから、当然、魏の時代の人物である臺與はでてきません。「翰苑」のこの部分については、写本の段階でか、それともオリジナルの段階でかはわかりませんが、引用元を間違えています。
たぶんこの部分も魏略からの引用だったのではとマルセは思います。確証はありませんが。
本題とは関係ないのですが
今、国立博物館でやっている「天神さまの美術」で
「翰苑」の本物が展示されています。
東京近郊在住なら必見!
この「翰苑」を書き写した人は字があんまりうまくないですね。誤字脱字も多いし。
元の発言 [ Re: Title 妙な本!ではチャチャを一つ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月24日(火)19時56分42秒 ]
山幸彦の話は出てきますか。
井戸端の香木の上から,婢が水をくんだ玉器に,
山幸彦が首輪の玉を解いて玉器に吐き入れたら,
首輪の玉が玉器について離れなくなった云々。
ローマングラスのことなんでしょうかね,,,(^^?
曲玉だとしたら,ペルシア風取っ手付きのカップか,
なんて説も・・・取っ手付きの土器か何かは,
日本でも例外的に出土したらしいけど。
それと,この山幸彦の容貌が,「ただひとにあらず」とされ,
天の顔でも地の顔でもなく,「そらつひこ」と呼ばれている点。
宗教的な意味合い以外に,そういうのがあるんでしょうかね,,,(^^?
元の発言 [ 国宝「翰苑巻第三十」 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 7月24日(火)22時14分19秒 ]
マルセさん今晩は、由です。
レスポンス、ありがとうございます。
義略と義略のタイプミスが多くて、お恥ずかしいです。
>> >>後漢書からの引用として「卑弥呼宗女[冠去脚冖至](臺)與」を引いている。
>> 後漢書は魏の時代の内容については書かれていませんから、当然、魏の時代の人物である臺與はでてきません。「翰苑」のこの部分については、写本の段階でか、それともオリジナルの段階でかはわかりませんが、引用元を間違えています。
うーむ、確かに後漢書にはこの記述はありませんね。
引用元をあたるという基本作業を怠っていました。申し訳ありません。
ご指摘ありがとうございます。
>> たぶんこの部分も魏略からの引用だったのではとマルセは思います。確証はありませんが。
この可能性は多分にありますね。
そうだとすると私の作業仮説が崩れてしまいます。
とりあえず、根拠は乏しいですが、別の可能性を挙げてみます。
後漢書からの引用として翰苑が記しているのは
安帝永初元年有倭面上國王師升至
桓遷(靈)之間倭國大乱更相攻伐歴年無主
有一女子名曰卑弥呼死更立男王國中不服更相誅殺復立卑弥呼宗女[冠去脚冖至](臺)與年十三爲王國中遂定
其國官有伊支馬次曰弥馬升次曰弥馬獲次曰奴佳[革是]之也
という文です。
後漢書と記述がほぼ一致するのは、
安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主
有一女子名曰卑彌呼
魏志と記述がほぼ一致するのは、
更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定
官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳[革是]
従って「翰苑は後漢書と魏志とをゴッチャにして後漢書からの引用と記した」
う〜ん、ちょっと苦しいですかねぇ。
それよりも、後漢書と魏志き両書の元となった魏略からの引用とする方が素直なのかも知れません。
ですがまぁ、取り敢えずはどちらとも決められないので、私個人としては
「魏略の元となった資料には、玄界灘諸国連合〜北部九州連合時代を記述した資料があり、その資料には女王国の記述があった。」
を仮説として提唱します。
なお、この魏略に登場する「女王国」は玄界灘諸国連合or北部九州連合の総称だと考えています。
ちなみに魏志倭人伝については、
「女王国の定義は魏略と同様。その範囲を超えた広域連合については「女王」と記している。」
と考えています。
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ おんじ ] 日付 [ 7月24日(火)19時00分37秒 ]
>> 邪馬壹国の直後の文章に、普通は文の途中に入らない作者の注記的文が入っており、それは、
>> 「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」
>> と女王国までは戸数と道の里数を載せているというものです、日数で書かれた邪馬壹国は、この文と矛盾していますよね。
>> この矛盾に陳寿が気づかないはずはないでしょう。里数に直すか、逆に自女王國以北其戸數道程とかに文を直さなかった以上は、女王国と邪馬壹国を違うものと考えていたからと思えます。
A 矛盾などないでしょう。
1 陳寿が気づかなかったとしても、正史である以上、西晋朝の史官や天子を取り巻く官僚たちが気づくのでは?
2 斐松之の注もないということは、五世紀頃の資料にも矛盾がないとは考えられていたのでしょう。
B 里程と日数につても同様でしょう。
1 まず、「倭人は帯方の東南大海の中にあり、…
南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日・陸行一月。… 郡より女王國に至る、萬二千余里。」ですが、
ずうっと里程を記してきて、邪馬壹國に至りました。
それの総日数が、「水行十日・陸行一月。」となるのでしょう。
2 これは、塞曹掾史の張政が来ています。
塞曹掾史というからには、軍事司令官でしょう。
なんのために、軍事司令官を派遣したのかを考えれば、わかると思います。
すなわち、万一、魏朝に貢献してきている(臣下とみなしている)倭国と狗奴國(臣下とは見なしていない)とが抜き差しならぬ事態になれば、魏朝のメンツにかけても、倭国を支援するでしょう。
そのとき、距離・日数がわからなければ、兵員・食料・輜重といった戦争の準備はできないはずです。
元の発言 [ Title景初二年 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月1日(日)09時13分21秒 ]
>> 景初二年、卑弥呼は公孫氏に朝貢しようとして帯方まで使者を送った。
>> ところが帯方に到着してみるとそこは魏に占領されてしまっていた。
>> 難升米はとっさに魏に貢を持ってきたと嘘をついた。
>> 帯方占領軍の将劉夏は公孫淵が8月に滅びるまで難升米達を帯方に留め、
>> それから残党狩りの行われる中、案内を着けて楽浪まで送っていった。
>> こういう説も一部にあるようですが、皆さんはどう思いますか。
>> 私が以前、公孫氏の滅亡の情報を得てから景初三年6月に遣使するのは
>> 邪馬台国が畿内にあれば時間的に困難である、と発言しましたが、
>> この説を採用すれば畿内に邪馬台国があっても可能になります。
* 景初三年6月は誤りでしょう。
景初3年6月だとすると、以下に記す矛盾が発生します。
朝貢に対して、魏は下賜品を与えるに際し、天子(明帝)は、詔勅を発しています。
しかし、その天子は、景初3年の正月に死んでいるのです。
そこで、このときの状況を、すこし記します。
A 帯方郡から洛陽までは、魏の役人が護衛をつとめています。(こんな例は過去にはありません。)
B 使者は2人だけで、しかも貢物は「男奴隷四人、女奴隷六人、布二匹二丈」という少なさです。
C このわずかな貢物に対して、魏の側では不釣り合いな下賜品を与え、さらに、詔勅まで発している。
D つまり魏側は、この貢献を非常に喜んでいる。
つまり、狗奴國との情勢がかんばしくなく、魏の支援を求めるための手を打ったのではないでしょうか。
それが、正始8年に倭載・斯烏越等を遣わし、塞曹掾史張政等を送ってくることになったのでしょう。
倭国に、先を読むことのできる優れた外交官がいたと思われます。
元の発言 [ Re: Title 妙な本!ではチャチャを一つ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月25日(水)00時30分44秒 ]
神武東遷譚にはトルコ系神話を含む,という説があるから,
そういう関心と天皇家のルーツ関連もある本なのかと考えたわけです。
あるいは常世思想との関連。
地中海文化が極東にもたらされたばかりでなく,
政治的に連動していた,という辺りがスゴミでしょうな。
# ロシア南部の遊牧民族系って,ツラン?
もっとも,仏像なんかもギリシャ起源ですよね。
ちなみに,
タミル語関連で,インダス文明は地中海起源か,という一説があったかも。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 7月25日(水)16時43分35秒 ]
かまくら龍さん、はじめまして
>> * 景初三年6月は誤りでしょう。
>> 景初3年6月だとすると、以下に記す矛盾が発生します。
>> 朝貢に対して、魏は下賜品を与えるに際し、天子(明帝)は、詔勅を発しています。
>> しかし、その天子は、景初3年の正月に死んでいるのです。
>> そこで、このときの状況を、すこし記します。
>> A 帯方郡から洛陽までは、魏の役人が護衛をつとめています。(こんな例は過去にはありません。)
>> B 使者は2人だけで、しかも貢物は「男奴隷四人、女奴隷六人、布二匹二丈」という少なさです。
>> C このわずかな貢物に対して、魏の側では不釣り合いな下賜品を与え、さらに、詔勅まで発している。
>> D つまり魏側は、この貢献を非常に喜んでいる。
私も景初2年で間違いないと思います。
Aについては公孫氏の平定が未だ終わっておらず、道中の安全を保証するためと考えています。
BとCについては、出発時点ではもっと多くの貢物、生口
だったのが途中で失われたということも考えられます。
(そのことがAにつながったのではないでしょうか)
こんにちは。
以前もちょっと話題になった、石野博信氏の、「邪馬台国の考古学」を遅まきながら読みました。
鏡について興味深いデータがでていたので、いろいろ考えてみます。
石野氏の議論というのは、卑弥呼の鏡として、三世紀中葉(240〜270)の
土器(庄内2・3)と共伴する(つまり、庄内2〜3併行時代に副葬・破棄された)鏡の
種類・地域を検討するというものですが、前提として、いくつかの問題があります。
第一には、石野氏の年代観は、布留0=三世紀後葉なので、布留0=三世紀中葉とする立場
からすれば、当然、石野氏のいう「卑弥呼の鏡」は、三世紀前葉、つまり、公孫氏との
交流を背景としたものということになります。
第二には、三世紀中葉土器との共伴鏡というのは、当然、「三世紀中葉に列島に流入・流通し
た鏡」+「それ以前に流入・流通して伝世したもの」であり、また、三世紀中葉に流入したもの
でも、後の時代まで伝世するものもあるわけですから、3世紀中葉土器との共伴鏡といっても、
厳密に、出土年代から流入年代を特定するのは困難といえます。
第三に、国産鏡と、中国鏡の弁別の問題があります。
平原王墓の鏡がすべて国産鏡だという議論がありますが、してみると、三世紀に各地からでる
方格規矩鏡・内行花文鏡にも、同系のものがあるのでしょうか?
この問題はどうもよくわからないのですが。古墳からでる漢鏡4・5期の鏡が、100年だか
それ以上伝世したものという議論は、平原のケースからみて疑問なのですが?
第四に、土器と共伴しない鏡というのも当然あるでしょうし、それらは、石野氏のデータから
除外されているわけですが、量的には多いのか少ないのか、年代解釈次第ではデータに影響を
あたえるのかどうか、いまいちよくわかりません。
以上のような点をふまえつつ、庄内2〜3併行時代に副葬・破棄された鏡に関する石野氏の
データ(総計60枚)を検討します。
(1)鏡の量の面で、特に突出した地域はない。
九州 10枚
中国 18枚
四国 11枚
近畿 14枚
その他 7枚
です
(2)地域差がある
同時代に副葬・破棄された鏡なのですが、地域差があるんですね。
石野氏は、後漢式鏡(方格規矩鏡・内行花文鏡・飛禽鏡)と、神獣鏡系(画文神獣鏡・獣帯鏡・
四獣鏡)に分類しているのですが、
近畿内陸(大和・近江・山城)と四国北部 神獣鏡系が多い
九州・中国 ・大坂湾岸 ほぼ後漢式鏡
なんですね。これをどう理解すべきか?
(3)布留0に先行して出土する画文神獣鏡とは?
庄内2・3だから、当然、画文神獣鏡の時代なのですが、石野氏のあげているのは、
ホケノ山古墳の二面と、徳島萩原の一面、計三面だけなんですね。
あとの画文神獣鏡は、三角縁神獣鏡の出土時代に、併行してでてくるということ?
このへんもどう理解するか。
以上、疑問点を上げてみましたが、この、出土年代を検討するというのはとても
面白いと思います。庄内2・3だけでなく、弥生第五様式の終わりから、布留0くらいまで、
検討したら、どうなるでしょう?
絶対年代はともかく、相対編年で鏡の出土状況の変遷をみたら、いろいろわかりそうですが。
元の発言 [ Title:三世紀中葉の鏡 ] お名前 [ ふうらん ] 日付 [ 7月25日(水)22時04分43秒 ]
>> (1)鏡の量の面で、特に突出した地域はない。
>> 九州 10枚
>> 中国 18枚
>> 四国 11枚
>> 近畿 14枚
>> その他 7枚
>> です
# ところが九州10のうち筑前1は那珂八幡の布留1が入ってしまっていますので、これは除外すべきですから、9になりますね。
また、北部九州と宇佐赤塚を通算して考えるよりも、四国と山陽は通算した方が実態に合うように思います。
さらに、畿内は第V様式分布域全域を同一エリアと考える立場にたつと播磨もエリア内ですから計19となって、かなり突出します。対照的に、九州が落ち込んでいる状態のように見えます。
しかしこの表、奥3号の三角縁を数えて権現山を入れないとか、どういう基準でリストアップしたのか解りづらいですね。
元の発言 [ Re: Title:三世紀中葉の鏡 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 7月25日(水)23時30分05秒 ]
>> # ところが九州10のうち筑前1は那珂八幡の布留1が入ってしまっていますので、これは除外すべきですから、9になりますね。
>> また、北部九州と宇佐赤塚を通算して考えるよりも、四国と山陽は通算した方が実態に合うように思います。
>> さらに、畿内は第V様式分布域全域を同一エリアと考える立場にたつと播磨もエリア内ですから計19となって、かなり突出します。対照的に、九州が落ち込んでいる状態のように見えます。
>> しかしこの表、奥3号の三角縁を数えて権現山を入れないとか、どういう基準でリストアップしたのか解りづらいですね。
#ありがとうございます。
なるほど、データのみかたでいろいろあるわけですね。
相対編年でみても、なかなか特定の時期の、副葬品を
特定するのは難しいというこになるのでしょうか。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 7月25日(水)16時43分35秒 ]
かまくら龍さん、今日は。
>> つまり、狗奴國との情勢がかんばしくなく、魏の支援を求めるための手を打ったのではないでしょうか。
>> それが、正始8年に倭載・斯烏越等を遣わし、塞曹掾史張政等を送ってくることになったのでしょう。
>> 倭国に、先を読むことのできる優れた外交官がいたと思われます。
についてはやや疑問ありかなと思います。
魏が公孫氏を討つ決意をして景初二年二月ころ洛陽を発ったと言う情報を、邪馬台国が例えば九州にあったとしても
4月頃に入手出来たでしょうか。
帯方郡を6月に落としたのも魏は公孫氏の裏をかく為、かなり隠密裏に事を運んだと思われます。
したがって公孫氏に朝貢する為に出かけたが帯方郡は魏の支配下になっていた。
そこで難升米は公孫氏に朝貢する為に来たのではなく魏に朝貢する為に来たと咄嗟の嘘を言った。
と考えるのが妥当だと思います。
あるいは魏の方に魏の国内向けに政治的に利用する意図があって、公孫氏に朝貢する為に来た倭人を魏に朝貢に来た事にした。という可能性もあります。
元の発言 [ チャチャを一つ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 7月25日(水)19時48分32秒 ]
>> 神武東遷譚にはトルコ系神話を含む,という説があるから,
>> そういう関心と天皇家のルーツ関連もある本なのかと考えたわけです。
>> あるいは常世思想との関連。
>> 地中海文化が極東にもたらされたばかりでなく,
>> 政治的に連動していた,という辺りがスゴミでしょうな。
>>
>> # ロシア南部の遊牧民族系って,ツラン?
>>
>> もっとも,仏像なんかもギリシャ起源ですよね。
>> ちなみに,
>> タミル語関連で,インダス文明は地中海起源か,という一説があったかも。
スキタイなどの遊牧民との関係は、面白いのですが、匈奴やフン族とはどうなんだろう。
また、個人的には、滅びたカルタゴ(抹殺されているらしいが高度な文化を持っていたようだ)
それより千年ほど前で良かったのかな、ヒッタイトを滅ぼしたなぞの海の一族なんかが日本にきていたなんて面白いと思うけど。
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月25日(水)00時32分34秒 ]
>> #石棺の石材で関係が有りませんでしたでしょうか。
>>
>>
先月書いたんですが、阿蘇の凝灰岩は、最近発掘された推古天皇の墓なんかで使われているようですね。
また、発掘された日本列島を見にいったときに、聞いてみたんですけど、まだまだ例が有るようですよ。
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月26日(木)13時20分35秒 ]
>> 先月書いたんですが、阿蘇の凝灰岩は、最近発掘された推古天皇の墓なんかで使われているようですね。
>> また、発掘された日本列島を見にいったときに、聞いてみたんですけど、まだまだ例が有るようですよ。
>>
確かに、時代は違いますが、私の記憶違いでなければ
近い時代の箱石石棺などはかなり広域に
取引きされている節が有ります。
古墳時代の初期に卑弥呼の時代が設定されるならば無視できない内容だと思います
先月も話題となっていた72号の庄内土器九州先行説が、さらに詳しくでていました。
以前から疑問に思っていたことがだいたいはっきりしたのですが、
安本氏の議論というのは、ようするに、現在の土器の併行関係に関する議論を完全に
否定しているんですね。
つまり、九州においては、西新式(庄内併行)を三世紀とする柳田編年を支持し、
畿内においては、庄内式を四世紀前半とする関川編年を支持するというわけです。
柳田九州編年と、関川畿内編年をくっつけると、当然、九州の方が、庄内は80年くらい、
布留式で50年くらい先行することになる(!?)
いうまでもなく、関川氏自身、自分の編年が九州編年と100年から数十年ずれている
ことを率直に認めているわけで、別に、併行関係を否定しているのではないわけです。
今回登場した、季刊邪馬台国編集子の編年案では、柳田九州編年の土師器Iaの時代が畿内の
庄内初現、土師器Ubの時代が、畿内の布留初現に相当するそうです。
ちなみに、年代の根拠としては、
神獣鏡の形式も原料も、華南のもので、四世紀以降の流入だから、
畿内庄内のホケノ山も四世紀である。
箱式棺墓からでる小型倣製鏡の原料が三遠式銅鐸と同じだから、
九州の箱式棺墓時代、畿内は銅鐸時代である。
と、いうことなのですが(その他いろいろありますが)
あと、以前も書いた蝙蝠紐座式内行花文鏡(岡村編年での6期)はどうでしょう?
この鏡の日本と中国での出土年代は、どのへんまで溯るのですか?
安本氏は、徐平方氏の議論を引用して、魏鏡だとしているのですが。
元の発言 [ Title:季刊邪馬台国73号の土器編年 ] お名前 [ ふうらん ] 日付 [ 7月26日(木)20時29分46秒 ]
>> 神獣鏡の形式も原料も、華南のもので、四世紀以降の流入だから、
>> 畿内庄内のホケノ山も四世紀である。
>> 箱式棺墓からでる小型倣製鏡の原料が三遠式銅鐸と同じだから、
>> 九州の箱式棺墓時代、畿内は銅鐸時代である。
# 出典は何なのでしょう?
馬淵・平尾の鉛同位対比法による分析結果では、前漢鏡と、弥生イ方製鏡の大部分、近畿式・三遠式銅鐸が共通の材料です。また、後漢鏡と三角縁神獣鏡が共通の材料で、呉鏡がまた別の材料です。つまり全く逆の結論になります。
>> 以前も書いた蝙蝠紐座式内行花文鏡(岡村編年での6期)はどうでしょう?
>> この鏡の日本と中国での出土年代は、どのへんまで溯るのですか?
# 中国で発見された蝙蝠座内行花文鏡は、104年、132年、167年、190年、191年の紀年をもつ文物と共伴して出土しています。2世紀の鏡と考えるのが妥当です。もちろん伝世してもう少し新しい遺跡から出ることもあるでしょう。楽浪で7期の鏡と共伴した例があります。しかしこれを魏鏡と見なす理由は私には理解不能です。日本では主に弥生V期の箱式石棺から出ます
元の発言 [ Re: Title:季刊邪馬台国73号の土器編年 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 7月26日(木)22時48分32秒 ]
#いつもいつもありがとうございます。
>> 馬淵・平尾の鉛同位対比法による分析結果では、前漢鏡と、弥生イ方製鏡の大部分、近畿式・三遠式銅鐸が共通の材料です。また、後漢鏡と三角縁神獣鏡が共通の材料で、呉鏡がまた別の材料です。つまり全く逆の結論になります。
#なるほど。
してみると、どうなのでしょう三世紀には、「前漢鏡と、
弥生イ方製鏡の大部分」系の原料の国産鏡(平原もこれ
にはいる?)と、「後漢鏡と三角縁神獣鏡」系の原料の
輸入鏡が混在していたのでしょうか?
すると、原料で、国産、舶来を弁別することは、
できるのでしょうか?
>>
>>
>> # 中国で発見された蝙蝠座内行花文鏡は、104年、132年、167年、190年、191年の紀年をもつ文物と共伴して出土しています。2世紀の鏡と考えるのが妥当です。もちろん伝世してもう少し新しい遺跡から出ることもあるでしょう。楽浪で7期の鏡と共伴した例があります。しかしこれを魏鏡と見なす理由は私には理解不能です。日本では主に弥生V期の箱式石棺から出ます
#なるほど。
問題がかなりよくわかりました。
以前も、位至三公鏡が、実は魏の初現でなく、後漢末の
初現という議論がありましたが、もっと凄いですね。
してみると、徐氏の、「魏代の内行花文鏡は蝙蝠座紐式に
なる」というのは、魏代につくられた内行花文鏡の
倣古鏡が、従来からあった蝙蝠座が主流になるということ
でしょうか?
ちなみに、「弥生V期の箱式石棺」というのは、庄内併行
以前でしょうか?
安本氏は、「箱式石棺=三世紀=邪馬台国時代」として
いるで、そのへんが誤解の原因?
安本氏は、HPで、蝙蝠鈕座内行花紋鏡が、「魏鏡である
ことが確か」で「福岡県からは非常にたくさん出る。けれ
ど、奈良県から一枚も出てきません」という「反論不能の
客観的根拠」で邪馬台国を論じるべきだとのべているの
ですが、結局はすごい誤解?
元の発言 [ Re: Title:季刊邪馬台国73号の土器編年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月27日(金)00時10分24秒 ]
>>
#後漢=三角縁なら、決定的という感じですが、
安本本では、どうなのでしょう?
下のデータにも、後漢鏡はないですね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#どうも、安本氏が挙げている邪馬台国時代の九州の遺物
というのは、200年前後のものみたいですね。
この時期も邪馬台国時代といえなくもないし、(180年
頃を邪馬台国の開始とみる議論も多いのですから)200
年前後に限定すれば、九州の優位も主張できなくもない
ということでしょうか。
>>
#意外と最近まで九州説だったのですね。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月26日(木)11時12分25秒 ]
>> 魏が公孫氏を討つ決意をして景初二年二月ころ洛陽を発ったと言う情報を、邪馬台国が例えば九州にあったとしても
>> 4月頃に入手出来たでしょうか。
>> 帯方郡を6月に落としたのも魏は公孫氏の裏をかく為、かなり隠密裏に事を運んだと思われます。
>> したがって公孫氏に朝貢する為に出かけたが帯方郡は魏の支配下になっていた。
>> そこで難升米は公孫氏に朝貢する為に来たのではなく魏に朝貢する為に来たと咄嗟の嘘を言った。
>> と考えるのが妥当だと思います。
>> あるいは魏の方に魏の国内向けに政治的に利用する意図があって、公孫氏に朝貢する為に来た倭人を魏に朝貢に来た事にした。という可能性もあります。
1 まず、“咄嗟の嘘を言った”というような推論を持ち出すようなことが気になります。
“誤記である”、“自らを目だたさせるために、誇大な表現をした”というような、自分の結論を先に決めておいて、それに合わせて原文を改訂したり、推論を持ち出すのはどうかと思います。
2 また、魏朝としても、“公孫氏に朝貢する為に来た倭人を魏に朝貢に来た事にした”というようなことが通用するでしょうか?
使者の難升米等は一時の問題としても、生口の10人は、その後スット魏朝の中に滞在しているはずですから、この魏朝の者から、いかなる理由で、生口として送られてきたかを尋ねられたら、難升米等と口裏を合わせるようなことはできたでしょうか。
A 「三国史記」に、AD57年に、新羅の第4代の王になった脱解王は、倭人だと記されています。
同様に、第1代から第4代の王に仕えた瓠公も倭人です。
ということは、倭人は、なにもこの2人しかいなかったということではないでしょう。
もっとたくさんの倭人が新羅におり、それらの倭人達
がそれなりの評価をえていたから、優れた人材であった2人が抜擢されたのでしょう。
※ 「三国史記」は、どちらかというと反倭国というような論調ですので、上記のことは事実であると考えてよいと思います。
B さらに、「三国志」には、倭国の北岸は、狗邪韓國とあります。
ということは、1世紀から3世紀にかけて、相当多数の倭人が、朝鮮半島にいたと考えられます。
C したがって、朝鮮半島の情報は、かなり早くから、また正確に倭国にもたらされていたと考えます。
現代人の感覚で、“3世紀の者は、情報収集などできなかっただろう”というような見方をしていたら、古代の真実を見つけることはできないのではないかと考えますが。
急を要さない魏使の一行が、水行十日・陸行一月で来ていますから、緊急時となれば、十分すぎる時間はあったでしょう。
元の発言 [ Re: Title 妙な本!ではチャチャを一つ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月25日(水)00時30分44秒 ]
ギリシア神話がスキュタイ人を媒体として,やがて日本まで伝わった,
という課題での研究には,吉田敦彦『日本神話の源流』(講談社現代新書)
なんかがあります。
この本では,断定的な結論〜記紀の神話体系における印欧系文化のイデオロギーと構造の決定的な影響〜としてですけどね。ただならぬ結論です。
# 分かりよすぎるというか,,,(^^;
ついでに,それによると,ヘロドトスの『歴史』からの引用として,
スキュタイ人の始祖タルギタオスは,ゼウスとドニエプル河の娘の子である,
とありますね・・・こうなると名誉白人どころじゃないかな,確かに,,,(^◇^)
# スキュタイ戦士の皮剥の風習なんかは,
# どことなくスサノヲの狼藉っぽいか。
--
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月24日(火)19時48分24秒 ]
>> 通説が正しいのなら、古代史がこんなに百花繚乱にならないのでは?
>>
>>
>>
あなたがどのような方か知りませんが、“専門家でない定年退職後の道楽歴史愛好家”というようなことを言うのは、相手が誰であれ、大変無礼なことと思います。
>>
>>
>>
>>
同志社の森浩一先生は、あなたの考えでは、考古学の専門家ではありませんか?
森先生は、考古学の“相対年代(AとBの二つの出土物の年度差)”は、かなり精度が高くなっている。
しかし、“絶対年代”は、『少なくとも50年は、ずらさないといけないのではないか』と言っておられますが…。
>> 一度、通説を否定する意見をじっくりと理解する人達が増えてこないといけないのでは?
通説(定説)がみごとに覆されたことに、
A 地動説 … これについては、なにもいいません。
B シュリーマンのトロヤ遺跡の発掘があります。
ホメロスの書いたものなど、架空の物語だというヨーロッパの学者達の“通説”は、“専門家でもなんでもない”シュリーマンが、純粋に文献を解読することにより、ヒッサリクの丘から、トロヤの遺跡をみつけたのです。
ところが、当初、ヨーロッパの学者達は無視しつづけたようですが、アメリカの学者が認めるに及んで、やっと認めるとうになったようです。
まさに、通説をかたくなに守っている、いわゆる“守旧派”こそ、異説を認めてゆくようにならないと……。
>>
>>
これは、そっくりあなたにお返しします。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 7月27日(金)10時46分25秒 ]
>> >> 魏が公孫氏を討つ決意をして景初二年二月ころ洛陽を発ったと言う情報を、邪馬台国が例えば九州にあったとしても
>> >> 4月頃に入手出来たでしょうか。
>> >> 帯方郡を6月に落としたのも魏は公孫氏の裏をかく為、かなり隠密裏に事を運んだと思われます。
1.海の民や商人たちのネットワークや情報力、この場合い文字どおり英語で言うインテリジェンスをあまりに過小評価している。
2.物資の移動だけでも必ず何か有るときがつくものが出る。
3.それが公孫氏に関係するかどうかの評価はまた別だろうけども、気がつく人間がゼロはありえない。
>> >> したがって公孫氏に朝貢する為に出かけたが帯方郡は魏の支配下になっていた。
>> >> そこで難升米は公孫氏に朝貢する為に来たのではなく魏に朝貢する為に来たと咄嗟の嘘を言った。
>> >> と考えるのが妥当だと思います。
4.これも過小評価では?
>> >> あるいは魏の方に魏の国内向けに政治的に利用する意図があって、公孫氏に朝貢する為に来た倭人を魏に朝貢に来た事にした。という可能性もあります。
>> 1 まず、“咄嗟の嘘を言った”というような推論を持ち出すようなことが気になります。
>> “誤記である”、“自らを目だたさせるために、誇大な表現をした”というような、自分の結論を先に決めておいて、それに合わせて原文を改訂したり、推論を持ち出すのはどうかと思います。
>> 2 また、魏朝としても、“公孫氏に朝貢する為に来た倭人を魏に朝貢に来た事にした”というようなことが通用するでしょうか?
>> 使者の難升米等は一時の問題としても、生口の10人は、その後スット魏朝の中に滞在しているはずですから、この魏朝の者から、いかなる理由で、生口として送られてきたかを尋ねられたら、難升米等と口裏を合わせるようなことはできたでしょうか。
4.これも、簡単な、ごまかし方がある。
>> A 「三国史記」に、AD57年に、新羅の第4代の王になった脱解王は、倭人だと記されています。
>> 同様に、第1代から第4代の王に仕えた瓠公も倭人です。
>> ということは、倭人は、なにもこの2人しかいなかったということではないでしょう。
>> もっとたくさんの倭人が新羅におり、それらの倭人達
>> がそれなりの評価をえていたから、優れた人材であった2人が抜擢されたのでしょう。
>> ※ 「三国史記」は、どちらかというと反倭国というような論調ですので、上記のことは事実であると考えてよいと思います。
>> B さらに、「三国志」には、倭国の北岸は、狗邪韓國とあります。
>> ということは、1世紀から3世紀にかけて、相当多数の倭人が、朝鮮半島にいたと考えられます。
>> C したがって、朝鮮半島の情報は、かなり早くから、また正確に倭国にもたらされていたと考えます。
>> 現代人の感覚で、“3世紀の者は、情報収集などできなかっただろう”というような見方をしていたら、古代の真実を見つけることはできないのではないかと考えますが。
>> 急を要さない魏使の一行が、水行十日・陸行一月で来ていますから、緊急時となれば、十分すぎる時間はあったでしょう。
では、まず小国が生き延びるための外交であることを考えれば、
情報収集は、欠かせないでしょう。
現代でも公開情報を分析するだけで軍事作戦の80%は、推定できるといはれています。
朝貢に、行く時大陸の国に行くことだけを告げておけば良いだけです。
国書も、3つ用意すれば良いだけなのですから、1つは、公孫氏あて、2つめは魏あて、3つめは宛先を書かない。
第一乱世であることを、まづ忘れていませんか?1日で国が興り滅びることなど珍しくも有りませんよ。
また、国王が変わっているなど当然起こると想定してある。
また、受け入れる方でも、敵対問題など起こる可能性が低ければ気にせず無視するでしょう。
魏にしてみれば、制圧したとたんに朝貢が有るほど勢いがあるといえるわけですから問題にするわけがない。
こんな所でしょうか。
また、包囲されても意外に小人数であればだしゅつも可能だと
聞いています。
ノモノハンの例だと2重包囲された部隊に伝令連絡が取れていたと、陸軍にいた方に聞いたことが有ります。
公孫氏の中でも意外と脱出に成功した人はいたと思います。
それが、乱世で生きている人ではないでしょうか?
元の発言 [ Re: Title:季刊邪馬台国73号の土器編年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月27日(金)13時03分36秒 ]
>>
>>
>>
#ホケノ山時代(画文帯神獣鏡・庄内3)が畿内優位と
いうのは全然異存ありません。
しかし、画文帯神獣鏡流入期を160年以降というのは、
岡村編年なのでしょうか?
以前のkouji氏の議論だと、
7期第一段階が190年以降で、画文帯神獣鏡が、
「倭韓が帯方に属した」205年以降ということでしたが。
>>
>>
>>
>>
#マジックというか・・・単に併行関係を度外視している
わけで、九州については、現行の編年が正しく、畿内に
ついては、庄内を四世紀前半とする関川編年を支持する
というわけです。
細かい議論は殆どしていないわけで、たとえば、庄内式
の全鏡を比較すれば、平原があるわけですから、
どうしたって九州が有利になるわけです。
ようするに、200年前後のものも、三世後半のものも、
一括して、邪馬台時代として、いろいろいっているわけです。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 7月27日(金)14時21分59秒 ]
乱入失礼。
>> 同志社の森浩一先生は、あなたの考えでは、考古学の専門家ではありませんか?
過去の人ですよ。
古代「おおやまと」を探る(学生社)所収の、『三世紀の鏡と「おおやまと古墳群」』と、
東アジアの古代文化105号所収の、『ホケノ山墳墓の画文帯同向式神獣鏡』に、
画文帯同向式神獣鏡についての興味深い年代論がありました。
(1)画文帯同向式神獣鏡の成立
小山田氏は、画文帯の主要の単位文様である、雲車の形式学的変化から編年をおこない、
そのもっとも古いタイプの画文帯同向式神獣鏡が、画文帯対置式神獣鏡の文様を
一部改変したものだとして、画文帯同向式神獣鏡の成立上限を、画文帯対置式神獣鏡の
成立年代としています。
そして、画文帯対置式神獣鏡の最古の紀年が、216年であることから、
画文帯同向式神獣鏡の成立も三世紀第一四半期としています。
(2)ホケノ山と徳島萩原の鏡の年代
画文帯同向式神獣鏡で、列島最古のものがホケノ山と徳島荻原のもので、これを、
同時期の副葬品と、しています。
そして、編年ですが、小山田氏によると、雲車の形式で、ホケノ山のものがの、T式から、U式
過渡期、徳島荻原のものが、Ub式となるそうです。
年代は、
(成立は、三世紀第一四半期)
ホケノ山・・・雲車T式からU式過渡期・・・・三世紀第一四半期から第二四半期前半
徳島荻原・・・雲車Ub式・・・・・・・・・・三世紀第二四半期後半
としています。
で、これらが同時期の副葬品であることから、ともに、三世紀第二四半期後半以降の
副葬になるということで、小山田氏は、卑弥呼遣使を契機とする鏡としています。
つまり、「同鏡百枚」ということでしょうか。
当然、庄内3が三世紀中葉ということになります。
(3)その後の画文帯同向式神獣鏡
布留式以降の、大和天神山や、黒塚のものについては、ホケノ山と徳島萩原の鏡より、形式が
新しくなるそうです。
で、古いタイプの画文帯同向式神獣鏡が、庄内3からでて、
新しいタイプのものが、その後の遺跡から出土することから、
これらは、一括して流入したのではない、というで、
これらが、二世紀前半にまとまって流入したとする岡村氏の議論を否定しています。
しかも、天神山ものは、蓮華文から、古くみても三世紀後半、西晋が上限になるそうです。
以上ですが、いかがでしょう?
私としては、
「画文帯同向式神獣鏡の成立が、三世紀第一四半期である」
「これらが、一括して流入したのではない」
と、いう議論には、説得力を感じました。
問題は、徳島萩原のものが、三世紀第二四半期後半という点ですが、
どうも微妙な感じがします。
形式変化の編年は、はたして、そこまで細かく年代を限定できるのでしょうか?
画文帯同向式神獣鏡が、公孫氏経由の鏡か、卑弥呼が魏からもらった鏡か、
まだまだ難しいところだと思います。
あと、東アジアの古代文化108号で、福永氏が、獣帯鏡について、
画文帯神獣鏡と同時期の流入ではないかと(つまり、岡村氏の七期第一段階ではなく、
第二段階だと)かいていました。
これはこれで興味深いです。
元の発言 [ Re: Title 妙な本!ではチャチャを一つ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月27日(金)13時17分01秒 ]
>>
>>
デュメジルという学者の提唱する「印欧的三機能体系」
(祭祀/戦士/食糧生産の各機能)というイデオロギーが,
日本神話の中に正確に表現されている,ということです。
イラン系遊牧民の神話が,アルタイ系に受け入れられ,
朝鮮半島を経由して日本に伝わった,という仮説です。
日本神話には明瞭に影響が認められるというわけです。
朝鮮半島その他の場合には,史料的な限界があるものの,
檀君神話,高句麗神話,新羅神話の中に,
この「印欧的三機能体系」を読み解くことは可能だそうです。
祭祀的機能については,なんとまあ,
インド・イラン人の神界,ローマの神界,ゲルマンの神界,
日本の神界に共通性が見られる,と・・・こりゃこりゃ(^^;
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月3日(火)13時02分15秒 ]
>> STOP 公孫氏の作らせた剣が日本の古墳から出ているってこないだのテレビ番組でやってたけど、それは、何を意味するのかな?
>> 確か銘文の、とのときの解釈は天下への野心だったと思うけど??
「百錬清剛上応星宿下辟不祥」
って天下への野心を示すんですか?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
中平年間は184年〜188年で東大寺山古墳の築造年代とは100年以上隔たっています。
公孫氏は遼東を支配する前の事です。
公孫氏と畿内の交流を示す事にはならないでしょう。
公孫淵が討たれたあと畿内へ逃げ込んだ可能性はありますけど。
元の発言 [ Re: Title:季刊邪馬台国73号の土器編年 ] お名前 [ ふうらん ] 日付 [ 7月27日(金)09時54分04秒 ]
>> してみると、どうなのでしょう三世紀には、「前漢鏡と、
>> 弥生イ方製鏡の大部分」系の原料の国産鏡(平原もこれ
>> にはいる?)と、「後漢鏡と三角縁神獣鏡」系の原料の
>> 輸入鏡が混在していたのでしょうか?
# 古墳から出土するイ方製鏡は全般に新しい方の素材で作られています。ごく一部で古いスクラップ銅材の再利用等などの理由で混在したかもしれません。伝世品もあると思います。
>> 以前も、位至三公鏡が、実は魏の初現でなく、後漢末の
>> 初現という議論がありましたが、もっと凄いですね。
>> してみると、徐氏の、「魏代の内行花文鏡は蝙蝠座紐式に
>> なる」というのは、魏代につくられた内行花文鏡の
>> 倣古鏡が、従来からあった蝙蝠座が主流になるということ
でしょうか?
# 位至三公鏡はI型からIII型までが知られていますが、西村俊範「双頭龍文鏡(位至三公鏡)の系譜」によれば、中国出土19例の年代推定から、I型の初現が2世紀前半に、III型が2世紀後半としています。最も頽落粗雑化した状態で3世紀に盛行したという奇妙な鏡です。庶民が手に入れられる鏡というところでしょう。
蝙蝠座内行花文鏡は蝙蝠部分が長く伸びていって連弧文は小さくなり、間の空間に他の文様が入っていってキ鳳鏡や獣首鏡などになります。魏代につくられた内行花文鏡の倣古鏡が存在するのかどうか寡聞にして知りませんが、あるとしても蝙蝠座を基調にして復古鏡らしい変容があるだろうと思います。
ちなみに鉛同位体比分析では、九州の箱式石棺から出た蝙蝠座内行花文鏡の材質が、新しい方つまり三角縁神獣鏡や他の後漢鏡と同じであるという結果が出ています。神獣鏡の原料が華南のもので四世紀以降の流入というなら蝙蝠座も卑弥呼の鏡ではありえないんですね。
>> ちなみに、「弥生V期の箱式石棺」というのは、庄内併行
>> 以前でしょうか?
>> 安本氏は、「箱式石棺=三世紀=邪馬台国時代」として
>> いるで、そのへんが誤解の原因?
# 弥生V期の終末に庄内が併行しますし、箱式石棺そのものは古墳時代に入ってもありますから、箱式石棺の時代という言い方はピンと来ません。庄内併行期以前でありかつ箱式石棺出土の鏡というならわかります。ただ、土器が共伴しない例は判別がつきませんし、墳丘が削平されて中の箱式石棺だけが露出した「もと古墳」もあるでしょう。曖昧な感じがします。
元の発言 [ Title 「ローマ文化王国 新羅」っつう妙な本 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月23日(月)01時35分27秒 ]
>>
>>
>>
そんで,まあ,倭人社会のそれが,
はたして印欧的三機能に当たるかどうか,ってとこでしょうか。
一応,祭祀,軍事,食糧生産,ってな機能らしき形態は出てくるわけで。
仮に,ヒミコちゃんが,
ギリシア風の太陽神託かなんかの巫女の系譜を引いているとしたら,
この時代には既に,
オルペウス型神話としてのイザナキ像があったことにもなるでしょう。
# 軽いノリに便乗してます,,,ははは(^^;
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 7月27日(金)10時46分25秒 ]
>> 1 まず、“咄嗟の嘘を言った”というような推論を持ち出すようなことが気になります。
>> “誤記である”、“自らを目だたさせるために、誇大な表現をした”というような、自分の結論を先に決めておいて、それに合わせて原文を改訂したり、推論を持ち出すのはどうかと思います。
邪馬台国論議は推論の塊です。その推論が常識や考古学的に完全否定される事でなければいいのではと思います。
>> 2 また、魏朝としても、“公孫氏に朝貢する為に来た倭人を魏に朝貢に来た事にした”というようなことが通用するでしょうか?
>> 使者の難升米等は一時の問題としても、生口の10人は、その後スット魏朝の中に滞在しているはずですから、この魏朝の者から、いかなる理由で、生口として送られてきたかを尋ねられたら、難升米等と口裏を合わせるようなことはできたでしょうか。
生口が何処に貢がれるか知っていなければならない理由はありません。
知っていたとして魏の生口を扱う役人が生口と情を交わし、生口から事情を聞き出すというのですか?
これこそありえない推論ではないでしょうか。
>> A 「三国史記」に、AD57年に、新羅の第4代の王になった脱解王は、倭人だと記されています。
・・・中略・・・
>> ※ 「三国史記」は、どちらかというと反倭国というような論調ですので、上記のことは事実であると考えてよいと思います。
「三国史記」については私は苦手で良くわかりません。
>> 現代人の感覚で、“3世紀の者は、情報収集などできなかっただろう”というような見方をしていたら、古代の真実を見つけることはできないのではないかと考えますが。
>> 急を要さない魏使の一行が、水行十日・陸行一月で来ていますから、緊急時となれば、十分すぎる時間はあったでしょう。
国内に敵がおりその事で精一杯の邪馬台国が大陸でスパイ活動(公孫氏と交流しながら魏の動向も探る)をし、緊急情報伝達網を構築していた?
公孫氏よりも早く魏軍の動向を察知し、しかも公孫氏の滅亡を予測していた?
というのも凄い推論ですね。
「水行十日・陸行一月」は実際に旅行した時、休憩や悪天候などで足止めを食った日数ではないと思いますよ。
確か司馬仲達が洛陽から遼東までを休みなしで百日掛かると見積もっています。
1600km位を休み無しなしで歩いて100日は一日16kmと言う事です。
割合妥当な数字でしょう。
実働日数で水行十日・陸行一月です。私の計算では。(^^)
元の発言 [ Re: Title 日本書紀編纂者は、口述筆記? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月24日(火)17時13分29秒 ]
>> 日本書紀は、稗田阿礼てゆうおっさんの口述筆記録の編集だったんじゃ?
>>
#口述筆記だけに、聞き違い(記紀ちがい)なんちゃって。どもm(__)m
元の発言 [ Re: Title 思い付いたこと ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 7月24日(火)16時09分10秒 ]
>> では、大和の古墳から鍬がた石や車輪石など貝を燃した出土物が多く出てくる理由は、何でしょう?
>> 貝製品に宗教的な意味か、何かの重要性が有ったと見るべき名のでは?
>> 銅になったにしても、貝製品にまたは、その形に意味が有るから作られたと考えるべき名のでは?
>> それとも製品が手に入らないからどうで作ると考えたほうが自然では、卵かにはと理科の論議ですけど。
#貝製品は東北まで流通していたことが知られています。
#土井ヶ浜に出水とは別の加工法を行っていた資料が出土しています。
#北部九州は出水系の貝製品、山口以西は土井ヶ浜の貝製品?
#貝が手に入らなくなったから銅で作ったとすると、なぜ貝が手に入らなくなったかが問題ですネ。
#南部九州が貝を何と交換していたか、その入手品の需要がなくなったということでしょうか。
#やはり、呪術性のある貝を新素材の銅で作ったものの方がより高価とされたためと考える方が自然では。
#鶏より卵の方が先です。
#雉(プリミティブな鶏)が(遺伝子としての)鶏の卵を産んで、鶏の卵から鶏が出てくる。
#つまり、鶏は卵の時点で遺伝的に鶏、鶏の直接の先祖は鶏ではないが鶏の卵を産んだ。なんてネ。(*^_^*)
>> 後それから、国立博物館の舟形埴輪示唆しぶりに見てきましたが、なんと、解説に帆柱接地用と思われる穴が有ると有りました。
>> 解説は、ちゃんと読むべきで質問もしとくべきですね!
>> 改めて感じました。
#発見時のテレビ報道でも言ってました、画面にも映ってました。
元の発言 [ Re: Title:季刊邪馬台国73号の土器編年 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 7月28日(土)10時06分33秒 ]
>> 神獣鏡の形式も原料も、華南のもので、四世紀以降の流入だから、
>> 畿内庄内のホケノ山も四世紀である。
>> 箱式棺墓からでる小型倣製鏡の原料が三遠式銅鐸と同じだから、
>> 九州の箱式棺墓時代、畿内は銅鐸時代である。
って主張してるのに、“自分が卑弥呼の鏡だ”“魏鏡であることが確か”
って言ってる蝙蝠鈕座内行花紋鏡の原料も華南のものなんじゃ
こりゃ話になんないのでは?
元の発言 [ Re: 狗奴国王って? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月25日(水)01時45分06秒 ]
>>
>>
>>
>> #考古学的にも、大和から百済系の文物が出土する時期の北部九州からは新羅系の文物の出土は半島との自主的交流を物語っています。
>> #「磐井の敗戦」以後大幅に封じられるまでは北部九州の独立性が保たれていた。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#結局、磐井の罪状としてあげられているものは九州攻略のための大和の口実(侵略側の常套手段)。
#「反乱」などではない、侵略から独立性を守るための戦い。
>>
#委奴国から筑紫国までは一つの流れ。これまた“きっぱり!!”§^。^§
元の発言 [ Re: Title 日本書紀編纂者は、口述筆記? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 7月28日(土)22時09分09秒 ]
>> >> >> 日本書紀は、稗田阿礼てゆうおっさんの口述筆記録の編集だったんじゃ?
>> >> それは、古事記。
>> #口述筆記だけに、聞き違い(記紀ちがい)なんちゃって。どもm(__)m
おっさん? 年はこれ廿八。人となり聡明にして・・・
# 文書を暗記しての人間検索機だったのかも。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月30日(月)01時05分22秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
現代の考古学もすごく怪しい。
勝山古墳の周濠から出た板材の発表の仕方もマスコミを操ってミスリードしようとした形跡が見え見え。
三角縁神獣鏡が一つの古墳から大量に出てくるのはこれが国産鏡の証なのに、まるで大量発掘は邪馬台国畿内説を補強するみたいな新聞発表。
KKKがしゃべった訳ではないかも知れないが新聞記事を否定せず、民衆を騙そうという意思が感じられる。
>>
あ、認めて居られたんですね。
さすがおにりんさん。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月30日(月)14時32分09秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
私は確かに不勉強ですが、通説は一通り知っているつもりです。
ここにきて教わった事もありますが。
私は「通説」の怪しさを今年の夏、実感しました。
二、三週間前家内の実家に行った所、畑のナスやらピーマンが日照りで
しおれちゃっていたんで水をやろうとしたら義母が水をやっては駄目と
言うんです。
日照りの時に水をやると癖になって植物の為に良くないと言う「通説」が
あるらしいですね。
私がかまわずに水をやって次の週に行ってみると義母の畑のナスは生きて
いましたが近所のナスは皆枯れてしまっていました。
近所の人は通説に従って水をやらなかった結果です。
近所の人たちも終末農業と言えども代々百姓をやってきたれっきとした農家
です。
誰かが水のやりすぎで根腐れ起こした話を聞いていつのまにか水をやっては
ならないと言う事になってしまったのでしょう。
通説なんてこんなもんです。
>>
>>
彼の朝鮮語と日本語の分岐が5000年とか、天皇10年代替り説で彼は
トンデモ説と思い無視しています。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
と言うのは通説でしょうか?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
なんかこれも通説にはなっていないような。おにりん説ではないですか?
考古学的には畿内は豊富ですが倭人伝の記述と一致するものはほとんど
ない。むしろ倭人伝を詳細にみると畿内ではありえない事が判ります。
>>
>>
私の説が一番まともな九州説?ジョークです。
>>
>>
>>
>>
通説のもっているコアのトンデモさかげんは実感していますが。
私も早期退職で道楽三昧といきたいものです。(^^)
元の発言 [ Re: Title 思い付いたこと ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月30日(月)15時00分51秒 ]
>> >> 全然間違いでしょう。
>> では、どのようになっていたのでしょうか?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 庶民のというか、当時の大商人なんかの墓なんかに記録は残っていないのかな?
>>
>>
>>
>>
>>
一つ忠告しましょう。
あなたも、非常に独善的に物を見ていることに変わりないということです。
現代の商人と勘違いしていませんか?
少し前迄は、船による交易商人というのは、海賊と紙一重だということも忘れているようだ。
海の上は、事実上の治外法権的な世界です。
ある意味少し前までは、大交易商人=海賊の元締めといってもおかしくないのです。
それを、知らないのかというとはっきり認識はしているようだ。
また、商人というのは現実的ですし情報にうるさい。
モンゴルが、大帝国を作れたのも商人の情報のおかげであることは、確かです。
モンゴル帝国=裏ではウイグル商人帝国とは、よく引用されることだ。
私が、正確に書かなかったのは、良くなかったが。
記録と書いたのは、中国がわの意味です。
そして、商売には当然帳簿がある。
大商人なら、なおさら。
そして、漢帝国当たりから商人も記録的なものを残し始めている。
パトロンとなった寺院(この時代だと道教当たりになりますか。
その、支援の記録なだで、どのようにして富みを得て貢献したとか。
墓誌的な物や記録に何かの手がかりはと思っただけです。
また、箱石石棺は弥生時代から古墳時代まで使われているし。
方形シュウコウ墓からも出ています。
そして、時期は、はっきりしてなくても、かなり交易されているのも確かです。
この当たりを完全に無視しているのでは?
元の発言 [ Re: チャチャを一つ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月26日(木)13時10分38秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> また、個人的には、滅びたカルタゴ(抹殺されているらしいが高度な文化を持っていたようだ)
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
私は、本当にローマングラスは、ローマで確立されたのか疑っています。
何の知識も、証拠もないのですが。
カルタゴは、何も残していない日本も同じだなどといはれるととが多くありますね。
しかし、本とうにそうなんでしょうか?
カルタゴやその文明の記録を残したのはローマです。
ローマにつごうの悪いことは、完全に抹殺されています。
まして、商業があれだけ栄え、地中海の富を独占したといわれるくにが、
商人選びや開発に文化がないだのとは、信じられない。
そうなら、商売でいい商品など見つけられないし貧弱な商品じゃ商売にならないのだけは、今も昔も同じ!
賠償金を、あっとゆうまに支払えたのも、ちゃんとした商品を売れたからでしょう。
滅んだ後、世界を色々放浪して一族が集まったのが新羅だった。
とは、虫の好すぎる夢でしょうね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ないと考えるほうが、おかしいように思えるけど!
元の発言 [ Re: Title 古事記偽書説 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月2日(月)12時01分44秒 ]
『古事記』偽書説は、昔から多くの人が唱えているようです。
最近では、大和武雄『古事記成立考』(大和書房1997)があります。
この本は『古事記』研究者必読の本かもしれません。
過去の偽書説が論拠別に整理され、客観的に解説されています。
ただ根本的な誤りがあります。
以下に、その理由を述べさせていただきます。
(3)伝統的な『古事記』曲解と偽書説の根拠
『古事記』は、成立以来、正しく読まれたことがありません。
したがって、その内容は、厳密に考えれば「分からない」と判断すべきでしょう。
しかし『古事記』の叙述は、古漢字を使って記述されています。
漢字は、もともと古代中国で作られた文字で、ひとつひとつに歴史的な字義があります。
『古事記』作者は、その字義を熟知、古漢字を駆使して述作しています。
したがって、伝承者がどんなに曲訳、曲解しても、『古事記』作者が言おうとした事柄は、ある程度伝わります。
『真福寺本古事記』のように、『古事記』原本を復元しようとした写本を解読できれば、将来『古事記』本来の姿も明らかにすることができるでしょう。
まして中巻や下巻は、『日本書紀』に基づいて述作されています。
大筋の内容は、比較対照され、重要な論旨を除き、ほぼ正しく読み取られてきました。
しかし上巻は、曲読、曲解されて、『古事記』本来の内容とは全く違う「神話」にされてしまいました。
そもそも『古事記』は、『日本書紀』とは別の思想、まったく異なる文体で書かれています。
特に上巻は、『日本書紀』の記述と一見類似していますが、根本的に違った世界と、その歴史を描こうとしています。
『日本書紀』から解釈するのは、その手法そのものが誤りです。
用語の混同、同一視など論外です。
「伊邪那岐」を「イザナギ」と書くこと自体、「学」の名に値せず、研究とは認めがたいというべきでしょう。
具体的な例をあげましょう。
『古事記』中巻冒頭に、次のような一文があります。
「坐何地者平聞看天下之政猶思東行」
「坐何」の用例は、中巻冒頭の『神武記』中に、たった一度だけです。
この言葉の正解を得て、私の『古事記』研究は、過去の亡霊から解き放たれました。
『古事記』本文は、日本で初めて、漢字を使って書かれた和文の書籍と言われています。
原典は伝わっていませんが、『真福寺本古事記』の書体は、我々が普通に読み書きする漢字とほとんど変わりません。
漢和辞典があれば、一字一字の漢字に、どんな意味があるかは分かります。
しかし句読点がないので、文の切れ目が分かりません。
そして時折、キーワードとなるような漢字の意味が分からないことがあります。
なにしろ1300年前の本です。
現代に伝わらぬ言葉があっても不思議ではありません。
我々が『古事記』を読むには、自分で句読点をつけ、現代語に翻訳する必要があります。
では、まず有名な本居宣長の解釈を見てみましょう。
「坐何地者。平聞看天下之政。猶思東行」
「イズレノトコロニイマサバカ、アメノシタノマツリゴトヲバタイラケクキコシメサム。ナホヒムカシノカタニコソイデマサメトノリタマヒテ」
これが宣長の解釈です。
ますます分からなくなった・・・?
まぁ、その通りでしょう。
読む順番に@ABをふって、分かりやすく示すと、
坐Bイマサ
何@イズレノ
地Aトコロニ
者Cバカ
、
平Dタイラケク
聞Iキコシ
看Jメサム
天Eアメノ
下Fシタ
之Gノ
政Hマツリゴトヲバ
。
猶@ナホ
思Cノリタマヒテ
東Aヒムカシノカタニコソ
行Bイデマサメト
変だな、と思いませんか?
複雑怪奇で、中途半端な漢文読みです。
とても和文とは思えません。
ほとんど意味も理解できません。
これは、本居宣長が『訂正古訓古事記』の中で示した解釈です。
今から200数十年前、江戸時代に発表されました。
さて、私の解釈を見ていただきましょう。
「坐何。地者平聞。看天下、之政。猶思東行」
「坐とは何(イカニ)?地を、平(タイラ)ぐと聞く。看(メ)して天下(アマのシタ)、之を政(マツリゴト)す。猶(ナホ)思う、東へ行かん」と読みます。
文章の訳順は、次の通り。
坐@ザとは
何Aイカニ?
。
地@チ
者Aを
平Bタイラぐと
聞Cキく
。
看@メして
天Aアマの
下Bシタ
、
之Cコレを
政Dマツリゴトす
。
猶@ナホ(やはり)
思Aオモう
、
東Bヒガシへ
行Cイかん
倭国大乱の終盤、長老会議に出ていた幼き皇子・神武が言ったのでしょう。
「ね、坐って何なの?国土を平定することなんでしょ。民の上に立って、国を治めることだよね。やはり、ボクは思うな、東へ行くべきだよ」と。
中巻の冒頭、『古事記』作者は、神武天皇の言葉を借りて「坐」という漢字の意味を説明しているのです。
※『古事記』は、よく『万葉集』で見かける「座」を使わず、「坐」のみを使っています。
『古事記』は、漢字を使って和文表記が試みられた日本史上画期的な書物です。
どちらが、『古事記』述作者の意図した文法でしょうか?
どちらが正しい意味を捉えた解釈でしょうか。
「坐何」を、「座とは、いかに?」と訳すか、「座って、何なの?」と訳すか。
それは訳者のセンス次第でかまいません。
しかし、宣長の解釈は、完全な誤謬と考えられます。
先に指摘したごとく、大意は宣長の訳からでも分かります。
漢字自体に意味があるからです。
誤った訳でも、なんとか意味は通じるのです。
しかし「坐」が「地を平ぐ」という意味であること、作者の意図は読み取ることができません。
『古事記』における「坐何」の用例は、中巻冒頭に一回切りです。
上巻での用法を前提に、神武天皇の言葉を借りて、「坐」を定義したと考えられます。
「坐」は、「地を平ぐこと」。
その意を受けて、『古事記』において「坐」は、「即位」の意味で使われるようになります。
本居宣長は、根本的に『古事記』を読み違えていると思います。
私は、自分の理性と合理的な判断を信じます。
語順にしたがって読む。
『古事記』述作者が和文表記に見出した方法は、単純明快な原則だったのです。
ところで信じられないことがあります。
今日書店にある『古事記』は、すべて基本的に、宣長の解釈にもとずいているのです。
何冊か例をあげてみましょう。(ふりがなのある漢字は、カタカナで示します)
●岩波文庫版『古事記』(倉野憲司校注)1963初1999第61刷
「イズコにマさば、平らけくアメのシタのマツリゴトをキこしめさむ。なほヒムガシに行かむ。」とのりたまひて、
●角川文庫版『新訂古事記』(武田祐吉訳注/中村啓信補訂・解説)1977初1993第25刷
「いづれのトコロにまさば、天の下のマツリゴト平けくキコしめさむ。なほ東のかたに、行かむ。」とのりたまひて、
●講談社学術文庫版『古事記(上)全訳注』(次田真幸)1980初1993第19刷
「イヅれのトコロにイマさば、タヒらけくアメの下のマツリゴトを聞こしめさむ。なほヒムカシに行かむと思ふ」
●岩波日本古典文学大系版『古事記祝詞』(倉野憲司/武田祐吉校注)1958初1976第20刷
「イズコに坐さば、平らけくアメのシタのマツリゴトをキこしメさむ。なほヒムガシに行かむ。」とのりたまひて、
●小学館日本古典文学全集版『古事記上代歌謡』(荻原浅男/鴻巣隼雄校注・訳)1973初
「イヅれのトコロに坐さば、タヒラけくアメノシタのマツリゴトをキコこしメさむ。ナホヒムカシに行かむと思ふ」
●小学館新編日本古典文学全集版『古事記』(山口佳紀/神野志隆光校注・訳)1997初1999第3刷
「イズクにイマサば、タイラけくアメのシタのマツリゴトをキこしメさむ。ナホヒムカシにユかむと思ふ」
●平凡社古事記大成版『古事記』(倉野憲司編)1957初1994第2刷
「イズコに坐さば、平らけくアメのシタのマツリゴトをキこしメさむ。なほヒムガシに行かむ。」とのりたまひて、
●集英社わたしの古典1『田辺聖子の古事記』(田辺聖子)1986初1986第7刷
「どこへいけば、安らかに天下を治めることができるだろう。ここは、西に寄りすぎているように思われるから、もっと東に行こう」(改行)そういわれて、
●築地書館『新・古事記伝(人代の巻上)』(中山千夏)1990初
「いずれの地にいましょうか、平安に天下の政治をなさるには」(改行)やはり東に行こう、と思って、
『古事記』は奈良時代、はじめて和文で書かれた書物と言われています。
しかし、宣長の解釈はとても和文とは思えません。
江戸時代に、漢文読みした解釈です。
句読点は宣長が付けたもので、『古事記』には本来、句読点は付いていません。
句読点付きの『古事記』は、いわば翻訳書なのです。
現代の『古事記』研究家は、その宣長の解釈を、ほとんど無批判に受け入れているのです。
まったく同じでは、やはり気が引けるのでしょうか?
漢字の読みを変えたり、漢字を使わなかったり、涙ぐましい努力の跡も見られます。
しかし、寄らば大樹の陰、宣長先生に「右に倣え!」ですよね。どう見ても・・・
もと国会議員の中山さんだけ、ちょっと違う解釈をしてますが、この本を買う人はまずいないでしょう。
本居宣長の過ちは、例にあげた神武天皇の言葉だけではありません。
第一巻本文の最初の一字、「天」の誤読にはじまり、ほとんど『古事記』全体を読み間違えています。
「論語読みの論語知らず」と言いいますが、 『古事記』も作られて以来1300年間、根本的に誤った解釈がなされてきたのです。
偽書説の多くは、このような『古事記』の誤訳を前提になされています。
『古事記』を論究するなら、偽書云々を言う前に、まず『古事記』そのものを研究する必要性があると思います。
元の発言 [ Re: Title 日本書紀編纂者は、口述筆記? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月30日(月)01時11分05秒 ]
>>
>>
>>
#口述するときはトランス状態に入ってるそうです。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月30日(月)17時52分15秒 ]
>> 日照りの時に水をやると癖になって植物の為に良くないと言う「通説」が
>> あるらしいですね。
#少量の水を時々与えると地表に近い部分だけが水分を含む状態になり、根が浅く張ります。この状態で水が切れると、深く根を張っている株より先に枯れます。
水をやるなら地面の深いところに届くほどたっぷりやるか、毎日欠かさずやるか、どちらかです。
家庭菜園ならどちらでもよろしいのですが、広い畑ではどちらも大変でしょう。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月30日(月)14時36分36秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#ひとつ質問。古田武彦はどこに分類されるのですか。道楽歴史愛好者? 私、結構ファンしてますんで、気になります。
元の発言 [ こりゃだめだ ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 7月29日(日)10時55分34秒 ]
# 前漢鏡の原料は北方産の特徴を示し、後漢鏡は全般に南方の特徴を示します。
前漢から後漢にかけて生産されていた方格規矩鏡や内行花文鏡には、北方系のものと南方系のものの双方がありますが、内行花文鏡の中でも蝙蝠座のような後期のものは南方系という結果が出ています。これには北方の鉱山の産出量低下などの要因が考えられますが、その結果でありましょうか鏡銘から追尾できる尚方の活動の中心も洛陽から広漢や山陰に移動しています。
ことに、箱式石棺から出ている蝙蝠座の内行花文鏡には特に強く南方系の数字(湖南省の鉱山のものに近い)が出ていて、三国鼎立以前の時代の製品であることを裏付けています。卑弥呼の鏡に当てることは不可能と言えるでしょう。
古墳出土の鏡のほとんどは、南方系とは言っても、遼寧省の鉱山に近い数字を示す前漢鏡に比べて南方系であるというだけのことです。鉛同位体比の分布図上では、長江以南のものと考えられる上記の例からはだいぶ離れた領域に固まってプロットされます。
元の発言 [ Re: Title 日本書紀編纂者は、口述筆記? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 7月30日(月)20時51分56秒 ]
>> #口述するときはトランス状態に入ってるそうです。
ソート機能つきの記憶装置なんでしょうから,
いちいちトランスに入ってはまずいでしょうが,
ふとトランス風に伝承の鉱脈にアクセスして,
記憶内容が生成・蘇生・変容する,ってことはあったかも。
元の発言 [ Re: Title 日本書紀編纂者は、口述筆記? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月30日(月)01時11分05秒 ]
>>
>>
高級言語生成の現場ってやつですかね。
# わくわくするだけにしときます,,,(^^;
元の発言 [ Re: チャチャを一つ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月30日(月)01時18分42秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
この場合,
ギリシア神話の影響を受ける前の,ローマ神話のヌーメン思想と,
古事記神話の深層比較なんかが面白そう。
吉田敦彦『日本神話の源流』(講談社現代新書)の場合,
「細目」の比較に気を使っています。
精緻な発見があるわけです。
元の発言 [ Re: Title 「ローマ文化王国 新羅」っつう妙な本 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月30日(月)01時01分13秒 ]
戦前からあって有名なのは,字面のものですが,
アマテラス → アルテミス(ギリシア),アメ → アメン(エジプト),
スサノヲ → スサ(ペルシア)の英雄,なんかですね。
水平的に遡れば,やっぱりエジプトかな・・・が,若干,
ギリシア・ローマ風味が強いかな。
>>
>>
専門的には,天照大神そのものとは少し別の神格かもしれません。(とりあえずですいません)
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月4日(水)10時11分40秒 ]
どうも記憶が薄いので面倒をおかけしてすみません。
ただ、番組の中で公孫氏が魏を呉と挟み撃ちにするために
半島と倭の勢力を手なずけようとして送ったようだなんて言ってたので面白いなと。
また、資料が残っていないのではからないってい行ってたけど、呉の史書なんか残っていないのかな?
見つかったらいいな。
こんにちは〜。
ボクのサイトの
http://www.KenAshizuka.com/archives/a5.htm
というページで、邪馬台国のことについて調べる必要があったので、ネット徘徊してるうちにここにおじゃました。
やっぱり、邪馬台国は甘木・朝倉地方だったということがわかって、胸のつかえがとれました。
また来ま〜す。
元の発言 [ Re: こりゃだめだ ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 7月30日(月)22時41分29秒 ]
#ありがとうございます。
>> # 前漢鏡の原料は北方産の特徴を示し、後漢鏡は全般に南方の特徴を示します。
>> 前漢から後漢にかけて生産されていた方格規矩鏡や内行花文鏡には、北方系のものと南方系のものの双方がありますが、内行花文鏡の中でも蝙蝠座のような後期のものは南方系という結果が出ています。これには北方の鉱山の産出量低下などの要因が考えられますが、その結果でありましょうか鏡銘から追尾できる尚方の活動の中心も洛陽から広漢や山陰に移動しています。
>> ことに、箱式石棺から出ている蝙蝠座の内行花文鏡には特に強く南方系の数字(湖南省の鉱山のものに近い)が出ていて、三国鼎立以前の時代の製品であることを裏付けています。卑弥呼の鏡に当てることは不可能と言えるでしょう。
>> 古墳出土の鏡のほとんどは、南方系とは言っても、遼寧省の鉱山に近い数字を示す前漢鏡に比べて南方系であるというだけのことです。鉛同位体比の分布図上では、長江以南のものと考えられる上記の例からはだいぶ離れた領域に固まってプロットされます。
#なるほど、湖南ですが。
じゃあ、やはり年代的には、二世紀ということになりますね。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 7月30日(月)21時09分20秒 ]
>> #少量の水を時々与えると地表に近い部分だけが水分を含む状態になり、根が浅く張ります。この状態で水が切れると、深く根を張っている株より先に枯れます。
確かに始めからそういう育て方をすれば根の張り方もそうなるでしょう。
しかし普通に育ったナスが根が浅い訳ではないし、まして明らかにしおれて枯れそうになっている植物に妙な薀蓄しゃべる暇があったら水をやるべきです。
水をやった後、三日くらい生き長らえれば4日後には雨が降るかも知れませんから。
義母のナスは確かに助かりましたし、近所のナスは枯れました。
>> 水をやるなら地面の深いところに届くほどたっぷりやるか、毎日欠かさずやるか、どちらかです。
確かに次の週まで行けないので水はたっぷりやりましたが。
私なんかに比べ専門家たる農家が緊急避難として何をすべきか判っていない。
考古学、古代史の先生方も「通説」に囚われて間違いを犯しているかも知れないと考えています。
ナスの日照り対策は実験できても古代史は実験できませんからね。
「通説」も多少の真実を含んでいるかも知れないが、良く考えずに鵜呑みにするととんでもない事になりかねません。
「通説」なんていうのは科学的に検証されていない「口伝え」というか「噂」みたいな物と認識しています。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月31日(火)06時55分44秒 ]
>> 「通説」も多少の真実を含んでいるかも知れないが、良く考えずに鵜呑みにするととんでもない事になりかねません。
「珍説」を良く考えずに鵜呑みにすると確実にとんでもない事になるんだよね
元の発言 [ Re: Title 思い付いたこと ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月3日(火)12時57分51秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
そう言えば、そのころの奈良は、シルクロードの東の終着で
国際都市だったようですね。
でも、鉄のネットワ−クって以外と当たっていると思う。
大和武の神話でも(これは、鉄の産地を押さえる神話と言われてますね)信州などの鉄の産地を押さえている。
また諏訪大社の神話でも産鉄勢力同士の争いと見える部分が有るし。
どうですかね?
元の発言 [ Re: Title:季刊邪馬台国73号の土器編年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月31日(火)08時51分33秒 ]
>>
>>
1980でも1990でも20世紀だよ、って
単なるチャチャです。(^_-)
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 7月16日(月)23時18分37秒 ]
郭公さん、いつもいつもレスが遅くなり、申し訳ありません。7月も残すところ今日だけ。一層、8月に入ってからにしようかとも思ったのですが、そんなことを言っていると、またさらに遅くなりそうなので、やはり書きこみます。
まずは、念のため、問題になっている部分を引用しておきます。
『於國中有如刺史。王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露。傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯。』
>> まず「不得差錯」について。
>> 【差錯】じぐざぐになる。入り乱れる。誤る。間違う。佐伯氏は、倭人伝では、後者だと言っています。
>> 【不得差錯】
>> 1.岩波文庫版『魏志倭人伝』
>> 2.佐伯有清『魏志倭人伝を読む 上』(吉川弘文館)
>> 1、2ともに、ここでは何を捜露したのかはっきりとしません。
>> 3.『日本の古代 1 倭人の登場』(中央公論社)
>> 4.一中国人の読む『魏魏志倭人伝』謝銘仁(「歴史と旅」59/8所収)
>> このように。3、4では読み下しと現代語訳で伝送の意味を変えているようにみえます。
>> どちらも捜露したのは、文書や賜遺の物(あるいは物品)ですから、「伝送の文書。賜遺の物」と読むべきであり、「伝送して」とは読めないと思います。
(以上随時省略)
捜露の目的語は何かという問題ですね。「王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露」と「傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯。」とを切り離して解釈する以上、捜露の目的語は省略されていることになります。それは何か?「捜露」という言葉の用例が見出せないこともあり、ニュアンスみたいなものがわかりにくいのですが、私は、以前にも書きましたとおり、「津に臨み、(その津を)捜露する」という理解でいいのではないかと思います。それは、使者達の寄港中の安全の確保のためだったでしょう。
>> 「差錯するを得ず」
>> 上記の例から考えますと、入り乱れ交わったらいけない、間違いがあってはならない、の意味でいいと思いますが、いったい何と入り乱れ交わったらいけないのか、あるいは、どのような間違いがあったらいけないのでしょうか。
>> 私は、まさにkoujiさんが整理された下記の物品が差錯しないように捜露したという意味ではないかと思うのです。
(中略)
>> B-1とB-2が入り乱れないように、文書と照合しながら捜露したということではないでしょうか。
それはありえないと思います。文書も賜遺之物も封がしてありますから、両者を照合するためには開封する必要がある。しかし、女王のもとへ送り届ける以前に開封することはありえないでしょう。
「詣女王、不得差錯」は、女王のもとへ滞りなく送り届けるといった程度の理解で充分だと思います。
>> ただ、こう読んでみても、御指摘のようにたしかに前段の「王遣使詣京都・帯方郡・諸韓国」と後半とはどうもしっくりしないとは思います。例えば倭から使いを出すとき、この伊都国の港で献上の品物を捜露したことはあったでしょう。その一節がうまく表現されていないのかもしれません。
はい。つまり内容的に齟齬があるわけです。そのような内容的な齟齬を敢えて犯してまで、「伝送文書・賜遺之物」を「捜露」の目的語と解する必要があるでしょうか。私は「ない」と思います。
>> > 「皆臨津搜露」や「傳送」の主語が「於國中有如刺史」とある存在であることは、構文上からも疑いのないところだと思います。
>> そうでしょうか? 皆=於國中有如刺史でしょうか?
「皆=於國中有如刺史」とは考えておりません。「皆」は「王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國、及郡使倭國」を受けていると考えます。この点は多分、郭公さんと同じだと思います。ただ、この「皆」は、主語ではない。ここは「倭王が使を遣わして京都・帶方郡・諸韓國へ詣し、及び郡が倭國に使いする(場合は)みな」という意味でしょう。意訳文であえて「いつも」と訳した所以です。
>> 私が何故、皆=船中の誰もが、と書いたかと申しますと、魏志倭人伝に、張政が、年十三であるとは言え、倭の女王台与に告諭するところがありますので、魏帝からの賜遺の物を倭人が捜露するのも非礼なことではあるまいか、と思ったからなのです。
>> 変ですか?
変ではないと思います。私も、「文書・賜遺之物」を捜露などしていないと思います。倭人のみならず魏の使者達もです。
元の発言 [ Re: こりゃだめだ ] お名前 [ ふうらん ] 日付 [ 7月30日(月)23時56分36秒 ]
>> #ありがとうございます。
>> >> # 前漢鏡の原料は北方産の特徴を示し、後漢鏡は全般に南方の特徴を示します。
>> >> 前漢から後漢にかけて生産されていた方格規矩鏡や内行花文鏡には、北方系のものと南方系のものの双方がありますが、内行花文鏡の中でも蝙蝠座のような後期のものは南方系という結果が出ています。これには北方の鉱山の産出量低下などの要因が考えられますが、その結果でありましょうか鏡銘から追尾できる尚方の活動の中心も洛陽から広漢や山陰に移動しています。
>> >> ことに、箱式石棺から出ている蝙蝠座の内行花文鏡には特に強く南方系の数字(湖南省の鉱山のものに近い)が出ていて、三国鼎立以前の時代の製品であることを裏付けています。卑弥呼の鏡に当てることは不可能と言えるでしょう。
>> >> 古墳出土の鏡のほとんどは、南方系とは言っても、遼寧省の鉱山に近い数字を示す前漢鏡に比べて南方系であるというだけのことです。鉛同位体比の分布図上では、長江以南のものと考えられる上記の例からはだいぶ離れた領域に固まってプロットされます。
>>
>> #なるほど、湖南ですが。
>> じゃあ、やはり年代的には、二世紀ということになりますね。
えーと、発掘された日本列島2001を見に行って説明者数人に聞いてみたんだけど
まだ分析結果が出ってないって言ってたけど
日本に入っている銅の産地錫の産地って解明されていたらどういう分布になっているか教えてください。
元の発言 [ Re: Title 日本書紀編纂者は、口述筆記? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 7月30日(月)20時51分56秒 ]
>> >> いわゆる、語り部系に属するのでは。
>> >> よくあるけれど、こういう文章暗記の専門家って、内容はわかんなくても、古い文章
>> >> とか暗記しているっていうのがあります。
>> #口述するときはトランス状態に入ってるそうです。
一番近くにあるのを忘てたませんか?
アイヌの方々に伝わるユーカラが代表でしょう。
良く考えたら、縄文文化やその他をたどるのにも重要なもののように思うんだけど忘れちゃってましたね!!
いろんな資料から皆さん議論されてんですけど、
中国の場合王朝交代の際の記録の継承なんかは、どうなっているか知ってたら教えてください。
軍事情報である、地理書経理資料などなど、
まとめて、前王朝の歴史を作るんだろうけど、いいことなんかあまり書残しそうに無い様な気がするんだけど。
元の発言 [ Re: こりゃだめだ ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 7月31日(火)18時18分50秒 ]
>> 日本に入っている銅の産地錫の産地って解明されていたらどういう分布になっているか教えてください。
# 銅の産地は鉛の産地と一致するものと考えられています。前漢鏡の材料は遼寧省青城子の数字と概ね一致していますが、私は陝西省方面の鉱山を想定しています。
呉鏡と考えられる一群や北部九州の箱式石棺から出土した一部の鏡には湖南省水口山の数字と一致するものがあります。
しかし、後漢鏡の大半が集中している材質と同じ鉱山は現在のところ見つかっていない模様で、分析結果が出ていないというのはこのことではないでしょうか。
晋代に書かれた帝王世記は後漢代の銅鉱山467山を数えていますが、どの地域のことか判明しているのは僅かです。枯渇して放棄され忘れ去られた鉱山も沢山あるものと思います。
私としては徐州北部を想定したいところです。
元の発言 [ 大論争7月号を開始します。 ] お名前 [ 管理人 ] 日付 [ 7月1日(日)01時55分36秒 ]
>> 暑くなってまいりましたが、議論の方も熱くいきたいと思います。(暑苦しくない程度に)
>> それではどうぞ。
#毎々ご苦労様です。
#出来る限りクールにいきたいと思います。
元の発言 [ Re: 承前 「言語の興亡」読みました. ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月3日(火)13時22分48秒 ]
>>
>>
>>
>>
#私が先月アップした「証明」は、この悩みへの回答です。ムステリアン文化を持った骨格上の現代人の子孫はすべて絶滅したと考えない限り、彼らは正真正銘の現代人であった、です。
*おにりん進化モデルについて*
おにりんさんは、イブの子孫にも言語遺伝子を持つ者と持たない者がいた可能性を想定していますが、こういった状況を自明のことと考えることはできません。
我々は進化のメカニズムについてほとんど何も知りません。DNAが遺伝子の本体であることが発見されてから半世紀経つのに、この間進化のメカニズムに対する提案は唯一、木村資生の中立説のみ、という状況です(あと、ウィルス進化説ね ^^)。すべての現代人が言語能力を持っていることは明白ですが、進化のある段階で同一種の中に(現代人の)言語能力を持つ者と持たない者がおり、進化の過程でこれを持たない者が淘汰された、という進化モデルは、否定する論拠もありませんが、賛同もできません。私はそれほど単純な話じゃないだろうと思っています。
おにりんモデルがまっとうな提案であることを否定しているわけじゃありません。
*イブは現代語を話した*
言語が基本的に石器に並行するものだという考えに従えば、アシュール石器にはアシュール言語が、ムスティエ石器にはムスティエ言語が対応していた、のでしょう。現代語が後期旧石器に対応しているというのも非常に納得できます。
しかし。
例えば親がプロト現代人で、生まれた子供が現代人の脳を持っているという仮想的状況(私が上で否定した状況)を想定した場合、親のムスティエ言語を聞いて育った子供はこれをクレオール化したであろうことを、私は疑いません。従って、「最初の現代人(あくまで仮想的状況です)」が現代人の言葉を作り出したであろうと考えられます。
イブはこの「最初の現代人」よりずっと後の世代ですから、イブの一族(部族)がすべて現代人であり、現代語を話していた、と私は考えます。
それじゃ、後期旧石器が定着し始めた4万年前まで、彼らはなぜ眠っていたのか、が問題ですね。おにりん説に対抗できる案を持っていません。m(_ _)m
元の発言 [ Re: こりゃだめだ ] お名前 [ ふうらん ] 日付 [ 7月30日(月)23時56分36秒 ]
>> なるほど、湖南ですが。
>> じゃあ、やはり年代的には、二世紀ということになりますね。
# 赤壁の戦い以後、呉と蜀が荊州の領有をめぐって対立し、呉が魏と接近した数年間があります。この期間は呉の産品が魏に流れ込んでいたと推定されています。
しかし、先に挙げた年代の確定している内行花文鏡の例の分布を見ますと、九州の蝙蝠座がこのワンチャンスに魏に納品された鏡であると見なすことには相当の無理が感じられます。
結論としては、2世紀のものということでしょう。
はじめてお邪魔します。
さて、みなさんご存知の青龍三年鏡というのがありますね。
この龍の字が
音犬
という奇妙な字体なこともみなさんご存知と思います。
この字体が使われ始めるのは南北朝もあとの方だから−
この年号鏡は後世の偽作である−と言う疑問が投げかけられているのも
みなさんご存知と思います。
字体ひとつで脆弱な議論のような気もするのですが
みなさんのご意見はいかがでしょうか?
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月31日(火)12時45分39秒 ]
>>
>>
>>
T 中国歴代の史書から
『漢書』地理志
「楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為す。歳時を以て来たり献見す、と云う」
『後漢書』東夷伝
「倭は韓の東南大海の中に在り、山嶋に依りて居を為す。凡そ百餘国。」
『三国志』魏志倭人伝
「倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百餘国。
漢の時朝見する者有り。今使訳通ずる所は三十国。郡より倭に至るには....」
『宋書』倭国伝
「倭国は高麗の東南大海の中にあり、世々貢職を修む」
『隋書』タイ国伝(「イ」+「妥」)
「漢の光武の時使を遣わし入朝す。歴年主なし。女子あり卑弥呼と名づく。
王となす。魏より斉・梁にいたり代々中国と相通ず。
大業三年(=607年)その王多利思北孤、使を遣わし朝貢す。
その国書にいわく、“日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや……”、阿蘇山あり」
※ 漢から隋まで「倭」を連続した国と見なしている。
『旧唐書』
『旧唐書』には、「倭国伝」と「日本伝」の2つが別に記されている。
「倭国伝」
「倭国は古の倭奴国なり」と始まり、
末尾は 648年の遣使のあと、「その後、遂に絶つ」で終っている。
※ ということは、「倭国」はなくなってしまったか何かの理由で、朝貢してこなくなった
ことを表している。
※ 「邪馬壹国」近畿説をとると、以降の遣唐使等をどう説明すればよいのか?
自己矛盾である。
「日本伝」
奈良・平安時代の遣唐使のことなどが書いてあるが、その冒頭の記述に、
1 日本国は倭国の別種なり。
2 その国、日辺にあるを以て故に日本を以て名とす。
3 あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となす。
4 あるいはいう、日本はもと小国、倭国の地を併せたり。
5 その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対えず、故に中国これを疑う。
とある。
※ このうち5の文は、唐が大和政権の遣唐使の言葉を信用していない、と書いてある。
※ 日本国の使者の言は、『漢書』から『旧唐書』「倭国伝」までに記された、日本(列島中
の一部分かもしれないが)についての中国の認識と異なることにより、疑われたのであろ
う。
(日本書紀に記されている大義名分を、そのまま通したのであろう。)
U 『日本書紀』から
継体天皇は、「磐井の反乱」を鎮圧するため、物部麁鹿火を遠征させる際に、
「長門より東をば朕取らむ。筑紫より西をば汝取れ」
という発言をしている。
※ 「筑紫君磐井」は九州王朝の王であった。
※ 当時は北九州・中国地方でさえ大和政権の支配下になかったという証拠である。
※ 前述の中国の史書から考えると、日本書紀の「磐井の反乱」は、あくまでも近畿天皇家
による大義名分論であり、実態は、継体側の九州王朝に対する反乱であったと言わざるを
えないのではないか。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 8月1日(水)14時05分36秒 ]
>> U 『日本書紀』から
>> 継体天皇は、「磐井の反乱」を鎮圧するため、物部麁鹿火を遠征させる際に、
>> 「長門より東をば朕取らむ。筑紫より西をば汝取れ」
>> という発言をしている。
>> ※ 「筑紫君磐井」は九州王朝の王であった。
>> ※ 当時は北九州・中国地方でさえ大和政権の支配下になかったという証拠である。
>> ※ 前述の中国の史書から考えると、日本書紀の「磐井の反乱」は、あくまでも近畿天皇家
>> による大義名分論であり、実態は、継体側の九州王朝に対する反乱であったと言わざるを
>> えないのではないか。
えーと
かまくら龍さんは九州王朝説ですか。
九州王朝説には興味があるんですが断片的にしか知りません。
そこで質問。
古田さんの九州王朝説では神武は弥生末期に半島から来た人たちで、一旦九州に降臨したあと
北九州の住民を連れて畿内に攻め込むんでしたよね。
その時倭国はどうしていたんですか?
むざむざ自国領を蹂躪されるままだったんですか?
「漢から隋まで「倭」を連続した国と見なしている。」
と言う事と矛盾はしませんか?
弥生末期とすると銅鐸の廃棄の説明には都合が良いですが、この時の倭国の対応が気になります。
それに畿内は北九州に比べ半島から鉄を手に入れる際、すごく不弁な所です。
どうして出雲でなく畿内だったんでしょう。
弥生時代の末期は畿内ってあまり魅力的な先進地域じゃなかったように思います。
それよりも九州に留まると言う選択もあったと思いますが。
この辺はどう説明されているのでしょう。
すみません勉強不足で。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 8月1日(水)14時05分36秒 ]
下記のページを御覧の上、感想をお聞かせいただければ幸いです。
元の発言 [ Re: Title 日本書紀編纂者は、口述筆記? ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 7月30日(月)22時56分28秒 ]
>> >> サンスクリット作ったのも、最初は口承だったんじゃあないかって思っていますが、どうで
>> >> しょうか?
>> 高級言語生成の現場ってやつですかね。
>>
>> # わくわくするだけにしときます,,,(^^;
なんだか、密教の虚空増菩薩グ聞持法の世界みたい。
あれも、経文や経典をすべて暗記するための方法ですよね。
ここからきてるのかな?
元の発言 [ Re: こりゃだめだ ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 7月31日(火)22時23分49秒 ]
>> >> 日本に入っている銅の産地錫の産地って解明されていたらどういう分布になっているか教えてください。
>> # 銅の産地は鉛の産地と一致するものと考えられています。前漢鏡の材料は遼寧省青城子の数字と概ね一致していますが、私は陝西省方面の鉱山を想定しています。
ありがとうございます。
だけど鉛の分析だけなんですか?
錫とかは分からないんでしょうか?
それに、日本はなにを輸出していたんだろうか?
こんな疑問が増えてきます。
>> 呉鏡と考えられる一群や北部九州の箱式石棺から出土した一部の鏡には湖南省水口山の数字と一致するものがあります。
>> しかし、後漢鏡の大半が集中している材質と同じ鉱山は現在のところ見つかっていない模様で、分析結果が出ていないというのはこのことではないでしょうか。
>> 晋代に書かれた帝王世記は後漢代の銅鉱山467山を数えていますが、どの地域のことか判明しているのは僅かです。枯渇して放棄され忘れ去られた鉱山も沢山あるものと思います。
>> 私としては徐州北部を想定したいところです。
朝鮮半島のほうは、ありえませんか?
同じように、どうしても鉄の流れを一緒に考えてしまうのですが。
鉄は、半島だったと思いますが?
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 7月30日(月)21時16分06秒 ]
>> #ひとつ質問。古田武彦はどこに分類されるのですか。道楽歴史愛好者? 私、結構ファンしてますんで、気になります。
“分類”などどうでもよいでしょう。
ご本人も、さほどきにしていませんよ。
中味です。
しいていえば、“文献解読学”といったところでしょうか。
また、考古学の分野(本人は「理論考古学」といっておられますが)にも首尾範囲を広げていますが。
それより、賛同者には、日本文学・哲学等の専門家がたくさんいます。
スミソニアン博物館の考古学者やユトレヒト天文台の宇宙物理学者も。
元の発言 [ Re: Title 日本書紀編纂者は、口述筆記? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 7月31日(火)18時25分31秒 ]
>> 一番近くにあるのを忘てたませんか?
>> アイヌの方々に伝わるユーカラが代表でしょう。
>> 良く考えたら、縄文文化やその他をたどるのにも重要なもののように思うんだけど忘れちゃってましたね!!
#です。
#確かユーカラの語り部がトランス状態に入って語るって話しがあったと思います。
#内容はもちろん、速さも非常に正確だったと。
元の発言 [ Title青龍三年鏡の疑問 ] お名前 [ 子の刻寝太郎 ] 日付 [ 8月1日(水)00時20分25秒 ]
>> さて、みなさんご存知の青龍三年鏡というのがありますね。
>> この龍の字が
>> 音犬
>> という奇妙な字体なこともみなさんご存知と思います。
>> この字体が使われ始めるのは南北朝もあとの方だから−
>> この年号鏡は後世の偽作である−と言う疑問が投げかけられているのも
>> みなさんご存知と思います。
# 「龍」の左側は正確には[立/月]ですが、とりあえず「音」で代用しましょう。
# [音犬]という字体がいつのものかという話の前に、まず異字体と減筆の違いについて説明しなければなりません。
漢和辞典を見れば代表的な異字体は載っていますね。「龍」の場合、異字体として[音尨]が使われます。これは後漢代から使われている字です。「尨」はムク犬を意味する漢字です。現代中国の簡字体の「龍」の字は「尤」の「つりばり部」(「し」状のところ)に「ノ」を架ける字が使われていますね。これが当時は一本の「ノ」ではなく「彡」と三本あったわけですが、後漢代の用例でも二本の例とか、点が二つとかがあります。このように画数や時には部首そのものを省略するのが減筆です。減筆が定着してその字体が広く使われるようになったりすると、異字体として定着したと考えていいでしょう。
両漢魏晋のころ「龍」を最も甚だしく減筆した例としては[音し]のような形のものがあります。そこまで行かなくとも、[音七]状のもの、[音じ]状のものなど多種あります。これらは「龍」を減筆した例ですね。そして[音尨]のほうを減筆すると[音犬]とか[音大]になっていくわけです。
それでは、魏の頃に[音大]という書き方があったかというと、そのものの実例は私も見たことがありません。しかし、龍部の漢字で[龍/共](上が龍/下が共)という漢字がありますが、この字の上の部分を[音大]と書いた例が後漢代にあります。ということは、後漢代に「龍」を[音大]と書いたということです。したがって、青龍三年に[音犬]という文字が使われて何ら問題はありません。
三国時代には[音犬]という字体が無かったと言った人は、おそらく石碑の異体字辞典のようなものを安直に引いてそう思い込んだのではないかと思いますが、碑文字と鏡銘は相当異質なものなのです。碑文は達筆な人が書いた書を石工が写して彫っていきますが、鏡銘は工人自身が鋳型に書き込んでいくものです。しかも左右逆に書いていきます。ですから減筆が甚だしく、部首そのものを省略することも頻繁です。ましてや後漢代に[[音大]/共]という字が使われているのですから、疑問の余地はないものと思います。
いかがでしょうか?
元の発言 [ Re: Title青龍三年鏡の疑問 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月1日(水)12時45分37秒 ]
>>
>>
確かにその通り、比較は実際は無理に近い物かもしれません。
僕のところにいる中国人は、龍の字と龍の右が大になって
いる字をみて、どちらの字もあるけど、意味が違うと
言っていました。
大のものは、龍とは違う架空の動物といってました。
だから、青龍に似せた年号をいれてあるのは、後の時代のものだから、わざと書かなかった(彫らなかった)可能性もありますね。
結局は、今の時点では、わからないということではないですか?
元の発言 [ Re: こりゃだめだ ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 8月1日(水)18時15分07秒 ]
>> だけど鉛の分析だけなんですか?
>> 錫とかは分からないんでしょうか?
# 銅や錫は同位対比がほとんど一定で、産地同定に使えません。鉛の場合ウラン238と235、それにトリウム232のそれぞれに由来する異なる鉛があるので、それらの混合比が産地同定に使えるわけです。
朝鮮半島産の可能性はないようです。
元の発言 [ Re: Title 日本書紀編纂者は、口述筆記?大チャチャ ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 8月1日(水)18時09分36秒 ]
仏教のほうがパクリでしょう。
日本書紀には若干,背景に系統の人材がいたかも,,,(^^?
元の発言 [ Re: Title青龍三年鏡の疑問 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 8月1日(水)20時40分34秒 ]
なるほど。
「音尨」という字が新しいものなら「音犬」も新しいと言えるけれど
「音尨」が以前からあるならば「音犬」が新しいとは言いきれないですよね。
龍そのものでなくとも、龍を含む字で[音大]という書き方があるなら
青龍三年に作られた鏡でないという理由にはならないですね。
だいぶ前に大杉博という人が出した
邪馬台国は四国にあった
というのがあるけれど
皆さんはどう思いますか?
これを信じると、機内説や九州説とはかなり違う内容なのですけれど。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 8月1日(水)16時45分32秒 ]
>> かまくら龍さんは九州王朝説ですか。
勿論、九州王朝説です。
>> 古田さんの九州王朝説では神武は弥生末期に半島から来た人たちで、一旦九州に降臨したあと
>> 北九州の住民を連れて畿内に攻め込むんでしたよね。
>> その時倭国はどうしていたんですか?
>> むざむざ自国領を蹂躪されるままだったんですか?
神武は、半島人ではありません。
生まれは日向(ひゅうがー宮崎県)でしょうが、東進(侵)の際は、筑紫(福岡県)の日向(ひなた)から出発しています。
ついでですが、天孫降臨も筑紫の日向のくしふるの峯(高祖山)です。
筑紫の現在も、日向峠や高祖山があります。
元の発言 [ 邪馬臺國九州説はともかくとして ] お名前 [ 蛟児 ] 日付 [ 8月1日(水)17時14分42秒 ]
>>
>> 下記のページを御覧の上、感想をお聞かせいただければ幸いです。
大変な労作に頭がさがります。
これだけのものを読むだけでも、相当な時間がかかりますので、感想は、別にさせてください。
ただし、1つだけ気になるのは、「九州王朝」が薩夜麻が唐に捕らえられ(白村江の戦いで)てしまったため、実質的には「九州王朝」は崩壊してしまったと考えます。
となると、それ以後は、「大和朝廷」側の意見しか聞くことができなくなったためではないかとも考えられます。
「日本書紀」にある、「大和朝廷」の大義名分論だけで。
最後に一つだけお尋ねしたい。
本論文は、いつ頃作成されたのでしょうか?
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 8月1日(水)18時18分58秒 ]
>> “分類”などどうでもよいでしょう。
分類をしているおにりんさんの考えを理解する上では重要な情報源です。明らかに武光よりさらに声の大きい古田の名前が出てこないのは、なぜだろ〜って興味ありませんか。古田説がトンデモであるという評価だとしても、あれだけ大声の主は居場所(分類区分)くらいはっきりさせてしかるべきでしょう。まあ、「無視」という分類だと理解しましたが。
>> それより、賛同者には、日本文学・哲学等の専門家がたくさんいます。
#私は自分で納得できれば偉い先生のお墨付きは要りませんけど。
むしろ鋭い反対論の方が知識を深める上ではずっと重要です。古田は論争が下手くそで、相手に「あんな品性卑しき人物とはまともな論争はできない。」と言わせる口実を与えてしまいました。古代史ファンとしては残念なことです。
元の発言 [ Re: Title 日本書紀編纂者は、口述筆記? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 8月1日(水)20時37分56秒 ]
>> >> 一番近くにあるのを忘てたませんか?
>> >> アイヌの方々に伝わるユーカラが代表でしょう。
>> >> 良く考えたら、縄文文化やその他をたどるのにも重要なもののように思うんだけど忘れちゃってましたね!!
>> #です。
>> #確かユーカラの語り部がトランス状態に入って語るって話しがあったと思います。
>> #内容はもちろん、速さも非常に正確だったと。
アイヌの方々にユーカラが有るように、縄文人たちにも弥生人にも同じようなものがあったのでしょうか?
私は、本物のユーカラを聞いたここは有りませんが、
日本人が、文字を使い始めて失った偉大なものは、どのようにかたられていたのか。
ユーカラの内容に影響は合ったのか知りようも有りませんが、
大変興味を感じました。
元の発言 [ Re: 邪馬臺國九州説はともかくとして ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 8月2日(木)11時21分03秒 ]
申し訳ありません。誤解を招く書き方をしてしまいました。あの論文の作者は私ではありません。
>> 大変な労作に頭がさがります。
私も同感です。
>> これだけのものを読むだけでも、相当な時間がかかりますので、感想は、別にさせてください。
はい。ごゆっくりどうぞ。
>> ただし、1つだけ気になるのは、「九州王朝」が薩夜麻が唐に捕らえられ(白村江の戦いで)てしまったため、実質的には「九州王朝」は崩壊してしまったと考えます。
>> となると、それ以後は、「大和朝廷」側の意見しか聞くことができなくなったためではないかとも考えられます。
>> 「日本書紀」にある、「大和朝廷」の大義名分論だけで。
日本国と倭国が別の国だという説は唐が滅亡してから始めて出てきた説なんです。それ以前の日中両国の史料はすべて同じ国だとしている。
#まあ、細かい議論はあの論文を熟読していただいた上でのことにしましょう。
>> 最後に一つだけお尋ねしたい。
>> 本論文は、いつ頃作成されたのでしょうか?
この質問は、あちらの掲示板にお願いします。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月4日(水)10時11分40秒 ]
>> 中平年間は184年〜188年で東大寺山古墳の築造年代とは100年以上隔たっています。
>> 公孫氏は遼東を支配する前の事です。
>> 公孫氏と畿内の交流を示す事にはならないでしょう。
>>
>> 公孫淵が討たれたあと畿内へ逃げ込んだ可能性はありますけど。
>>
>>
>>
後漢は黄巾の乱などで力を失いつつあり、この乱のさなか直接もらう事はないでしょうね。
>>
公孫度は後漢を助けたりして後に遼東太守の地位を得たりしますから公孫度が貰った可能性は高いでしょう。
でも普通は主筋からの下賜品を更に属国に与える事はありません。
公孫氏にとって魏は主筋の後漢を乗っ取ったとんでもない国でした。
だから呉と結んで果敢に戦いを挑んだ。
そして敗れて畿内に逃げ込んだ時に匿ってもらうお礼に刀を差し上げる、と言うのが無理のない解釈ですね。
公孫氏から高句麗→大和の線もありえますね。
>>
>>
>>
私も三世紀には無かったと思います。
但し、五世紀位になって畿内が十分発展してからなら東遷の可能性を排除しません。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 8月2日(木)09時38分34秒 ]
>> 神武は、半島人ではありません。
>> 生まれは日向(ひゅうがー宮崎県)でしょうが、東進(侵)の際は、筑紫(福岡県)の日向(ひなた)から出発しています。
古田氏とは少し意見が違うのでしょうか?
古田氏は「天孫降臨ショック」という言葉で半島からやって来た事を言っていたように記憶しています。
>> ついでですが、天孫降臨も筑紫の日向のくしふるの峯(高祖山)です。
>> 筑紫の現在も、日向峠や高祖山があります。
日向の件は目からウロコでした。
「クシフル」って朝鮮語くさいですね。亀慈峰?
元の発言 [ Re: 四国説 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月2日(木)10時38分56秒 ]
>>
>>
四国は侏儒国の有力候補地。
元の発言 [ Re: Title 「ローマ文化王国 新羅」っつう妙な本 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月31日(火)00時29分10秒 ]
蛇足ながら,,,(^^;
言葉の上で,蛇と剣を重ねる,という傾向が見られますよね・・・。
「蛇信仰」という形態なのかどうか知らんけど。
この辺りこそ面白そう。
遠賀川流域というと,いろいろ連想はされます。
それと,蛇,龍,鮫,鯨,なんかのこと。
# 吉田説だと,スサノヲ≡ポセイドン説。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月2日(木)13時00分21秒 ]
>>
>>
>>
と言っておきながら、
>>
>>
は、反論になっていないのでは?
#「ジャーナリスト」ってのは、まさか某研究所の大本営発表を垂れ流すしか能のないサラリーマン諸氏のことではないでしょうね。
>> むしろ鋭い反対論の方が知識を深める上ではずっと重要です。・・・と言わせる口実を与えてしまいました。古代史ファンとしては残念なことです。
>>
# (゜ 。) ??? (。 ゜) ??? 「逆」って???
#古田は鋭い問題提起をたくさんしています。例えば、
「アマテラスは絹以前、卑弥呼は錦に囲まれていた。明らかに年代が異なる。」
なんてのは、怪しげな統計学よりずっと考察に値すると思いますが。彼を無視するのはもったいない。
元の発言 [ Re: 四国説 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 8月2日(木)20時31分51秒 ]
> 四国は侏儒国の有力候補地。
侏儒国ってなに?まだまだ、無知なもので。
元の発言 [ Re: 四国説 ] お名前 [ マリク ] 日付 [ 8月3日(金)00時58分59秒 ]
>> > 四国は侏儒国の有力候補地。
>> 侏儒国ってなに?まだまだ、無知なもので。
九州有明海沿岸説の立場からだと
「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。」
が丁度四国東岸が距離的に良いかなと思います。
宇佐説ならば近畿地方和歌山あたりになりますか。
私の本心から言えば記に土蜘蛛族の書いてある近畿の
方を取りたいのですが。(^^)
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 8月2日(木)20時14分04秒 ]
>> >> ついでですが、天孫降臨も筑紫の日向のくしふるの峯(高祖山)です。
>> >> 筑紫の現在も、日向峠や高祖山があります。
>> 日向の件は目からウロコでした。
日向峠や高祖山は考古学者の原田大六が早くから指摘していますね。
ちなみに特殊器台=立棺説も最初は原田大六のようです。
元の発言 [ 津に臨んで捜露する ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 7月1日(日)19時27分37秒 ]
>> こんばんは。ハヤシライス改め、郭公です。久しぶりに投稿します。手前味噌になってもいけないので、みなさんのご批判とご教示をいただければありがたいです。ご賛同いただければなおありがたいです。
こんばんは。末尾の方にコメントを。
>> また、不弥国までは里で表記されているのに対し、この投馬国、邪馬台国への距離は日数表記になっている。この投馬国、邪馬台国への表記と、不弥国までの表記とは魏志倭人伝が参考にした史料そのものが異なっていたとする説があるが、その通りだと思う。もともと、別に存在していた投馬国、邪馬台国までの記事を、「魏志倭人伝」は不弥国の後ろに付加したと私は考える。
>> そのように考えると、この投馬国、邪馬台国への日数表記はどこを起点にしているのかと言う問題が残る。私は、伊都国ではないかと思うが、これはもちろん推量である。
日数記事と里数の記事の元が異なる資料という点は、文の書き方も異なっていますから賛成です。
>> ・自女王國以北、其戸數道里、可得略載、其餘旁國、遠絶、不可得詳。(女王国より以北、その戸数・道理は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず)
>> 不弥国までは、戸数も道里(里数として)が書かれている。不弥国から水行したとは考えられない投馬国、邪馬台国への記事が存在しなくてもこの記事は成り立つ。
>> つまり、女王国は、不弥国の南にしかも陸行できるところにあったのではないかとの推測が導かれる。具体的には、私は、大宰府あたりではないかと考えるに至っている。
自女王國以北、其戸數道里、可得略載、其餘旁國、遠絶、不可得詳。
これは、作者の注記であって、地の文ではありません。通常このような断りを入れないのに、倭人伝では入れている。入れなければならない必要があったからだと思います。
この文の必要性を考えて読む場合。女王国の位置を示すためであり、女王国は日数記事の国ではない事になります。
断り書きを付けながら、女王国が里数記事の国とは別の国なら、里数記事の最後に女王国まで何里とないのは片手落ちでしょう。女王国は、不弥国の南にしかも陸行できるところにあったとは考えられません。
>> もちろんこの考えは、「魏志倭人伝」の記述と矛盾する。邪馬台国は、不弥国から南へ水行二十日で投馬国へ行き、さらにそこから南へ水行十日、陸行一月というどこだかわからないところにあるのだから。
陳寿が残した断り書きに従って読むなら、里数と戸数のある最後の国の不弥国が女王国となり、魏志倭人伝と矛盾しません。
邪馬壹国がどこか分からなくなるのは、卑弥呼の居た女王国よりも、情報が少なかったからだと思います。都する所の女王は壹与でしょう。
>> さて、私は、大宰府あたりが女王国であろうと書いたが、それでも問題がないわけではない。ひとつには、倭の女王卑弥呼の墓である。私は、この卑弥呼の墓を「平原1号墓」と考えている。被葬者は女性であると考えられること、三世紀と考えられること、副葬品から王墓と考えられることに拠っている。ただ、この墓は伊都国にある。卑弥呼の墓がなぜ女王国になく、伊都国にあるのか?
>> もちろん当時の伊都国王が女王であり、その墓が平原1号墓と考えることはできるが、いまのところこの平原1号墓以上の墓が発掘されていないのである。
>> これにもまたうまい考えが見出せずにいる。
女王国の東へ里数で標記された記事があって、海を渡っているので、女王国(不弥国)は、九州の瀬戸内海沿岸と思います。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 8月2日(木)23時06分35秒 ]
EKさん
>> #古田は鋭い問題提起をたくさんしています。例えば、
>> 「アマテラスは絹以前、卑弥呼は錦に囲まれていた。明らかに年代が異なる。」
>> なんてのは、怪しげな統計学よりずっと考察に値すると思いますが。彼を無視するのはもったいない。
もう止めましょう。
この人は、自分の意見は言いますが、論理を示さない。
論争をしようというのに、自分の都合が悪くなると、“ナンセンス”だとかの情緒にはしってしまいます。
また、他人を誹謗するのは、この欄の本旨ではないはずなのに。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 8月3日(金)11時59分49秒 ]
>> もう止めましょう。
>> この人は、自分の意見は言いますが、論理を示さない。
#多分、かまくら龍さんはおにりんさんを誤解しています・・・って私も何を知っているわけではありませんが。
「大論争」の楽しみのひとつは、おにりん氏からいかに本音を引き出すか、です。
>> 論争をしようというのに、自分の都合が悪くなると、“ナンセンス”だとかの情緒にはしってしまいます。
#暑いので、少しお疲れなんでしょう。
元の発言 [ Re: 失った伝承文学 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月2日(木)12時57分22秒 ]
>> 日本人が、文字を使い始めて失った偉大なものは、どのようにかたられていたのか。
>> ユーカラの内容に影響は合ったのか知りようも有りませんが、
>> 大変興味を感じました。
>>
>>
>>
>>
>>
その点は、認め評価せざるおえませんね。
>>
>>
それも有るでしょう。
>>
>>
いろんな意味で間違いとは言えません。
>>
>>
それも認めます。
まず、文字を使うのは記録に近い人たちであることを無視してませんか
それに頼って無視しやすくなるのでは。
そして大きな見落としが、有るのに気づいていません。
伝承文学といいますが実質は、歌であり音楽であり宗教儀式でも有り儀礼儀式でも有るんです。
それが丸ごと文字の中にすべて残せるとでも?
楽譜というのも手ですが、一緒に残ってますか?
芝居の台本で演技が正確に再現できますか?
例)万葉集があります。
すばらしい歌の数々が残っているのは大変なことですが、正確なよみかたうたい方が分かりますか。
その調子の肯定で声の出し方で意味がまったく変わらないとでも?
私は、この事を言っているのです。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月3日(金)12時55分22秒 ]
>>
>>
#これは、どうでしょう。下の方でも伝承について論じられていますが、古い話が残っていても少しも不思議はない。
>>
>>
#馬ですか?
(1)これこそ、アマテラスが卑弥呼でないことを明確に示している。
(2)後代の脚色は当然少しはあるでしょう。
(3)私は、馬が出てきても別に不思議はないと思っています。
(4)「南 → 東」が許されるなら、「馬 → 熊」ってのはどうですか。
・・・もう思いつかない。
元の発言 [ Re: 四国説 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月2日(木)10時08分58秒 ]
はじめまして、山佐留と申します。
大論争のページは、先月より拝見させていただいております。
このたび、四国説がテーマに取り上げられましたので、邪馬台国土佐説を持論とする、偏愛的郷土史家の私としましては、ぜひ一言と思い、投稿いたしました。
里程の問題について「おにりん」さんの投稿をお借りして少し述べさせてください
>>
>>
>>
>>
このことは、北部九州から四国へは「南行」と「陸行」によって到達可能なことを示しています。
>>
>>
>>
季刊邪馬台国71号の偽史列伝「日本史のブラックホール四国」の中に邪馬台国土佐説も取り上げられています。ここでは倭人伝の北部九州から先の行路における、「南至投馬国・・」「南至邪馬台国・・」での「南」方位を、「東」に変更することなく土佐をめざすことができる、と紹介されています。この場合、「南至投馬国・・」「南至邪馬台国・・」は不弥国を起点とした、放射状説で考えて、投馬国は南九州にあったとしても良いのではないでしょうか。
また、邪馬台国へは九州の東岸から四国の西岸を南下し、投馬国への行程の約半分の地点で上陸し、東方向に四国の中心を目指したものと考えられます。
方位、道里とも、魏志倭人伝の記述と矛盾しないように思われます。
また、魏志倭人伝の後段において、倭国の地理的な特徴として、「倭の地の周旋は、五千里余りである」との記述もみられ、これも四国の海岸線の長さに合致すると思われることから、里程の問題についていえば、邪馬台国が四国にあった可能性は高いと思われますが、いかがでしょうか。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月3日(金)08時18分21秒 ]
>> 「クシフル」って朝鮮語くさいですね。亀慈峰?
>>
任那の亀慈峰(キジフル)に降臨した首露王伝説というのは日本が先でしょうか、それとも韓国?
「キジ」は分かりませんが「フル」は朝鮮語の「都」でしょう。
「亀慈峰」朝鮮語の読みを漢字に当てはめた物という気がしています。
>>
>>
「奇振」は日本語ではどういう意味があるのでしょう。
「高千穂の添(ソホリ)の峯」というのも「ソホリ」は朝鮮語の「ソウル」から来ているのじゃないかと思っています。
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 7月31日(火)18時05分34秒 ]
koujiさん、こんばんは。
> いつもいつもレスが遅くなり
そんなことはありません。私もいつもいつも書き込める状態ではありません。
むしろ、koujiさんを困らせているのではないかと内心喜んでいたのですが…。
> 捜露の目的語は何かという問題ですね。
結局それに尽きると思います。
>「王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露」と「傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯。」とを切り離して解釈する以上、捜露の目的語は省略されていることになります。
この省略された目的語が前段にあっては、倭王からの文書や献上の品物であり、後段にあっては「文書・賜遺之物」であり、その言葉の重複がわずらわしいために省略されているのだとすれば、「伝送して」と読むべきでしょう。先に引いた下記の二例ではそのように解釈しています。
>> 3.『日本の古代 1 倭人の登場』(中央公論社)
>> 4.一中国人の読む『魏魏志倭人伝』謝銘仁(「歴史と旅」59/8所収)
つまりここでも捜露したのは、「文書・賜遺之物」です。
ですが、
「王遣使詣京都帶方郡諸韓國」と
「郡使倭國皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」は、
それぞれで意味の通る文章なので、先にも申し上げたように、全体としてはしっくりしませんが、西嶋定生氏の下記の読みに私はしたがっておきたいと思います。
> 王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使するや、皆な津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣らしめ、差錯するを得ず。
たぶんですが、「及」で繋いだのが具合が悪かったのではないかと思います。
「及」はおよびでなかったのではないかと。
さて、
(郭公)
>>> B-1とB-2が入り乱れないように、文書と照合しながら捜露したということではないでしょうか。
(koujiさん)
> それはありえないと思います。文書も賜遺之物も封がしてありますから、両者を照合するためには開封する必要がある。しかし、女王のもとへ送り届ける以前に開封することはありえないでしょう。
私も開封はしていないと思います。
この「皆装封」については以前にもここで書いた記憶がありますが、その時は、例えば長持のような木箱に入れて、油紙のようなもので包み、泥封して…と、そんなイメージで捉えておりましたが、それにしても重量がありすぎますので、もっと小分けにしてそれぞれを装封したと考えることもできると思います。
絳地交龍錦五匹 単位が変わっていなければ、4.7mの織物が10個
絳地スウ粟ケイ十張
セン絳五十匹 4.7mの織物が100個
紺青五十匹 4.7mの織物が100個
これだけでも相当の重さになるでしょう。
紺地句文錦三匹 4.7mの織物が6個
細班華ケイ五張
白絹五十匹 4.7mの織物100個
金八兩 (周代の単位では1斤の半分で128gになりましょうか)
五尺刀二口(周代の単位では大尺で22.5cmx5=112.5cm、小尺で18cmx5=90cm)
■なお、平原1号墓には、80.6cmの素環頭大刀が副葬されております。
銅鏡百枚 (おおよそ70kgから80kgくらいにはなることと思います)
真珠鉛丹各五十斤 (12.8kgx2=25.6kg)
以上の重さと個数の多さから、持ち運ぶ際の都合を考えますとすべてをひとつにまとめて装封したのではなく小分けにしてそれぞれを装封したと考えるのが穏当かと思います。
だから、間違いのないように捜露したのではないかと思います。目録の控は郡使が持っていたと思います。
そして、梯儁一行は伊都国でこれらの荷物と共に倭国に上陸し、陸行して倭国王卑弥呼に届けたのではないでしょうか。
元の発言 [ Re: 四国説 ] お名前 [ 山佐留 ] 日付 [ 8月3日(金)22時04分43秒 ]
山佐留さん今日は。
>> このたび、四国説がテーマに取り上げられましたので、邪馬台国土佐説を持論とする、偏愛的郷土史家の私としましては、ぜひ一言と思い、投稿いたしました。
>> >> 九州説にくらべれば、ずっと蓋然性が高いという感じが
>> >> しますけどね。
>> >> 4)方向からして、玄界灘沿岸から、南方とすることが
>> >> できる。
>> このことは、北部九州から四国へは「南行」と「陸行」によって到達可能なことを示しています。
方向を90度変える必要はなく半島−九州間の40度+αくらい。
>> >> 問題点としては、
>> >> 2)投馬国は、この場合、大和説と同様吉備、あるいは
>> >> 出雲に置くことになるが、道里(日数)が合うか。
は畿内でもあってませんから心配なく。
>> 季刊邪馬台国71号の偽史列伝「日本史のブラックホール四国」の中に邪馬台国土佐説も取り上げられています。ここでは倭人伝の北部九州から先の行路における、「南至投馬国・・」「南至邪馬台国・・」での「南」方位を、「東」に変更することなく土佐をめざすことができる、と紹介されています。この場合、「南至投馬国・・」「南至邪馬台国・・」は不弥国を起点とした、放射状説で考えて、投馬国は南九州にあったとしても良いのではないでしょうか。
>> また、邪馬台国へは九州の東岸から四国の西岸を南下し、投馬国への行程の約半分の地点で上陸し、東方向に四国の中心を目指したものと考えられます。
>> 方位、道里とも、魏志倭人伝の記述と矛盾しないように思われます。
少なくとも「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」だけは確実に畿内説より有利ですね。
>> また、魏志倭人伝の後段において、倭国の地理的な特徴として、「倭の地の周旋は、五千里余りである」との記述もみられ、これも四国の海岸線の長さに合致すると思われることから、里程の問題についていえば、邪馬台国が四国にあった可能性は高いと思われますが、いかがでしょうか。
は一里435mで計算した場合でしょうか。
倭の地周旋はどこまでを範囲に入れるのでしょうか。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 8月3日(金)12時33分39秒 ]
>> >> もう止めましょう。
>> >> この人は、自分の意見は言いますが、論理を示さない。
>> #多分、かまくら龍さんはおにりんさんを誤解しています・・・って私も何を知っているわけではありませんが。
>> 「大論争」の楽しみのひとつは、おにりん氏からいかに本音を引き出すか、です。
#九州説を捨ててからズーと首尾一貫していらっしゃいます。
#本音は「九州説は宗教、聞くに値しない邪説」でしょう。
#「九州説は弾圧されるから止めた」じゃないと思います。
>> >> 論争をしようというのに、自分の都合が悪くなると、“ナンセンス”だとかの情緒にはしってしまいます。
>> #暑いので、少しお疲れなんでしょう。
#冬場も全く同じですヨ。
#おにりんさんの仰る“専門家”が先日のNHKで、
#「古墳時代の大和に大きな勢力があったことは証明されたが、それが邪馬台国に繋がるかどうかはわからない」と言ってました。
#まともな考古学者は概ね同様です。確たる物証がないのだから当然のこと。
#「自分はこう思う」と「俺がこう思うからその他は間違い」のどちらが学問的態度でしょう。
元の発言 [ 津に臨んで捜露する ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 7月1日(日)19時27分37秒 ]
>> こんばんは。ハヤシライス改め、郭公です。久しぶりに投稿します。手前味噌になってもいけないので、みなさんのご批判とご教示をいただければありがたいです。ご賛同いただければなおありがたいです。
こんばんは。末尾の方にコメントを。
>> また、不弥国までは里で表記されているのに対し、この投馬国、邪馬台国への距離は日数表記になっている。この投馬国、邪馬台国への表記と、不弥国までの表記とは魏志倭人伝が参考にした史料そのものが異なっていたとする説があるが、その通りだと思う。もともと、別に存在していた投馬国、邪馬台国までの記事を、「魏志倭人伝」は不弥国の後ろに付加したと私は考える。
>> そのように考えると、この投馬国、邪馬台国への日数表記はどこを起点にしているのかと言う問題が残る。私は、伊都国ではないかと思うが、これはもちろん推量である。
日数記事と里数の記事の元が異なる資料という点は、文の書き方も異なっていますから賛成です。
>> ・自女王國以北、其戸數道里、可得略載、其餘旁國、遠絶、不可得詳。(女王国より以北、その戸数・道理は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず)
>> 不弥国までは、戸数も道里(里数として)が書かれている。不弥国から水行したとは考えられない投馬国、邪馬台国への記事が存在しなくてもこの記事は成り立つ。
>> つまり、女王国は、不弥国の南にしかも陸行できるところにあったのではないかとの推測が導かれる。具体的には、私は、大宰府あたりではないかと考えるに至っている。
自女王國以北、其戸數道里、可得略載、其餘旁國、遠絶、不可得詳。
これは、作者の注記であって、地の文ではありません。通常このような断りを入れないのに、倭人伝では入れている。入れなければならない必要があったからだと思います。
この文の必要性を考えて読む場合。女王国の位置を示すためであり、女王国は日数記事の国ではない事になります。
断り書きを付けながら、女王国が里数記事の国とは別の国なら、里数記事の最後に女王国まで何里とないのは片手落ちでしょう。女王国は、不弥国の南にしかも陸行できるところにあったとは考えられません。
>> もちろんこの考えは、「魏志倭人伝」の記述と矛盾する。邪馬台国は、不弥国から南へ水行二十日で投馬国へ行き、さらにそこから南へ水行十日、陸行一月というどこだかわからないところにあるのだから。
陳寿が残した断り書きに従って読むなら、里数と戸数のある最後の国の不弥国が女王国となり、魏志倭人伝と矛盾しません。
邪馬壹国がどこか分からなくなるのは、卑弥呼の居た女王国よりも、情報が少なかったからだと思います。都する所の女王は壹与でしょう。
>> さて、私は、大宰府あたりが女王国であろうと書いたが、それでも問題がないわけではない。ひとつには、倭の女王卑弥呼の墓である。私は、この卑弥呼の墓を「平原1号墓」と考えている。被葬者は女性であると考えられること、三世紀と考えられること、副葬品から王墓と考えられることに拠っている。ただ、この墓は伊都国にある。卑弥呼の墓がなぜ女王国になく、伊都国にあるのか?
>> もちろん当時の伊都国王が女王であり、その墓が平原1号墓と考えることはできるが、いまのところこの平原1号墓以上の墓が発掘されていないのである。
>> これにもまたうまい考えが見出せずにいる。
女王国の東へ里数で標記された記事があって、海を渡っているので、女王国(不弥国)は、九州の瀬戸内海沿岸と思います。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月3日(金)12時55分22秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#魏から卑弥呼への下賜品に絹がありませんでしたでしょうか。
#今のところ中国絹が出土しているのは北部九州だけですよネ。
#天照大神が卑弥呼伝承の反映だとする考えは結構多いですが、
#おにりんさんは全く関係がないとお考えですか。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月1日(水)18時49分38秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#かまくら龍さんは具体的な文献をあげて論を提示していらっしゃいます。
#おにりんさんにも「異端説の異端たる理由」を具体的にあげて欲しい。
#考古学的事実では熊襲(球磨+曽於)の地に北部九州とは異なる文化があったことがわかります。
#伊都国や奴国の南、文献どおりの狗奴国として、「考古学的事実などとは全く相容れない」などとは言えない。
#おにりんさんがどんなに言い張ろうと怒鳴ろうと、
#“考古学的事実”が“全く”無いわけではないことを認めたくないだけでしょう。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月3日(金)08時18分21秒 ]
>> 「クシフル」って朝鮮語くさいですね。亀慈峰?
>>
>>
#日本語(大和言葉)でどういう言う意味になるんでしょう。
#櫛を振る?
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 8月4日(土)19時12分24秒 ]
>> #「九州説は弾圧されるから止めた」じゃないと思います。
あ、それは私も疑っていません。でも、おにりんさんのトップ・プライオリティはこのフォーラムが盛り上がるとでしょ?
>> >> #暑いので、少しお疲れなんでしょう。
>> #冬場も全く同じですヨ。
#ま、冬は寒いので。
ところで、おにりんさんは横浜人なんでしょうか>おにりんさん。
>> #「古墳時代の大和に大きな勢力があったことは証明されたが、・・・
#って、大きな古墳がたくさんあるんだから、相当な余剰労働力を動員できたのは「見れば」わかりますよね。問題は、その社会的・経済的・文化的・歴史的・地理的、○○的背景は何か?です。がんばってくださいね>考古学の先生方。
>> ・・・それが邪馬台国に繋がるかどうかはわからない」と言ってました。
#倭人伝には九州のことしか書かれていない、ってことは、・・・「読めば」わかりますよね。少なくとも、私とオヤジッチさんはこの当たり前が分かる幸せな人種です。
>> #まともな考古学者は概ね同様です。確たる物証がないのだから当然のこと。
#その先生はきっと本音で発言できる幸せな立場の方なんでしょう。
私は例の板切れに関して、テレビカメラの前で「これで大和説はきまり」と言った先生の立場を考えて、ほんとに涙が出ました。
元の発言 [ Re: 四国説 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 8月4日(土)16時37分58秒 ]
掲示板への投稿自体が初めてですし、専門的な知識はあまり無いので、要領を得なくてすみません。
>> >> また、魏志倭人伝の後段において、倭国の地理的な特徴として、「倭の地の周旋は、五千里余りである」との記述もみられ、これも四国の海岸線の長さに合致すると思われることから、里程の問題についていえば、邪馬台国が四国にあった可能性は高いと思われますが、いかがでしょうか。
>> は一里435mで計算した場合でしょうか。
>> 倭の地周旋はどこまでを範囲に入れるのでしょうか。
とのご質問ですが、(一里が何mで・・)というような計算をした結果ではありません。
魏志倭人伝の「倭の地の周旋は、五千里余りである」という記述には前段があります。
読み下し文から(しかも朝日新聞学芸部編という、少々年季もの)の引用ですが、
「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え或いは連なりて、周旋五千余里ばかりなり。」
というのが全文です。
ここで私の判断としては、「海中洲島の上に絶在し」とは倭の地が島国であり、「周旋五千余里ばかりなり」とは、その島の周囲の長さ(およそ海岸線の長さ)のことだと考えたわけです。
そこで、魏志倭人伝に書かれた「郡より、狗邪韓国まで七千余里」の距離と、日本列島にある島の周囲の長さとを比較した場合、本州はもちろんですが、九州も少し大きすぎるということで、もっとも「周旋五千余里」にちかいのは四国であろうということです。
ということで、倭の地の周旋の範囲も、邪馬台国があった(と私が考えている)四国全体を指すものと思われます。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 8月4日(土)21時01分04秒 ]
「駕洛国記」の首露王神話は好きな神話の一つですけど,,,(^^;
次のような説については?
鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』(中公新書)によると,
「朝鮮半島の中で,ツングース系の高句麗とモンゴル系の百済の神話とは,
倭族の神話を模した扶余国の神話の影響をうけたものであった。
これに対し新羅の神話と駕洛の神話は,
倭族みずからの神話を伝えるものであった。」(第63頁)
ここで倭族というのは,
中国の雲南から東アジア,東南アジアに移動して広がった,
水稲農耕と高床式住居の民だそうです。(同第10頁)
「亀旨峯」については「クイジボン」とあります。
この前後は難解なので,実は,
まだ内容をつかめる程には読みこんでません。(^◇^)¶
「くしふる」に漢字をあてると,「櫛(串)振る」とかいって,
樹木の形容とする説があるようですが,
あるいは「奇し」「降る」とかも連想されます。
「クシヒ」と意味を共有する言葉かもしらんし。
「そほり」については,高千穂あたりの山土って赤いそうなんですが,
赤い土のことを「そほ(そお)」と呼ぶのですね。語源については知らんけど。
ソウルあたりと一緒に考えたいのなら・・・,
「山海経」だかなんだかによると,
そこらあたりに倭人が住んでいた,
とかなんとか読める箇所があるという一説があるようですが・・・。
魏志倭人伝には矛盾点がある。
本当に信用できるのか?
EX:女王⇒倭女王にかわっている。
:里や日数を混ぜて使っている。
個人的には、とても疑っている。
でも、書いてあることは、信頼するのが前提となっている説しか読んだことないので。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 8月4日(土)22時59分52秒 ]
>> >> #「古墳時代の大和に大きな勢力があったことは証明されたが、・・・
>> #って、大きな古墳がたくさんあるんだから、相当な余剰労働力を動員できたのは「見れば」わかりますよね。問題は、その社会的・経済的・文化的・歴史的・地理的、○○的背景は何か?です。がんばってくださいね>考古学の先生方。
#私は単純だから、「倭国大乱」の時代にそんな社会余剰があったはずがない、
#女王国は庶民でも2〜3人の妻を持っているくらい男が少なかったんだからと考えます。§^。^§
>> >> ・・・それが邪馬台国に繋がるかどうかはわからない」と言ってました。
>> #倭人伝には九州のことしか書かれていない、ってことは、・・・「読めば」わかりますよね。少なくとも、私とオヤジッチさんはこの当たり前が分かる幸せな人種です。
#もっと単純、九州弁で「やめ(八女)たい(だって!)」です。「女王国=筑紫(磐井の勢力圏)」ってことで。
>> >> #まともな考古学者は概ね同様です。確たる物証がないのだから当然のこと。
>> #その先生はきっと本音で発言できる幸せな立場の方なんでしょう。
>> 私は例の板切れに関して、テレビカメラの前で「これで大和説はきまり」と言った先生の立場を考えて、ほんとに涙が出ました。
#専門家、特に学者と言うのは色々としがらみがあるものです。(ーー;)
#報道ってのも結構いい加減なところがあって、昨年の西日本新聞に「日本最古のオンドル発見!」と言う見出しが出たんですが、
#春日市教委の担当技師さんが、「竈の跡があるのに煙突(排気)の跡がない、床面の周囲に溝があるからオンドルかもネ」と言ったら、
#記者が「それいただき!」ってことで記事にしたそうです。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月4日(水)19時05分13秒 ]
>> >> 九州の人々が近畿に移ったというのは、全く証拠が無い
>> >> のですから、東遷なども含めて、とりあえず可能性は
>> >> ゼロに近いということです。
>> 私も三世紀には無かったと思います。
>> 但し、五世紀位になって畿内が十分発展してからなら東遷の可能性を排除しません。
#「全く・・・」だとか「とりあえず・・・」などの修辞に惑わされてはなりません。
#十分な根拠を挙げて可能性ありとする学者は少なくありません。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月6日(月)00時55分38秒 ]
>>
「クジフル」→「クジホウ」では?
>> 「高千穂の添(ソホリ)の峯」というのも「ソホリ」は朝鮮語の「ソウル」から来ているのじゃないかと思っています。
>>
古事記の大国主のところで「曽富理神」ちゅうのがありますが。
朝鮮語の「ソウル」から来ているというのは「通説」になっているような気がします。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月6日(月)00時55分38秒 ]
>>
「クジフル」→「クジホウ」では?
>> 「高千穂の添(ソホリ)の峯」というのも「ソホリ」は朝鮮語の「ソウル」から来ているのじゃないかと思っています。
>>
古事記の大国主のところで「曽富理神」ちゅうのがありますが。
朝鮮語の「ソウル」から来ているというのは「通説」になっているような気がします。
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 7月25日(水)14時48分43秒 ]
>> >> 邪馬壹国の直後の文章に、普通は文の途中に入らない作者の注記的文が入っており、それは、
>> >> 「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」
>> >> と女王国までは戸数と道の里数を載せているというものです、日数で書かれた邪馬壹国は、この文と矛盾していますよね。
>> >> この矛盾に陳寿が気づかないはずはないでしょう。里数に直すか、逆に自女王國以北其戸數道程とかに文を直さなかった以上は、女王国と邪馬壹国を違うものと考えていたからと思えます。
>> A 矛盾などないでしょう。
>> 1 陳寿が気づかなかったとしても、正史である以上、西晋朝の史官や天子を取り巻く官僚たちが気づくのでは?
>> 2 斐松之の注もないということは、五世紀頃の資料にも矛盾がないとは考えられていたのでしょう。
ええ、矛盾がないからこそ、日数記事の邪馬台国は女王国ではありえないのです。
>> B 里程と日数につても同様でしょう。
>> 1 まず、「倭人は帯方の東南大海の中にあり、…
>> 南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日・陸行一月。… 郡より女王國に至る、萬二千余里。」ですが、
>> ずうっと里程を記してきて、邪馬壹國に至りました。
投馬国には里程がありません。ずうっと里程を記して邪馬壹國に至ってませんから、その解釈はダメです。
里数の総合計を離れた所に書くのなら、日数の総合計も同じように離した所に書くべきでしょう。里程で各区間を記した行程記事の流れで同じ書き方でいきなり総日数を書くのが普通の表記法とは思えませんが、他に例があるのですか?
>> それの総日数が、「水行十日・陸行一月。」となるのでしょう。
元の発言 [ Re: 女王国は ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月25日(水)00時41分42秒 ]
>> 同じという事は、倭人からは里数の答えは得れないって事でしょ。
>> 総計をだすためにも、日数を直す必要はあったのに、邪馬台国と投馬国だけ日数を残す理由が、倭国は里数をしらないからじゃ理由にならない。
>> 里数に直す直さないの判断は、最終的には三国志を編纂する段階の陳寿にあったのだから、自分が付け(または残し)た注記と矛盾する記述をするのはおかしい。
>>
魏志倭人伝的には、根拠のない、邪馬台国を女王国とするよりはるかにましです。
>> 一大率は女王国も検察していたんですよ、倭国じゃないから置いた総督府がお膝元の倭国の国まで監察するのは普通ありえないでしょ。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
「自」もあるのでここの「以北」は含むと考えるのが普通なんですがね。
おにりんさんの場合は、女王国以北の記事に女王国が含まれないという事なので、邪馬台国は女王国でないって事になりますね。
>> あれ、倭国だから投馬国も里数でなく日数標記と言われてたと思ってました。
>>
>>
倭国以外には里数を知っている人がいたから里数標記されたとはじめの方で言われてたはずですが。
で、倭国にはそういう人がいないから日数なんだと。
些細ですませるとは、文献をいいかげんに利用する畿内説のパターンのようですね。
>> 邪馬台国7万と他国の人口と狗奴国の勢力を考えると、一月以上も離れた地を統合できる武力があったのでしょうか?
>> 仮に、そこまでの武力なら遺跡に残りそうな気がしますが。
>>
その権威とは何でしょうか?
>> 2)の意味するところは「女王国は倭人の住む領域を表す。」という可能性があると挙げたわけでしょ。
>> だから、女王国の東にも国があって、そこにも倭人がいる以上は、2)は成り立たないから違う(女王国は倭人の住む領域を表さない)としたんですよ。
>>
>>
2)を挙げたのは間違いという事ですね。
>> 北部九州が倭国でないというのは納得できませんが、その立場なら1)はありえるわけですね。
>> でも、3)は、里数で書かなかった以上ありえませんね。そこから、日数地域を倭国とする以上は、1)もありえなくなります。
>>
魏志倭人伝のもつ解像度がどれくらいか、まともに調べた研究というのはあるのでしょうか?
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月6日(月)01時10分59秒 ]
>>
>>
#いやー、「「ローマ文化王国 新羅」っつう妙な本」というタイトルを見て、この「っつう」っつうのは横浜あたりの言葉かなと思ったものですから。
>>
・・・
>>
>>
#これはそのとおりです。私は論理の人間ではありません。私は言葉を扱うのは苦手です。
でも私は自分の「非論理的思考」が捨てたもんじゃないってことを何度も経験しています。
>>
#私の「非論理」はその「どうってことないこと」が大切であると主張して譲りません。
説明できる範囲だけを説明してそれでこと足れりとするなら、おにりんさんが先日非難した古田武彦と同じであると認めていることになります。私はそれが当然だと思いますよ。説明できないことがたくさん残っていても、とにかくいろいろな事柄が説明できる、ということで仮説を提示するのは極めて実際的です。ただし、自分と他人を別の基準で評価するのはインチキです。
勝山の年輪年代測定資料bPに関する毎日新聞の2001年5月30日「紫外線による劣化が切断面にない」という報道について、この「切断面」が何を意味するのか橿考研に問い合わせ、ご回答を頂きましたので報告します。
橿考研の見解は「木材の表面には長期間外部に露出していた際に観察されるような、紫外線によって生じる目やせなどの劣化痕跡は認められない」というものです。したがって「切断面にない」は誤報で、なぜ報道に「切断面」という言葉が入ったか不明とのことです。
以上の回答を保存科学研究室の今津室長から頂戴いたしました。この場を借りて御礼申し上げます。
紫外線によって生じる目やせと言えば、我々もよく目にするところの、紫外線吸収物質リグニンの分解と風雨に晒されることの相乗効果で木目が浮き出してくる(木目でないところがへこむ)状態でありますが、その期間についてどう見積もるべきか現状の私も材料を持ち合わせません。
結論としては、橿考研の「木材の伐採から製材、加工にかかる時間幅、および、使用から廃棄に至る経緯やその間の時間幅をも考慮する必要があることは言うまでもない。残念ながら、現段階ではこれらの時間幅を明らかにするてだてはないが、それを極端に長く見積もる必要はないものと考えられる。」に行き着くものと思います。
元の発言 [ Re: 四国説 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 8月3日(金)06時29分51秒 ]
>> >> > 四国は侏儒国の有力候補地。
>> >> 侏儒国ってなに?まだまだ、無知なもので。
>> 九州有明海沿岸説の立場からだと
>> 「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。」
>> が丁度四国東岸が距離的に良いかなと思います。
>> 宇佐説ならば近畿地方和歌山あたりになりますか。
渡海千余里の倭種の国の南なので、
九州瀬戸内海沿岸の場合でも、四国が侏儒国でしょう。
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月25日(水)01時40分25秒 ]
>> 「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」
>> と女王国までは戸数と道の里数を載せているというものです、日数で書かれた邪馬壹国は、この文と矛盾していますよね。
>>
>>
いえいえ、無里です。
元の発言 [ Re: 四国説 ] お名前 [ おんじ ] 日付 [ 8月6日(月)20時20分19秒 ]
>> 九州瀬戸内海沿岸の場合でも、四国が侏儒国でしょう。
四国に身長1mのこびとがいましたか?
元の発言 [ Re: 四国説 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月6日(月)15時03分08秒 ]
>> 方位、道里とも、魏志倭人伝の記述と矛盾しないように思われます。
>> また、魏志倭人伝の後段において、倭国の地理的な特徴として、「倭の地の周旋は、五千里余りである」との記述もみられ、これも四国の海岸線の長さに合致すると思われることから、里程の問題についていえば、邪馬台国が四国にあった可能性は高いと思われますが、いかがでしょうか。
>>
>>
おにりんさんに賛同いただけるとは、思っていなかったので、勇気を出して投稿して良かったと、本当のところ、少し感動しています。
ただ、私の立場としては、一応「土佐邪馬台国説」なので、お隣とはいえ「香川県(讃岐)」に邪馬台国をもっていかれるのはすこし残念です。
確かに、高知県(土佐)は古墳に関して言えば、前方後円墳がほとんどみられず、横穴式石室墳のみが存在するという特殊地帯です。
したがって、「土佐邪馬台国説」が成立するためには、現在の考古学の常識では六〜七世紀において爆発的に造られたと考えられている、横穴式石室墳(他県でみられる横穴墓も同様と思われる)がもっと以前から造られており、卑弥呼の造った墓が横穴式石室墳であってもおかしくないということを、立証する必要があります。
しかし仮に、倭国の墓制が横穴式石室墳であり得るならば、倭国の大乱は前方後円墳をもつ中国地方の国家が、倭国の領土である四国へ侵略したために起こった、と考えることもできるので、四国の他県と高知県の古墳の分布の違いも説明できると思われ、
もうすこし欲張って言えば、中国、近畿地方の前方後円墳が消滅して、横穴式石室墳が造られるようになった経緯も、倭国の反転攻勢による東方への進出として解釈出来るとのではないかと考えています。
そこで現在、私としては土器の編年などについても勉強中ですが、この手の本は良く効く睡眠薬に早変わりしてしまい、なかなか先に進まないのが現状です。
このたびは、邪馬台国四国説が掲示板に現れたので、つい嬉しくなって投稿してしまいました。しかしながら、初心者マークでこの論争についていくのは大変なので、考古学的な知識についても、ワープロについても(なにより不得意なキーボードを打つのが大変)もう少し勉強して、きちんとした意見をいえるようになってから投稿させてもらうようにしたいと思います。
元の発言 [ Title魏志倭人伝 ] お名前 [ マリック ] 日付 [ 8月5日(日)00時04分31秒 ]
>> 魏志倭人伝には矛盾点がある。
矛盾は有りません。
>> 本当に信用できるのか?
他に信用すべき資料は有りません。
>> EX:女王⇒倭女王にかわっている。
変わると何が問題ですか?
>> :里や日数を混ぜて使っている。
同じ行程を日数と里数で現した例は「漢書」にも見られます。
>> 個人的には、とても疑っている。
>> でも、書いてあることは、信頼するのが前提となっている説しか読んだことないので。
疑うのは考古学的事実と照らし合わせてどうしても矛盾する場合のみにしましょう。
初めから間違っている筈では倭人伝を読む意味が有りません。
例えば景初2年の問題も上の方でやっていますが、初めから間違いとしなくても問題ない可能性が有る訳です。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 7月4日(水)12時18分49秒 ]
>> また、資料が残っていないのではからないってい行ってたけど、呉の史書なんか残っていないのかな?
>> 見つかったらいいな。
中国では王朝が変わった後、次の王朝の時に前の王朝の史書を作るのが通例なので三国志の呉志がそれにあたります。
元の発言 [ 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 7月11日(水)02時00分50秒 ]
>> 前にも書いたと思うけど
>> 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種ってことは
>> 女王国が海の東端にあるわけですよね。
>> たとえば畿内が中心として、三重方面まで含むとします。
女王國 : 当初近畿
途中から九州
これで、東渡海千餘里の論議をして、まとまるとは思えませんが。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月7日(火)11時11分33秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
#だからさ〜、おにりん説も同じでしょ。
#末盧国まで10,500里は5倍の誇張か誤差、伊都国まで500里は突然誇張なしに正確、次の奴国まで東南百里は方角も距離も合わないけど、まあ合っていることにしよう、南水行10日は東の誤り、陸行1月は、1日の誤りとするんでしたっけ、とにかく1月かかりそうなコースを探すんでしたっけ、東千里の倭種は無視、・・・。
#私の発言は独り善がりで分かりにくいかもしれないけれど、前の発言をきちんと読んでくださればこういう無駄なレスをつける必要がなくなります。
#「論理」と「非論理」については、後日じっくり書きます。
元の発言 [ Re: 後漢書の記述 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月26日(木)13時20分37秒 ]
おにりんさん、ご指摘ありがとうございます。
ここのところなかなか時間がとれなくて、
お返事が遅れた事をお詫びします。
>> なお、この魏略に登場する「女王国」は玄界灘諸国連合or北部九州連合の総称だと考えています。
>>
う〜ん、そうでしょうか?
>>
>>
>>
>>
なるほど、これは納得です。
ですが、北部九州が中心となって活躍していた時代の資料
も利用された、とは考え得ると思っています。
*で、たまたま翰苑に引用された部分は
*大乱以前の民間資料に基づいて記述されていた。
*だから邪馬臺國も投馬國も卑弥呼も登場しない・・・と
>>
>>
>>
>>
>>
>>
私の仮説は、倭人伝の「女王国」と「女王」の意味が違うと
いうものです。私の考えを、妄想込みで大雑把に羅列すると
・玄界灘沿岸諸国には大乱以前より女王を擁する伝統があった。
・「女王国」は、玄界灘諸国を指す言葉として、大乱以前より半ば固有名詞化していた。
・大乱前後 吉備と玄界灘諸国は、出雲への対抗上 同盟していた。
(大乱以前or纏向以前は、一大率に抑えられていない対馬は自由貿易港であって、
出雲は対馬を経由して自由に半島と貿易をしていたと考えています。)
・玄界灘諸国から鉄の武器を大量供与された吉備は 大乱で、
出雲と繋がりのある唐古・鍵/池上曽根を支配していた王族を殆ど滅した。
・大乱後 吉備は、占領地の人心掌握と出雲への抑えを兼ねて、
玄界灘諸国の祭司、卑弥呼を盟主とした連合を形成する。
吉備の思惑は「傀儡政権」。従って、選出された卑弥呼は伊都国の王ではなかった。
(もしかしたら、伊都国の王の主筋にあたる奴国の王族の末裔?)
連合への参加国は、大和/吉備/讃岐/北部九州/他、出雲については不明。
・卑弥呼の居する所として、吉備/北部九州 共同で纏向が建設される。
?纏向が完成するまでの間、卑弥呼は一時、宇佐に居住させられていた?
(本拠地から引き離し、吉備から手の届く所としては、
宇佐/安岐/吉備/大和 辺りが適当な場所に思える。)
・卑弥呼の居住地としての纏向は、いざという時に攻め落とし易いように、環壕が作られなかった。
?環壕が作られなかったのは、吉備の意向? それとも出雲の横槍?
・大乱後は未だ覇者の決まらない冷戦時代。権謀術数/合従連衡/盟約違約の横行する時代。
・纏向に都した卑弥呼(若しくはその一族)は、持ち前の政治力を発揮して、
纏向での支配権を樹立していく。
ここまでもかなりトンデモかも知れませんが、この後、私の考えはますますトンデモになっていきます。
・一大率に対馬を抑えられて半島との貿易経路を失った出雲は、吉備を仮想敵国として、卑弥呼と密約を交わす。
・纏向に派遣されていた吉備の王族は、卑弥呼と結んで吉備本国に離反していく。
・出雲と結んで貿易ルートとしての日本海経路を確保し、東海と交流を深めた纏向は、吉備と敵対していく。
・魏からの使者はこの頃日本海ルートを通って纏向に至る。
・北部九州/出雲/大和/もしかして四国も? に包囲され、貿易ルートを絶たれた吉備は、纏向に戦をしかける。
・卑弥呼の死もあり一時は混迷した吉備・纏向戦争だったが、
臺与と政略結婚をした出雲の応援もあり、吉備は平定される。
(若晝女神が大國主神の末裔と結婚した事は古事記に記述されています。)
う〜ん、どうでしょうか?
かなりトンデモが混じっているとは思いますが、
歴史観としては、大略は間違っていていように思うんですけれど・・・
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> ちなみに魏志倭人伝については、
>> 「女王国の定義は魏略と同様。その範囲を超えた広域連合については「女王」と記している。」
>> と考えています。
>>
はて? 「女王国」に関する位置や距離の記述は一切ないと思いますけど?
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 8月7日(火)20時29分16秒 ]
>> ・・・伊都国まで500里は突然誇張なしに正確・・・
ありゃ、間違えた。伊都国までは誇張、または誤差、でしたね。
管理人さん
8月度の更新はしないのですか?
元の発言 [ Title 8月度の更新は? ] お名前 [ 龍 ] 日付 [ 8月8日(水)09時07分04秒 ]
>> 8月度の更新はしないのですか?
夏休みで旅行にでも行ったのかな。
元の発言 [ Re: 四国説 ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 8月6日(月)22時15分32秒 ]
>> >> 九州瀬戸内海沿岸の場合でも、四国が侏儒国でしょう。
>> 四国に身長1mのこびとがいましたか?
日本全国身長1mの人々はいないと思いますが。
文献として いましたかという意味ですか?
四国にはなさそうですね。
葛城の土蜘蛛の首領は侏儒だったそうですが、畿内が侏儒国ですか?
元の発言 [ Re: 女王国は ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月7日(火)10時57分08秒 ]
>> 魏志倭人伝的には、根拠のない、邪馬台国を女王国とするよりはるかにましです。
>>
>> 「自」もあるのでここの「以北」は含むと考えるのが普通なんですがね。
>> おにりんさんの場合は、女王国以北の記事に女王国が含まれないという事なので、邪馬台国は女王国でないって事になりますね。
>>
おにりんさんは、自女王国以北の文について女王国が含まれないとするんでしょ。
以前の話では、日数の邪馬台国も自女王国以北の戸数道里を記した国に含まれると言われた。
よって、自女王国以北に女王国が含まれないなら、女王国以北の記事に含まれる邪馬台国は女王国ではない。
>> 些細ですませるとは、文献をいいかげんに利用する畿内説のパターンのようですね。
>>
>>
膨大な資料根拠の中に、邪馬台国や卑弥呼がでてきましたか?
考古学の資料から、畿内に日本で一番であろう大きな勢力の中心があった。
だけど、列島で一番の勢力が中国に朝貢したという事が正しいとは限らない。
鎌倉時代、幕府は鎌倉にあったけど都は京都でした勢力とは一致していませんよね。
その勢力が日本を統一していたという事が考古学から言えるのですか?
現段階では、その勢力が倭国で邪馬台国を中心としたと断定できる根拠にはならない。
根拠のなきところを中心として、適当に文献から拾うのは危ない方法です。
基本を軽視するのは主従逆転しています。
>>
>>
基本を些細とするのは危険ですよ。
>>
>>
>>
>>
大局から、邪馬台国に飛躍しないのなら、その方向もいいとは思いますが。
>> その権威とは何でしょうか?
>>
>>
ブランドの魅力を認めない者にとっては権威たりえません。
卑弥呼共立の倭国に参加しなかった国は、いわば卑弥呼共立時の権威を認めなかった国です。
その国を他国である倭国の王の卑弥呼が検察させているのなら、どのような権威なのかを知りたいのです。
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 8月4日(土)04時10分35秒 ]
郭公さん、どうも!今回は少し早めのレスです。
>> > 捜露の目的語は何かという問題ですね。
>> 結局それに尽きると思います。
>> >「王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露」と「傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯。」とを切り離して解釈する以上、捜露の目的語は省略されていることになります。
>> この省略された目的語が前段にあっては、倭王からの文書や献上の品物であり、後段にあっては「文書・賜遺之物」であり、その言葉の重複がわずらわしいために省略されているのだとすれば、
それならば、
『皆臨津搜露文書・賜遺之物、傳送詣女王』
(皆、津に臨みて文書・賜遺之物を搜露し、傳送して女王に詣す)
となるのではないでしょうか。呉志呂岱傳に
『權又詔岱討之,生縛金,傳送詣都』
(權又岱に詔して之を討たしむ。金を生縛し、傳送して都に詣す)
とあるように。「生縛」と「傳送」の目的語が同じく「金」であるから、後の方の「傳送」の目的語は省略されている。自然なことと思います。しかし、魏志倭人伝の方は実際には、
『皆臨津搜露、傳送文書・賜遺之物詣女王』
(皆、津に臨みて搜露し、文書・賜遺之物を傳送して女王に詣しては)
とあります。「臨津搜露」において、「臨」と「搜露」の目的語が同じく「津」であるから、後の方の「搜露」の目的語は省略されたと考える方がよいのではないでしょうか?
>> たぶんですが、「及」で繋いだのが具合が悪かったのではないかと思います。
>> 「及」はおよびでなかったのではないかと。
「及」は、誤記・誤写・誤刻の類だということでしょうか?勿論、その可能性が全くないわけではありません。しかしながら、文献上の裏付けもなく、誤記・誤写・誤刻の類を想定しなくても文意は充分に通るのに、そのような仮定をするのは如何なものでしょうか?
>> さて、
>> (郭公)
>> >>> B-1とB-2が入り乱れないように、文書と照合しながら捜露したということではないでしょうか。
>> (koujiさん)
>> > それはありえないと思います。文書も賜遺之物も封がしてありますから、両者を照合するためには開封する必要がある。しかし、女王のもとへ送り届ける以前に開封することはありえないでしょう。
>> 私も開封はしていないと思います。
(中略)
>> 以上の重さと個数の多さから、持ち運ぶ際の都合を考えますとすべてをひとつにまとめて装封したのではなく小分けにしてそれぞれを装封したと考えるのが穏当かと思います。
>> だから、間違いのないように捜露したのではないかと思います。目録の控は郡使が持っていたと思います。
なるほど。魏志が文書の控えを持っていて、賜遺之物は梱包を解かず、梱包されたものの頭数(乃び表書き?)と照合したということであれば、そういうことが行われてもおかしくはないですね。
あとは、文章の読解として妥当かどうかの問題ですが...
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 8月8日(水)00時48分22秒 ]
>> >> ・・・伊都国まで500里は突然誇張なしに正確・・・
>> ありゃ、間違えた。伊都国までは誇張、または誤差、でしたね。
前原から1500里では巻向まで行き着かない事は5月号で証明してありますから、
誇張から突然、卑小化したことになりますね。
元の発言 [ Re: Title 思い付いたこと ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月4日(水)14時06分39秒 ]
>>
>>
可能性としては、ただ編集者が、その重要性を見逃して
削らなきゃならない古事を残しているのも多いんじゃ?
もう一つ、吉野ヶ里ほかの遺跡から出土している
貝類のアクセサリってどうやって手に入れているんでしょうね?
吉野ヶ里他北九州の遺跡のほとんどは、
邪馬台国の勢力かであることに異存があるかたは、まず居ないでしょう。
貝類の取れる南九州や沖縄は、
久那国と呉の勢力下と見て間違いないでしょう。
すると、現代のように適大国貿易がなされていたんでしょうか。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 8月8日(水)19時32分55秒 ]
>> 前原から1500里では巻向まで行き着かない事は5月号で証明してありますから、
正確に測ったなんて主張してる人は誰もいないんだから
厳密に測ると1500里以上あるなんて言っても
なんの意味もないんじゃないですか?
元の発言 [ Re: 四国説 ] お名前 [ おんじ ] 日付 [ 8月8日(水)12時12分36秒 ]
>> 日本全国身長1mの人々はいないと思いますが。
さすがに1mとなるとね。
でも現代でも小人症ではなくても150cm以下の人が沢山いたりします。
侏儒国の子孫かも?(^^;
>> 文献として いましたかという意味ですか?
>> 四国にはなさそうですね。
>> 葛城の土蜘蛛の首領は侏儒だったそうですが、畿内が侏儒国ですか?
日本の国書にそう書いてあるんですから。
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月18日(水)10時24分31秒 ]
>> #「不弥国=宇美」とする根拠として、どんな理由をお考えですか。
>> (1)音が似ている。
>>
こんにちはおにりんさん。
専門家に楯突く気は有りませんが
piu∂t mier
はピミとは読めませんか?
ここいらへんどういう基準かよく分からないのですが・・・
元の発言 [ Re: 後漢書の記述 ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 8月8日(水)00時12分27秒 ]
>> かなりトンデモが混じっているとは思いますが、
>> 歴史観としては、大略は間違っていていように思うんですけれど・・・
あらら、タイポ。
大略は間違っていていように思うんですけれど・・・
↓ ↓ ↓
大略は間違っていないように思うんですけれど・・・
元の発言 [ Re: Title 8月度の更新は? ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 8月8日(水)09時33分39秒 ]
>> >> 8月度の更新はしないのですか?
>> 夏休みで旅行にでも行ったのかな。
私の愛読している某雑誌も「7・8月合併号」ですもんね。
NHK特集『 日本人はるかな旅』が、今月19日(日)から始まる。
番組のテーマは、「日本人のルーツを探る」こと。
第5集の番組案内を見てみよう。
・・・・・・近年になって中国山東省で弥生人にそっくりな人骨が見つかったことから、長年続いてきた論争に決着がつきました。縄文時代が終わるころ、大陸から縄文人とは姿形の違う人たちが日本列島に渡来してきたのです。
当時の中国は「春秋戦国」と呼ばれる戦乱の時代。戦火を逃れた人たちが、いわば“ボートピープル”になって日本列島に安住の地を求めたと考えられます。その後、渡来系の人たちと先住民である縄文系の人たちがせめぎ合いながら、共存・融合を繰り返し、現代の日本人につながる弥生人が生まれたのです。
※http://www.nhk.or.jp/
縄文と弥生。
ポピュラーな言葉だが、日本の歴史を語るには不合理かつ不適切な概念である。
縄文人?
こんな人種が、本当にいたのだろうか?
最新の研究から推定できるのは、「紀元前200年頃から、渡来系の侵入者が先住民とせめぎ合い、共存・融合あるいは侵略・征服を繰り返し、現代につながる日本人が生まれたこと」である。
縄文、弥生という古くさい考古学用語を振り回すのは、不必要なばかりか、誤った先入観から新しい研究成果を台無しにしてしまう。
古代中国において、先史日本地域は「邪馬」と言われていた。
『古事記』は、その地域を「天地」、上代日本語で[yamatuti(→yamato)]と表現している。
上代とは、『古事記』に描かれた時代(紀元前210〜西暦645)である。
そこには、大別して3系統の先住民が住み着いていた。
最も古いのは、九州南部から関東にかけて散在した南方系の先住民。
この集団の人口は少なく、先史後期には九州南部、それも一部に限られていたようだ。
次に北方系の先住民。
関東以北、東日本一帯に定住し、先史日本において圧倒的に人口が多かった。
上代初期前後には、いくつかの大きな集団に分かれていたようである。
最後に朝鮮系の先住民。
人口は少なく、北九州から北陸、日本海沿岸地域に分散して居住していた。
彼ら先住民たちは、それぞれ特有の、高い文化を持っていた。
それは、「縄文」の名で一括すべき人種や文化ではない。
先史日本後期の人口は、30万人弱と推定されている。
人口密度は、東高西低。
日本の先史時代、先住民の9割以上は東日本に住んでいた。
※鬼頭宏『日本二千年の人口史』(PHP1983)等。
しかし上代初期、人口が半減する。
人口密度は、わずかの間に西高東低となり、劇的に逆転する。
いったい何が起こったのか?
とても“ボートピープル”が起こした変化とは思えない。
『史記』によると紀元前210年、斉の方士・徐福は、百工と若男女3000人を連れて東渡している。
司馬遷は、「徐福、平原大沢を得て、止まりて王として来らず」と書いている。
これは、最近の考証により、歴史的事実とされている。
その平原大沢は、どこなのか?
諸説がある。
徐福の得た広原大沢は、『古事記』が描く上代日本「天」だった。
「天之御中主神」は、徐福のこと。
それが、私の『古事記』研究における仮説である。
『古事記』編纂者は、徐福東渡の真相を知っていたと考える。
序の「乾坤初め分かれ」は、徐福に同行した若男女3000人のことだろう。
『古事記』上巻本文では、「如葦牙因萌騰之物」と描かれている。
徐福は東渡にあたって、秦の始皇帝に請い、彼が征服した6国(斉・楚・燕・韓・趙・魏)から500人づつ、計3000人の若男女を引連れていく許可を得たと思われる。
しかし徐福は、そのうち1250人の女子をすり替え、女子は「すべて斉人にした」と、私は推定している。
今から2200年前、斉人の女子1500人と、6国(斉・楚・燕・韓・趙・魏)1500人の男子が上代日本に渡来、日本人の祖先となった考える。
当然ペアリングされた男女から生まれる子供は、すべて斉人と5国の混血児になる。
共通の、そして一番濃い血は、斉人のものになるだろう。
NHK特集が、「中国山東省で弥生人にそっくりな人骨が見つかった」というのは、この結果である。
『古事記』における「上」は、徐福の音喩である。
したがって『古事記』上巻とは、「徐福の巻」を意味している。
『古事記』は神話ではない。
上代(紀元前210〜西暦645)における日本「天」[yama]の歴史を描いた史書である。
『古事記』における「神」とは、皇族・氏族・部族の神祖のことだ。
「神祖」とは、「偉大な功績のあった祖先」のことで、その意味が「神」の本質を言い表わしている。
先史日本後期において、西日本の人口は1万人弱だったと推定されている。
彼らは、西日本全域数百カ所に分散して暮らしていた。
それが先史後期から上代前期にかけて半減する。
もし徐福集団の日本渡来が事実ならば、先史西日本の先住民は、ほとんど絶滅したことになる。
生き残った一部の人々も、次第に徐福集団の子孫たちと同化していったと思われる。
上代前期から中期にかけて、上代日本の人口は激増する。
『古事記』には「如葦牙因萌騰」と記されている。
水辺に繁茂する葦のごとく、徐福集団の若男女たちは子供を産み、子孫を増やしたに違いない。
・・・・・・「いざ子ども束業なせそ天地の堅めし国ぞ大和島根は」(20/4487)
と、その姿が『万葉集』に謡われている。
この「いざ」が、伊邪那岐・伊邪那美の「伊邪」であることは言うまでもない。
この歌(20/4487)に関して、従来の解釈には疑問がある。
原文は、「伊射子等毛多波和射奈世曽天地能加多米之久尓曽夜麻登之麻祢波」。
橘奈良麻呂の変(757)に際し、時の為政者・藤原仲麻呂が歌ったとされている。
通説では、「多波和射奈世曽」を「ふざけたことをするな」などと訳す。
しかし、この解釈は「いざ〜」の文脈に矛盾する。
ましてや「奈世曽」の「曽」には、「以前に…したことがある」という意味がある。※CD版『大漢和辞典』
したがって「多波和射奈世曽」は、「束業なせそ(結集して戦おう!)」の意味と考えられる。
この歌は、「さぁ、伊邪那岐・伊邪那美の血を引く若者よ、結集して戦おう!(われわれの先祖が昔)天地を征服した国なのだ、この大和島根(日本)は。」という反乱の歌、いわば檄だろう。
『古事記』が描く伊邪那岐・伊邪那美による「上代革命」に思いを馳せ、歌われたと考えられる。
『西本願寺本萬葉集』には、「藤原仲麻呂奏之」とあるが、むしろ反乱を起こした奈良麻呂の歌と考えた方が理屈に合う。
反乱の歌を、「藤原仲麻呂、之を奏す」として収録した『万葉集』撰録者の心情・・・。
われわれは、それを斟酌すべきだろう。
『古事記』や『万葉集』の内容解釈は、一から検討しなおす必要がある。
以上が、私の上代日本史観です。
NHK特集をご覧いただき、わが推論の是非をご確認いただければ幸いです。
元の発言 [ NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ 関根 聡 ] 日付 [ 8月11日(土)02時16分38秒 ]
それは,天孫ニニギ伝承をどう扱うんでしょうね。
前後の脈略をとっぱらって,山幸彦に関する伝承を見ると,
この山幸彦というのは山住の猟師ですから,
母系である大山津見神の系譜につらなるためかどうか,
先住的な要素(あるいは先行渡来的な要素)を保っていたかもしれません・・・。
これを,いわゆる縄文遺風集団,あるいは御指摘の南方系と読み替えるならば,
日本から半島や大陸に渡って混血した集団が,
ふたたび列島に出戻る,
ということはなかったのか,とか,,,(^^;
どっちにしろ,
後発集団との混血により弥生人が形成されていった,
混血度に地域差がある,
といった視点は面白いとは思いますが。
いわゆる縄文遺跡が偉大なだけに,
そちらのルーツのほうも気になるのは確かです。
あるいは,中国山東省説だけなの? とか,,,(^^;
元の発言 [ Title金井塚良一編 「稲荷山古墳の鉄剣を見なおす」学生社 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月10日(火)01時11分48秒 ]
>>
>>
571年または、531年で、どうして雄略天皇になるの?
日本書記では、雄略の在位は、456年〜479年になっているのに。
元の発言 [ Re: Title金井塚良一編 「稲荷山古墳の鉄剣を見なおす」学生社 ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 8月13日(月)10時13分57秒 ]
>> >> 鉄剣の辛亥年は、571年で確定でよさそう。531年説は、どうみても取れない。
>> >> よって、「ワカタケル大王」は、雄略天皇で決定と見てよい。
>> 571年または、531年で、どうして雄略天皇になるの?
>> 日本書記では、雄略の在位は、456年〜479年になっているのに。
干支っつーもんがわかってれば571が471のタイプミスって一目瞭然やんかぁかぁ
元の発言 [ Title景初二年 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月1日(日)09時13分21秒 ]
>> この説を採用すれば畿内に邪馬台国があっても可能になります。
#確かに可能性はありましょう。
#「公孫氏に朝貢しようとして」と言うことは、
#「畿内は北部九州と違って中華冊封体制下になかった」と言うことになるんでしょうか。
#「奴国王」の時代から“金印国家群”の一員として中華冊封体制下の国王を授爵していて、
#半島情勢を熟知していた北部九州なら公孫氏と言う障害が無くなると同時に魏に遺使したでしょう。
#女王国内での政権安定と対狗奴国対策として、金印授爵が必要だった。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月4日(水)23時23分11秒 ]
>> >> また、資料が残っていないのではからないってい行ってたけど、呉の史書なんか残っていないのかな?
>> >> 見つかったらいいな。
>> 中国では王朝が変わった後、次の王朝の時に前の王朝の史書を作るのが通例なので三国志の呉志がそれにあたります。
ありがとうございます。
ただ、漢文は苦手なので原文付きの訳本なんかやすいの有りませんかね。
呉の外交軍事政策なんかみると意外なところにヒントが有るかも?
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 8月11日(土)07時41分25秒 ]
>それは,天孫ニニギ伝承をどう扱うんでしょうね。
「天孫ニニギ伝承」を直接論じる前に、『古事記』における「高天原」について確認。
ご存じのように「高天原」は、『古事記』上巻冒頭の一文中に登場します。
天地初發之時於高天原成神名
天之御中主神【訓高下天云阿麻下效此】
次高御産巣日神
次神産巣日神
此三柱神者並獨神成坐而隱身也
このうち【訓高下天云阿麻下效此】は、作者あるいは編纂者の注意書き(以下、施注)です。
つまり「高天原」の初見は、施注付きなのです。
では、施注とは何なのでしょう?
『真福寺本古事記』序には、施注をつける条件が書かれています。
辭理■見以注
明意况易解更非注
問題は、■の文字です。
明らかに、■は、「以注」つまり「施注」のキーワードです。
従来は、[匚構中ロ]と書換えられ、「難し」などと訳されてきました。
しかし『真福寺本古事記』原文には、[「辷」の「一」下に「口」]と書かれています。
この文字は、古漢語にありません。
結論からいえば、■は、『古事記』序作者の「造字」と考えられます。
『漢辞海』で調べると、古漢語「しんにゅう」には、次のような意味がありました。
@進んだり止まったりする。行きつ戻りつする。ゆきなやむ。
A道に沿って速く行く。速く走る。
つまり『古事記』序作者は、「一口」に「しんにゅう」と書いた訳です。
一口でいえば、「一口では、ゆきなやむ(言えない)」という意味でしょう。
だから「以注」、施注をつける。
「文脈に沿って速く読み進み、行きつ戻りつして」考えてくれ、という『古事記』作者の思いがこめられている。
「高天原」の「天」は、このような作者の思いを斟酌して考える必要があります。
通説のように「阿麻(アマ)と訓む」解釈は、あまりにも安易です。
一言でいえるなら、施注は必要ないからです。
序の作者は、「明意况易解更非注(明意いわんや易解、更に非注)」と明記しています。
もう一度、原文を見てください。
上巻冒頭の「天地」の「天」には、施注がついていません。
また、「天之御中主神」にも施注はありません。
「天地」や「天之御中主神」には、当時、「一言でいえる」意味や読み方があったのでしょう。
※それが「アメ」だとは思いません。
さて問題の「高天原」ですが、正直なところ、よく分からないのです。
ただ『古事記』を「行きつ戻りつ読み返す」と、どうやら一カ所ではないことが感じられます。
また場所以外の字義もある気がします。
だから、『古事記』作者は施注をつけて、その意味を伝えようとしたのでしょう。
これを論じていると、一冊の本になってしまうので、「天孫ニニギ伝承」に話を戻します。
『古事記』における「高天原」には、少なくとも三つの用例があるようです。
@現在の九州一帯。
A阿蘇山一帯、そして宇佐地域。
B大和地域。
日本における「任那」観からすると、@には朝鮮半島の一部が含まれるかもしれません。
「天孫ニニギ伝承」の舞台である「高天原」は、どこか?
Bの大和地域という気がします。
場所としての「高天原」は、九州各地を変遷、大和地域に移動した…。
『古事記』における「高天原」の本義は、「阿麻の原(源)」という社会システムであり、それが行われる場所は二義的なものだったと思われます。
また場所に関しては、「明確にしたくなかった」のかもしれません。
『古事記』上巻冒頭の一文は、「高天原」を作ったのが、天之御中主(徐福)だったということでしょう。
「上巻」の「上」は、徐福の音喩と考えられます。
それを、『真福寺本古事記』伝承者は、「上巻【序并】(序を平音で)」と施注しています。
※「序」には、「内実を明らかにする」という意味もあります。
>前後の脈略をとっぱらって,山幸彦に関する伝承を見ると,
>この山幸彦というのは山住の猟師ですから,
>母系である大山津見神の系譜につらなるためかどうか,
>先住的な要素(あるいは先行渡来的な要素)を保っていたかもしれません・・・。
『古事記』には、従来「声注」といわれる施注があります。
小松英雄氏は、『国語史学基礎論』(笠間書院1973-1994)で、声注は「信頼しうる校訂にしたがえば、次の33例」。そのうち25例が、次のごとく神名あるいはそれに準じる固有名詞であるとし、歴史的な声注論を検証しています。(P-74〜184)
(01)豊雲【上】野神
(02)宇比地邇【上】神
(03)須比地邇【去】神
(04)阿夜【上】河志古泥神
(08)愛【上】比売
(09)大野手【上】比売
(10)大多麻【上】流別
(11)天之吹【上】男神
(12)大山【上】津見神
(13)正鹿山【上】津見神
(14)奥山【上】津見神
(17)底津綿【上】津見神
(18)中津蹄【上】津見神
(19)上津綿【上】津見神
(20)市寸嶋【上】比売命
(22)大山【上】津見神
(23)足【上】名准
(24)手【上】名絶
(25)天之都度閇知泥【上】神
(26)布帝耳【上】神
(27)刺国大【上】神
(28)大山【上】咋神
※以上、上巻。
(30)菅竃【上】由良度美
(31)取【上】売王
(33)耳【上】王
小松氏は宣長から現代にいたる学者の「声注論」を一つ一つ検証。
続いて第3章「訓注の機能についての考察」(P-185〜285)を踏まえ、第4章で「声注の機能についての考察」を展開します。(P-286〜353)
そして小松氏は、次のように結論します。
……小論においては、それらのいちいちをとりあげて、所説に検討をくわえてみたが、その結果、論証としての有効性をみとめうるものは、ひとつもみいだすことができなかった。(P-354)
小松氏の結論が意味することは、何でしょうか?
上記の【上】施注付の神々を、日本古典文学全集1『古事記』(小学館1997-99)の『神代系図』で確認すると面白いことが分かりました。
※http://www.neonet.to/kojiki/x1-00s2001/01set-seityuuron.htm参照。
みな大国主系の神々で、半数以上は、従来の系図に記載がなかったのです。
わざわざ施注された神々が、系図上で無視されていました。
逆にいえば、その施注は「声注」ではなく、「上」は系譜を表わす施注だったと思われます。
これが、「母系である大山津見神の系譜」でしょうか
ちょっと違う気がするのですが…。
>これを,いわゆる縄文遺風集団,あるいは御指摘の南方系と読み替えるならば,
>日本から半島や大陸に渡って混血した集団が,
>ふたたび列島に出戻る,
>ということはなかったのか,とか,,,(^^;
確かに「(03)須比地邇【去】神」がいたようです。
施注【去】は、『古事記』全巻中一回しか使われていません。
解説もなく、意味不明です。
ただ字義通り、「去った」神と考えるのが自然な気もします。
なぜ去ったかは「須比地邇」の名に隠されているかもしれませんが、未検討です。
>どっちにしろ,
>後発集団との混血により弥生人が形成されていった,
>混血度に地域差がある,
>といった視点は面白いとは思いますが。
日本のどこに、どの集団が住み着いたか?
そこまで指摘したいのですが、まだ分かりません。
>いわゆる縄文遺跡が偉大なだけに,
>そちらのルーツのほうも気になるのは確かです。
NHK特集に期待したいと思います。
あるいは,中国山東省説だけなの? とか,,,(^^;
???…。
>> これを,いわゆる縄文遺風集団,あるいは御指摘の南方系と読み替えるならば,
>> 日本から半島や大陸に渡って混血した集団が,
>> ふたたび列島に出戻る,
>> ということはなかったのか,とか,,,(^^;
>> どっちにしろ,
>> 後発集団との混血により弥生人が形成されていった,
>> 混血度に地域差がある,
>> といった視点は面白いとは思いますが。
>> いわゆる縄文遺跡が偉大なだけに,
>> そちらのルーツのほうも気になるのは確かです。
>> あるいは,中国山東省説だけなの? とか,,,(^^;
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ 亥の刻寝太郎 ] 日付 [ 8月8日(水)21時46分00秒 ]
>> >> 前原から1500里では巻向まで行き着かない事は5月号で証明してありますから、
>> 正確に測ったなんて主張してる人は誰もいないんだから
>> 厳密に測ると1500里以上あるなんて言っても
>> なんの意味もないんじゃないですか?
#何度もレスしたように、一つの文章の中で換算比率が途中から一桁以上も違っていることが問題なんです。
#比率が一定であれば、方位も夏至−冬至間程度の誤差とすれば広島までも行けない。
元の発言 [ ↑ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月6日(月)14時55分48秒 ]
>>
#よくあること。
#パソ認の4級で必ず出る設問にあるけど、ブラインタッチが出来ることを保障する分けではない。(*^_^*)
元の発言 [ Re: Title 思い付いたこと ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月30日(月)19時02分35秒 ]
>> 一つ忠告しましょう。
>> あなたも、非常に独善的に物を見ていることに変わりないということです。
>>
>>
#金鍍金平縁神獣鏡についてお聞きしたいですネ。
#ついでに穀粒文玉壁についても。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ 関根 聡 ] 日付 [ 8月13日(月)14時54分46秒 ]
>> 『古事記』における「高天原」には、少なくとも三つの用例があるようです。
>> @現在の九州一帯。
>> A阿蘇山一帯、そして宇佐地域。
>> B大和地域。
>> 日本における「任那」観からすると、@には朝鮮半島の一部が含まれるかもしれません。
はい。地上的には,ほぼ,おっしゃる通りでしょう。
が,
単刀直入,「高天原」については,直接には,
祭祀集団の心眼に映じた異界の働きの表現(または光景)だと思います。
しかも,おそらくはマナイズムやアニミズムの背後に,
もう一枚,「高天原」の神々の機序を発見したものが古事記であり,
さらに高度の洞察を織り込んだものが日本書紀でしょう。
そんで,卑弥呼の鬼道を,どう位置付けるか?
他については,また調べてみます。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 8月13日(月)20時54分56秒 ]
>> 何度もレスしたように、一つの文章の中で換算比率が途中から一桁以上も違っていることが問題なんです。
# まぁ、それが何時から「一つの文章」であったかってことが問題だとも、何度もレスしておるんですが?
そして、それが当初から「一つの文章」であった可能性は皆無なのだとも申し上げておるのですね。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 8月13日(月)22時42分02秒 ]
>単刀直入,「高天原」については,直接には,
>祭祀集団の心眼に映じた異界の働きの表現(または光景)だと思います。
……言語のもっとも注目すべきところは、《事実の世界に存在しないものごとについても語り得る》ということにあるだろう。(中略)人間の内部しかなく、しかもやがて事実の世界を動かす。
と、井上ひさし氏は言っています。
※『自家製文章読本』(新潮社1984)P-78
「高天原」と、“後の”祭祀集団との関係ではないでしょうか。
しかも,おそらくはマナイズムやアニミズムの背後に,
もう一枚,「高天原」の神々の機序を発見したものが古事記であり,
さらに高度の洞察を織り込んだものが日本書紀でしょう。
『日本書紀』は、いつ書かれたか?
森博達氏の注目すべき研究があります。
…… 天武天皇は、壬申の乱で近江朝廷を滅ぼした。絶大な権力を掌握し、専制的中央集権国家を作ろうとした。天武は律令と国史を車の両輪と考え、両者の編修事業に着手した。まず天武十年(681)二月二十五日に律令編修の詔勅を下した。続いてその二十二日後の三月十七日、川島皇子以下十二名に詔して、「帝紀」と「上古諸事」を記定させ、中臣連大島と平群臣子首に筆録させた。これが書紀の撰上に結実する修史事業の始まりであった。原史料の整備が進められていった。以下は私が考える書紀の成立過程である。
持統三年(689)六月二十九日、「浄御原令」が班賜された。その十日前、唐人の続守言と薩弘恪が賞賜された。「浄御原令」の編纂に功績があったのだ。両名は唐朝の正音(唐代北方音)に通暁し、最初の音博士を拝命した。もちろん正格漢文も綴れる。「浄御原令」が撰上された後、余裕のできた両名が書紀を撰述することになった。両名は持統五年(691)九月四日と翌六年十二月十四日にも賞賜された。書紀の撰述を促すためのものだ。
古代の最大の画期は雄略朝であり、その次が大化の改新であった。続守言が巻一四「雄略紀」からの述作を担当し、薩弘烙が巻二四「.皇極紀」からを担当した。しかし、続守言は巻二一「崇唆紀」の修了間際に倒れた。続守言に先立たれた薩弘烙は、「大宝律令」の編纂にも参画し、多忙を極めた。巻二七までの述作を修了していたが、文武四年(700)六月十七日の奉勅後間もなく卒去した。
続・薩両名を失った朝廷は困惑した。両名ほどの適任老はいなかった。しかし書紀の編纂は続けねばならない。こうして文章学者の山田史御方が、撰述の担当者に選ばれた。御方は慶雲四年(707)四月十五日に、学士としての功績により賞賜された。書紀の述作を促すためだろう。
この頃、書紀の編修方針に大きな変革が起こっていた。神代から安康までの撰述の必要が生じたのだ。御方は還俗以前に新羅への留学経験はあるが、唐へは留学していない。御方には漢文を正音で直読する能力がなかった。結局β群は、基本的に倭音と和化漢文で述作されることになった。また御方は学問僧の出身であり、仏典の知識をもち、仏教漢文に馴染んでいた。
持統上皇が大宝二年(702)に崩御してから、巻三〇「持統紀」の撰述が計画された。またこの際、書紀の各巻に漢籍による潤色を加えて文章を荘重にし、同時に若干の記事を追加しようと考えられた。こうして崩御から十二年経った和鋼七年(714)、二月九日に紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂に国史撰述の詔勅が下りた。清人が「持統紀」の撰述を担当し、藤麻呂が潤色・加筆を担当した。引用文以外のα群の漢文の誤用は、このときに藤麻呂によってもたらされた。続守言が執筆できなかった巻二一の巻末も藤麻呂が述作したのだろう。清人は翌霊亀元年(715)と養老元年(717)に、学士としての功績により賞賜された。
※森博達『日本書紀の謎を解く』(中公新書1999)226〜228
森論によれば、『日本書紀』巻14〜21途中までは、文武四年(700)までに完成していたことになります。
では、山田史御方が担当した巻1〜13は、いつ頃までに書かれたのだろうか?
私は、『続日本書紀』の和銅4年(710)4月23日に注目しています。
……従五位下の山田史御方を周防守に任じた。
その3年前、慶雲4年4月29日には、「正6位下の山田史御方に、学問の士を優遇するため、布、鍬、塩、籾を与えた」とあります。
つまり山田史御方は、和銅4年(710)、2階位特進の上、左遷されているのです。
私は、この時、『原・日本書紀』が完成していたと考えています。
しかし、何らかの理由で『原・日本書紀』撰上は見送られた。
そして『原・日本書紀』を下地として、『古事記』が書かれ、先に撰上(712)された。
このようなことができるのは、かなりの権力者でしょう。
注目すべきは、和銅4年3月10日の平城京遷都に際し、時の左大臣・石上朝臣麻呂が飛鳥宮の留守司として、旧都に残留していることです。
時に麻呂69才。
最後の大仕事として、『古事記』を編纂したと思われます。
臣下による「非専制的王権」的国史の編纂でした。
水林彪氏は、奈良期の大嘗祭を分析。
大嘗祭の形態が、天平年間初頭(729〜)から大きく変化したことを指摘しています。
それまで『古事記』を思想的背景に、「非専制的王権」システムとして機能してきた大嘗祭が、天平期になると「専制的王権」的な機能になっていったといいます。
※法制史研究47[『古事記』への道](法制史学会1998)
この頃『古事記』も改竄され、神道の原典として転用されたようです。
後の『続日本書紀』では、その事実が抹殺されました。
>そんで,卑弥呼の鬼道を,どう位置付けるか?
その源流は、徐福が「斉女」による集団管理システムを導入したことにあると思います。
それは、卑弥呼の時代、国際的な社会情勢の影響で顕著となり、その後次第に衰退、最後には「斎宮制度」となって形骸化します。
しかし古代日本には、母系の血筋が尊ばれる傾向が残存していたようです。
度重なる女帝の登場も、通説のような「つなぎ」だとは思えません。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 8月13日(月)23時16分53秒 ]
>> >> 何度もレスしたように、一つの文章の中で換算比率が途中から一桁以上も違っていることが問題なんです。
>> # まぁ、それが何時から「一つの文章」であったかってことが問題だとも、何度もレスしておるんですが?
>> そして、それが当初から「一つの文章」であった可能性は皆無なのだとも申し上げておるのですね。
#「倭人条」として「一つの文章」に纏められたものだということは間違いないでしょう。
#非常に客観的かつ(当時の水準で)正確に纏められた文章で、尺度も統一した基準に纏められたと思っています。
#統一基準に換算する時点で実際の距離との換算が狂ってしまったことは考えられますが、途中から一桁以上の誤差が生じたとは思わないってことで、
#ALEX説に反対、あるいは否定するものではありません。
#近畿説を“宗教”とも“皇国史観”だとも思っているわけではありませんので、悪しからず。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 8月14日(火)20時22分37秒 ]
>> #統一基準に換算する時点で実際の距離との換算が狂ってしまったことは考えられますが、途中から一桁以上の誤差が生じたとは思わないってことで、
# ところで、一桁以上の誤差というのは何のことでしょう?
そんな高倍率の誤差は何と何の間に出ているのですか?
元の発言 [ Re: Title 古事記偽書説 ] お名前 [ 関根 聡 ] 日付 [ 7月4日(水)12時11分14秒 ]
>> 『古事記』偽書説は、昔から多くの人が唱えているようです。
>> 最近では、大和武雄『古事記成立考』(大和書房1997)があります。
>> この本は『古事記』研究者必読の本かもしれません。
>> 過去の偽書説が論拠別に整理され、客観的に解説されています。
>> ただ根本的な誤りがあります。
『古事記』そのものを研究する必要性があると思います。
その件、何ですが風土記などの記述には、他の正史で削除されたようなのが、残っていることがあるとききました。
この方面からの、アプローチは難しいですか。
自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
有名な『魏志倭人伝』中の一文である。
「女王國以北は、その戸数・道里を略載できるが、その他の旁國は遠絶で、詳細は分からない。」と記されている。
つまり中国使節が、実際に行ったことがあるのは女王国までということだろう。
逆にいえば、女王国以北の国々は、自分の目で見ている。
したがって『倭人伝』に略載された記述は、原則として記録者の“実体験”に基づいていると考えられる。
しかし客観的にみて、その記述は正しいだろうか?
武光誠氏は、次のように述べている。
……『魏志倭人伝』には、邪馬台国が不耶国の南方にあると記されている。
太陽を見れば簡単に方向を知ることができるから、日本に来た中国の使者が東を南と誤ることはあり得ない。
※読売ぶっくれっと10『魏志倭人伝と邪馬台国』(読売新聞社1998)P-39
これは、稚拙な観念論である。
当時、陸の交通網は発達していなかった。
徒歩で荒野や森の中を進むとき、西も東も分からないはずである。
私は、大学時代、オリエンテーリング部にいた。
競技大会で、地図とコンパスがあっても、なかなか思い通りには進めなかった。
だから競技になる。
「東西南北」の方位は、口で言うほど簡単には決まらない。
『魏志倭人伝』の作者が、「略載」とする判断は、その意味で正しい。
「水行」所説に関しては、もっと明白な誤りがある。
例えば、現在の高松に不耶国、高知に邪馬台国があったとしよう。
確かに地図上では、邪馬台国が、ほぼ南になる。
しかし実際に水行するには、鳴門海峡まで東行、紀伊水道を南行し、室戸阿南海岸に沿って西南に向かう。
最後は、高知に向けて北西に進まねばならない。
ほとんど逆行である。
全行程で、南行する距離は少ない。
しかし倭国の案内者が、地図をもって説明すれば、この行程を中国使節も納得するだろう。
ただし、説明を受ける体力があれば…。
昔、鹿児島から船に乗り、トカラ列島の宝島に行ったことがある。
海が荒れ、船に慣れない人間には、心底きつい旅だった。
ところで1185年2月17日、源義経は、平家追討のため大阪の渡辺を船出している。
翌18日には、徳島の小松島(勝浦)に上陸、陸路を高松に向かい、19日には屋島の戦いで勝利を収めている。
※『地図で訪ねる歴史の舞台-日本-』(帝国書院1999)P-34
この行程を参考に、福岡〜大阪の水行日数を考えると、3〜4日になる。
往路ならば、10日弱だろう。
おそらく、これが「南至邪馬台壹国女王之所都水行十日陸行一月」の答である。
また「至投馬國水行二十日」というのは、不弥國(宗像市近辺)から船出、関門海峡から瀬戸内海に入り、四国を一周し、投馬國(行橋市近辺)に戻ったと考えられる。
倭国の案内者は、実距離を数十倍に“水増”したのである。
今も昔も、外務官僚は“水増”が得意だった…。
大中小3個の薩摩芋を、中・小・大の順に「三」の字型に密着させて並べる。
それを邪馬台国の地図がわりに、水行の航路を説明すれば、中国からの使節も信用するしかないだろう。
たとえ疑っても、当時邪馬台国の地図はなく、20日かかった事実は否定できない。
なぜ、倭国の案内者が、そんなことをしたのか?
私は、徐福を「天之御中主神」と考えている。
したがって、答は単純明解。
「女王国の位置を、中国に知られたくなかったから」である。
逃亡者の子孫としては、当然のことだろう。
中国使節の“実体験”と歴史的事実は、必ずしも同じではない。
案内する倭国側の事情を考えれば、むしろ、その“実体験”の実態を見極める必要がある、と思う。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ 関根 聡 ] 日付 [ 8月14日(火)14時19分31秒 ]
>> ……言語のもっとも注目すべきところは、《事実の世界に存在しないものごとについても語り得る》ということにあるだろう。(中略)人間の内部しかなく、しかもやがて事実の世界を動かす。
>> と、井上ひさし氏は言っています。
>> ※『自家製文章読本』(新潮社1984)P-78
>> 「高天原」と、“後の”祭祀集団との関係ではないでしょうか。
というか,
古代人の内部に映じた「天」「地」「地下」の隠された諸相と,
人の暮らしとの関係といったことでしょう。
>> その源流は、徐福が「斉女」による集団管理システムを導入したことにあると思います。
高度な世界観を含むものであった可能性があるかもしれないわけで〜
もちろん,
マナイズムやアニミズムからして充分に高度ですが,
それ以上にですね。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月14日(火)16時33分44秒 ]
おにりん殿
>> 最新の研究から推定できるのは、「紀元前200年頃から、渡来系の侵入者が先住民とせめぎ合い、共存・融合あるいは侵略・征服を繰り返し、現代につながる日本人が生まれたこと」である。
>最新の研究成果をご存知ないようで。
NHK特集を楽しみにしていますが、先にご教授いただければありがたい。
それにNHK特集の内容が正しいとは限らないし。
是非よろしく。
>>
> からあとが、新説なんですか?誰も信じてないと思うけど。
いまは、そうでしょう。
昔「天動説」を妄信する人に、いくら「地動説」を説いても無駄でした。
しかしガリレオは、それでも「地球が回っている」ことを信じ、研究を続けました。
正しい説は、必ず、認められると思います。
わが『古事記正解』は、未完成です。
亡羊之歎…。
試行錯誤の繰り返しですが、研究の視座は正しいと信じています。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 8月15日(水)00時15分41秒 ]
>> 古代人の内部に映じた「天」「地」「地下」の隠された諸相と,
>> 人の暮らしとの関係といったことでしょう。
いま私は、『真福寺本古事記』を研究しています。
そのために古代史を考える場合、どうしても『真福寺本古事記』中心に思索の方向が偏ってしまいます。
『真福寺本古事記』の内容は、流通している一般的な『古事記』と内容が異なります。
確かな研究成果がなく、一から紐解かなければなりません。
それが面白いのですが、今回のように「高天原」等の“共通語”を論ずる場合、
注意しないと、予期せぬ擦れ違いが起きるかもしれません。
本来の『古事記』(712)は、非常に特殊な書物だったと思われます。
残念ながら、原書は失われました。
『真福寺本古事記』(1371-72)は、最もよく『古事記』本来の内容を伝える写本といわれます。
しかし、その研究は、ほとんどなされていません。
従来の『古事記』研究は、みな本居宣長の『訂正古訓古事記』(1802)に基づいてなされているのです。
一服さんのいう、古代人の内部に映じた「天」「地」「地下」の隠された諸相という観点も、一般的な『古事記』論や周辺諸研究が基になっているのではないでしょうか。
私が最初に述べた「高天原」は、あくまで『真福寺本古事記』の概念です。
逆に、井上ひさし氏の言語観から指摘した「高天原」は、『古事記』に書かれた「高天原」という概念が一人歩きして一般化、社会的意味を持ったものです。
「天」「地」「地下」の隠された諸相というのは、“古代人”における歴史的・社会的概念だと思います。
『真福寺本古事記』“作者”の「高天原」観や世界観とは、立場的な乖離が感じられます。
>>
>> >> その源流は、徐福が「斉女」による集団管理システムを導入したことにあると思います。
>> 高度な世界観を含むものであった可能性があるかもしれないわけで〜
>> もちろん,
>> マナイズムやアニミズムからして充分に高度ですが,
>> それ以上にですね。
『真福寺本古事記』は、すべて漢字で書かれています。
使われる漢字の字体、文章表記のスタイルは、李善注の『文選』(658)に類似しています。
『古事記』作者は、様々な中国の古典を参考に、文章を練ったようです。
しかし文章形態は、古漢語を独自に解釈し直した漢字(以下、古漢字という)を用いて、できるかぎり当時の口語に近い和文で表記しました。
『古事記』作者の世界観には、紀元前3世紀の神秘思想家・皺衍の影響が認められます。
例えば「淤能碁呂島」という名は、皺衍の「九州説」に基づいています。
その影響は序の記述に著しく、序冒頭は「禹の伝説」を下地に書かれているといって過言ではありません。
その意味で、当時において『古事記』は、中国3000年の歴史を背景に書かれた歴史書だと考えられます。
さらに「伊邪那岐・伊邪那美」という命名は、密教用語「伊邪那天」に由来し、もともとは古代インドの「シバ神」に基づくことが分かりました。
このような『古事記』作者の世界観は、当時における一般民衆と同じものだったでしょうか?
私は、まったく違ったと思います。
民衆だけでなく、当時は宮廷内でも受け入れられなかったと推定しています。
『古事記』は作者・編纂者の企図から外れて、改竄され曲解されることによって一般化し、宮廷や社会に受け入れられるのです。
『古事記』の一般化、その近代における経緯は、子安宣国氏が『「宣長問題」とは何か』(ちくま学芸文庫2000)が明らかにしています。
奈良朝期における経緯の解明は、法制史学者の水林彪氏が取組んでいます。
この種の研究は少なく、学会の定説ではありません。
私は、水林彪氏や子安氏の視点こそ、『古事記』成立の謎を解く鍵だと思います。
『古事記』作者および編纂者の狙いは、伊邪那美・伊邪那美以来の「非専制的王権」システムを「神々の物語(史書)」として正当化することでした。
つまり「天之御柱(徐福直系の子孫=後の天皇家)を見立て(後見し)、八尋を殿す(国を治める)」ことです。
時の左大臣・石上朝臣麻呂は、『古事記』を編纂、その運用を長屋王に託したようです。
しかし長屋王は、729年藤原氏の謀略によって殺されます。
『古事記』本来の政治的“世界”は、わずか10数年で幕を閉じたのです。
その時、『古事記』の運命が変わりました。
「専制的王権」システムの思想として、内容が改竄、曲解されていくのです。
それを最終的に仕上げたのが、本居宣長です。
宣長の『訂正古訓古事記』は、改竄の極み。
本来の『古事記』とは、まったく別の書物といったほうが正しいでしょう。
『古事記』は、『日本書紀』と共に、日本最古の古典です。
しかし、その成立は謎に包まれていました。
一昨年、森博達氏が『日本書紀の謎を解く』(中公新書1999)を表わし、その成立過程を明らかにしました。
当然『古事記』との関係は、見直さなくてはなりません。
『古事記』と『日本書紀』成立の謎を解き、その内容を再検討することは、そのまま日本人のルーツを探ることになると思います。
元の発言 [ 邪馬台国への道程 ] お名前 [ 関根 聡 ] 日付 [ 8月14日(火)23時51分36秒 ]
>> 自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
>> 有名な『魏志倭人伝』中の一文である。
>> しかし客観的にみて、その記述は正しいだろうか?
>> 武光誠氏は、次のように述べている。
>> ……『魏志倭人伝』には、邪馬台国が不耶国の南方にあると記されている。
ここで正しいとするのは、見てきた人たちの報告書だと思いますけど!
理由は簡単、使節には地理の専門がいるはず。
でなければ合法的スパイは勤まらないし、軍事情報の収集にならない。
>> 『魏志倭人伝』の作者が、「略載」とする判断は、その意味で正しい。
>> 「水行」所説に関しては、もっと明白な誤りがある。
>> 例えば、現在の高松に不耶国、高知に邪馬台国があったとしよう。
>> 確かに地図上では、邪馬台国が、ほぼ南になる。
>> しかし実際に水行するには、鳴門海峡まで東行、紀伊水道を南行し、室戸阿南海岸に沿って西南に向かう。
>> 最後は、高知に向けて北西に進まねばならない。
>> ほとんど逆行である。
>> 全行程で、南行する距離は少ない。
>> しかし倭国の案内者が、地図をもって説明すれば、この行程を中国使節も納得するだろう。
>> ただし、説明を受ける体力があれば…。
>> 昔、鹿児島から船に乗り、トカラ列島の宝島に行ったことがある。
>> 海が荒れ、船に慣れない人間には、心底きつい旅だった。
>> ところで1185年2月17日、源義経は、平家追討のため大阪の渡辺を船出している。
>> 翌18日には、徳島の小松島(勝浦)に上陸、陸路を高松に向かい、19日には屋島の戦いで勝利を収めている。
>> ※『地図で訪ねる歴史の舞台-日本-』(帝国書院1999)P-34
>> この行程を参考に、福岡〜大阪の水行日数を考えると、3〜4日になる。
>> 往路ならば、10日弱だろう。
>> おそらく、これが「南至邪馬台壹国女王之所都水行十日陸行一月」の答である。
>> また「至投馬國水行二十日」というのは、不弥國(宗像市近辺)から船出、関門海峡から瀬戸内海に入り、四国を一周し、投馬國(行橋市近辺)に戻ったと考えられる。
>> 倭国の案内者は、実距離を数十倍に“水増”したのである。
>> 今も昔も、外務官僚は“水増”が得意だった…。
>> 大中小3個の薩摩芋を、中・小・大の順に「三」の字型に密着させて並べる。
>> それを邪馬台国の地図がわりに、水行の航路を説明すれば、中国からの使節も信用するしかないだろう。
>> たとえ疑っても、当時邪馬台国の地図はなく、20日かかった事実は否定できない。
>> なぜ、倭国の案内者が、そんなことをしたのか?
>> 私は、徐福を「天之御中主神」と考えている。
>> したがって、答は単純明解。
>> 「女王国の位置を、中国に知られたくなかったから」である。
>> 逃亡者の子孫としては、当然のことだろう。
>> 中国使節の“実体験”と歴史的事実は、必ずしも同じではない。
>> 案内する倭国側の事情を考えれば、むしろ、その“実体験”の実態を見極める必要がある、と思う。
元の発言 [ Re: 邪馬台国への道程 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 8月15日(水)12時53分49秒 ]
>> ここで正しいとするのは、見てきた人たちの報告書だと思いますけど!
申し訳ありませんが、意味が分かりません。
>> 理由は簡単、使節には地理の専門がいるはず。
ならば「地図」が作られるはずです。
『魏志倭人伝』に、倭国の地図はついていないと思います。
日本の精密な地図は、伊能忠敬(1745-1818)によって初めて作られます。
古代中国に、現代的な意味での「地理の専門家」がいたとは思えません。
>> でなければ合法的スパイは勤まらないし、軍事情報の収集にならない。
合法的?
スパイは合法的に行うものでしょうか?
『魏志倭人伝』の記述は、軍事情報の収集が中心とされた内容とは思えません。
当時、中国にとって「倭」は未開国でした。
命を賭すような危険な旅に、貴重な専門家を送り込んだとは考えられません。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ 関根 聡 ] 日付 [ 8月15日(水)02時47分13秒 ]
>> 「天」「地」「地下」の隠された諸相というのは、
>> “古代人”における歴史的・社会的概念だと思います。
かつて選ばれし古代人が歩み入った世界の情報(の片鱗)でしょう。
言語の生成と関連しているわけかもしれないわけだし。
>> 『真福寺本古事記』“作者”の「高天原」観や世界観とは、
>> 立場的な乖離が感じられます。
>> つまり「天之御柱(徐福直系の子孫=後の天皇家)を見立て(後見し)、
>> 八尋を殿す(国を治める)」ことです。
要するに,本当は徐福派の密書であったのが改竄された,ということですね?
であるから,本居流の国粋的理解の仕方は愚の骨頂である,と。
徐福の一行が日本で先行の権力を後見するはめになったかもしれないので,
今のところ,なんとも分かりません。
秦氏なんかの件もあるだろうし。
倭人伝との絡みでは,
倭人は「生姜」「柑橘」「山椒」「茗荷」の利用の仕方を知らない,
とありますので,この辺りは,どうなんでしょう?
>> さらに「伊邪那岐・伊邪那美」という命名は、密教用語「伊邪那天」に由来し、
>> もともとは古代インドの「シバ神」に基づくことが分かりました。
・・・
# けっこう,「伊邪」という地名の共同体があったのだったりして,,,(^^;
>> 民衆だけでなく、当時は宮廷内でも受け入れられなかったと推定しています。
そうですね,宮廷周辺でも,
記紀とは感性や系統の異なる理解の行われていたフシはあります。
ただし,倭(日本)という土地柄に対応していると思いますが。
和歌の方面との感性について比較するのは面白い手法です。
>> 『古事記』作者および編纂者の狙いは、伊邪那美・伊邪那美以来の
>> 「非専制的王権」システムを「神々の物語(史書)」として正当化することでした。
王権と祭祀の緊張関係はあったでしょうから,
「記紀と言えば皇国史観の狂気」といったたぐいの批判は味気ないもの,
という視点でなら理解できますが,,,(^◇^)
元の発言 [ Re: 邪馬台国への道程 ] お名前 [ 関根 聡 ] 日付 [ 8月15日(水)16時04分10秒 ]
>> >> ここで正しいとするのは、見てきた人たちの報告書だと思いますけど!
>> 申し訳ありませんが、意味が分かりません。
失礼しました。途中で用が入り半端を送っちゃいました。
まず、魏の使節は、当然帰国した後、詳しい報告書を出したはずです。
それが、直接史書に反映しているとは思いませんということです。
もっとも、うがった見方ができないわけでも有りませんが。
>> >> 理由は簡単、使節には地理の専門がいるはず。
>> ならば「地図」が作られるはずです。
>> 『魏志倭人伝』に、倭国の地図はついていないと思います。
では、史書の中に半島の地図は有るのですか?
私は、原書を見たことが無いので知りませんが。
>> 日本の精密な地図は、伊能忠敬(1745-1818)によって初めて作られます。
地図に対する基本的認識の誤りといえます。
>> 古代中国に、現代的な意味での「地理の専門家」がいたとは思えません。
現代的地理の専門家では、いなくとも軍事築城の専門家なら五万といます。
大体地図というものは、乱暴に言うと統治と軍事が主な目的に作られてきたものです。
昔の話ですが、兵法を学ぶには、まず城の縄張りから勉強したといいます。
そうした専門は、漢以前の戦国から確立されています。
水路や運河を作れる軍事や外交の専門家でスパイというのは史記にも五万と出ているじゃないですか。
まして、戦国の世の中ですよ。
軍事行動ができるような、簡易な地図が作れない様なら使者の随員たる武官の資格など無いということです。
>> >> でなければ合法的スパイは勤まらないし、軍事情報の収集にならない。
>> 合法的?
>> スパイは合法的に行うものでしょうか?
>> 『魏志倭人伝』の記述は、軍事情報の収集が中心とされた内容とは思えません。
>> 当時、中国にとって「倭」は未開国でした。
>> 命を賭すような危険な旅に、貴重な専門家を送り込んだとは考えられません。
基本的に、情報活動や外交活動の認識不足といえます。
現代でも同じですが、基本的に外交官というものは、スパイだといってもいい代物です。
孫子の兵法の要間編にある陰陽の陽間に当たるのがそれです。
命懸けだからこそ、正確な情報は、なおさら大切なんです。
戦国の世で、何時どのような場所で戦をするかはからないんですから。
昔から、外国へ公式の使者が出る場合。
必ず、コース上の軍事政治情報を収集するのは常識です。
唐の時代、玄奘の書いた西域伝が唐の軍事行動に使われたと聞いたことが有ります。
専門家でなくとも、そのくらいの役立つ記録を作っているんです。
専門に、勉強している人間がそのくらいで着ないはずも無い。
実を言いますと、先日、福岡県前原市の平原古墳に行ってきました。
その時に、近くに住んでおられる 井手さんに偶然ですが、お会いでき色々資料を見せていただいたりご説明を頂きました。
大変有りがたいことでした。
その時の話では、”倭人伝には、中国官僚の本音と建前の建前が、記されているのでは?”とのご意見でした。
私としましては、他にも色々うがった見方はできると思いますが、非常にお名づける意見でもあると思います。
いかがでしょうか?
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 8月14日(火)22時56分28秒 ]
>> >> #統一基準に換算する時点で実際の距離との換算が狂ってしまったことは考えられますが、途中から一桁以上の誤差が生じたとは思わないってことで、
>> # ところで、一桁以上の誤差というのは何のことでしょう?
>> そんな高倍率の誤差は何と何の間に出ているのですか?
#またまた人が悪い。(^・^)m(__)m
#何回レスしたか分からないくらい書いてますし、ALEXさんが知らないはずがないっしょ。
魏の徐州(旧彭城県、現徐州市)は、近郊に銅山の地名が残るとおり古来産銅の地であります。ひところ銅を産する徐州といえば長江北岸近くであるという議論もありましたが、徐州市近郊で漢代銭貨銅笵の発見が相次ぎ、鋳銅銭のメッカぶりが明らかになっていきました。遼陽(遼東郡治:当時)三道壕1号墓出土の鳥文規矩鏡に「同出余州」(=銅出徐州)銘があることの認識もぼちぼち広まってきたようであります。結局「銅出徐州師出洛陽」の銘文を考案し得るのは魏の鏡師を措いて無いでしょう。
一方で、鈕孔が長方形を指向する鏡は中国では幽州を中心に分布しております。倭との窓口は帯方郡であり帯方郡は幽州の管轄下でありますから、長方形鈕孔の鏡が河北−半島−日本にかけて分布するのはごく自然ではありますが、ちょっと待ってほしい。
長方形鈕孔の鏡が河北省で発見される事実からは、この鏡の制作の中心地が幽州であったかのように一見して思われますが、実は北京を中心として河北省文物研が積極的な活動を展開していることの単純な結果かも知れません。むろん江南にはこのような偏平な方形の鈕孔が見られない事実は動かないでしょう。しかし魏は魏でも東北方面限定と見なすのは些か時機尚早と思います。
三角縁神獣鏡の生産地が魏の国内であるか、藩属国下であるかの結論はいま暫く置くとして、この両者以外の選択肢は既に事実上消えたものと思います。ここでいう「魏」に、直接その禅譲を受けた国の初期を含めるか否かや、生産地の更なる絞り込み等が、これからの議論でありましょう。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 7月4日(水)20時48分24秒 ]
>> >> >> 九州の人々が近畿に移ったというのは、全く証拠が無い
>> >> >> のですから、東遷なども含めて、とりあえず可能性は
>> >> >> ゼロに近いということです。
>> >> 私も三世紀には無かったと思います。
>> >> 但し、五世紀位になって畿内が十分発展してからなら東遷の可能性を排除しません。
>> #「全く・・・」だとか「とりあえず・・・」などの修辞に惑わされてはなりません。
おにりんさんの癖ですから、そこは。
>> #十分な根拠を挙げて可能性ありとする学者は少なくありません。
三世紀から四世紀はじめに東遷したと言う人がいるなら、その人はどんな根拠を上げているんでしょう。
五世紀なら根拠もあると思いますが。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 8月15日(水)20時56分41秒 ]
>> 何回レスしたか分からないくらい書いてますし、ALEXさんが知らないはずがないっしょ。
# 知らないですけど。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ 関根 聡 ] 日付 [ 8月13日(月)14時54分46秒 ]
>> 『真福寺本古事記』序には、施注をつける条件が書かれています。
>> 辭理■見以注
>> 明意况易解更非注
>> 問題は、■の文字です。
>> 明らかに、■は、「以注」つまり「施注」のキーワードです。
>> 従来は、[匚構中ロ]と書換えられ、「難し」などと訳されてきました。
>> しかし『真福寺本古事記』原文には、[「辷」の「一」下に「口」]と書かれています。
>> この文字は、古漢語にありません。
>> 結論からいえば、■は、『古事記』序作者の「造字」と考えられます。
# 真福寺本にあらわれる、之繞に一/口という奇妙な文字について述べます。
もちろんこのような文字はなく、異字体にも例をみません。
以下、この字を「■」で代えます。「ν」は返り点と思ってください。
問題の文字があらわれるのは以下のくだりです。
辭理■見、以注明
意况易解、更非注。
この文は、一見して明らかなように、対句の構造をとっています。一行目は音注をつけるもの、二行目はつけないものです。余談ですが「非注」は倭臭ある誤用ですね。
対句と見れば解くのは簡単ですね。「意况」で「易ν解」ければ注はつけないのです。ということは「辭理」で「■ν見」いものに注をつけるわけです。ここで「解(わかる)」と「見(みえる)」が順の関係ですから、「易」と「■」は逆の意味ということになります。
こうやってXの値を求めていくと、「■」=「むずかしい乃至できない」の漢字であることがわかります。
ここで漢和辞典を引き「之繞に一/口」に似た字を探すと、容易に「匚の中に口」(=「可」の反対)の文字が見つかります。序文が人の手から人の手へ書き写されていくうち「匚」が上部の「一」と「L」部に分解してしまい、「一」だけ外れて「口」の上に残り、のこりの「L」が之繞に化けてしまったわけです。
このようにして「辭理■見」は「辭理の見えがたき」と解けるわけです。
人々が書き写してきた写本は、このような誤写がつきものです。ここには何も謎はなく、ただ単にどこまで音でどこから訓かわかりにくいものには注し、容易に判断できると思われるものには注をせず、また「帯(たらし)」のように人口に膾炙している慣用的な訓は漢字をそのまま表記して字音では示さなかったわけです。
元の発言 [ Re: 女王国邪馬臺國 ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月25日(水)01時52分18秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
1) が正解でしょう。
>>
>>
>>
>>
「倭じゃないかもしれない北部九州」と言う事はありえないでしょう。
「其トク廬國與倭接界」韓国が「倭」と接していたとも書いてありますし、韓国南部は倭人と同じように文身しているとも書いてあります。
北部九州が倭であった事は間違い有りません。
逆に畿内が「倭じゃないかもしれない」事は十分ありうることですが。
倭人伝の伝える倭の風俗は「北部九州」そのものです。
倭の風俗で畿内を思わせるものは何もありませんから。
畿内は「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にも含まれていたかどうか。
古墳時代以前は畿内も倭種だったでしょうが。
元の発言 [ Re: 徐州徐州と人馬は進む ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月18日(土)00時31分14秒 ]
>> 三角縁神獣鏡の生産地が魏の国内であるか、藩属国下であるかの結論はいま暫く置くとして、この両者以外の選択肢は既に事実上消えたものと思います。ここでいう「魏」に、直接その禅譲を受けた国の初期を含めるか否かや、生産地の更なる絞り込み等が、これからの議論でありましょう。
>>
多分、呉鏡説・呉の工人による倭地生産説・呉と結んだ非邪馬台国勢力生産説などの可能性は、抹消していいということでしょう。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月18日(土)00時38分09秒 ]
>>
おにりんさんが認める最善書は、誰の、何という本なのか?
そして、どんな論旨が”最新”かつ”正しい”と認められるのか?
明意かつ易解にお答下さい。
できないなら、あと100冊くらい読んで勉強し直してください。
天動説と地動説は、一番端的な例にあげたまでのこと。
反論もできますが、馬鹿げているので、この件は打ち切りましょう。
>> わが『古事記正解』は、未完成です。
>> 亡羊之歎…。
>> 試行錯誤の繰り返しですが、研究の視座は正しいと信じています。
>>
具体的に、どこがどう間違っているのか、ご指摘下さい。
総論的全体否定は、ただの難癖ではないでしょうか。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 8月17日(金)05時37分24秒 ]
ALEX様
的確な反論ありがとうございます。
私が読んだ■解釈の中で、最も合理的で、最も優れた論旨に、感動しました。
もし最初にALEXさんの説明を読んだら、『古事記』序の解釈に何の疑問も持たなかったかもしれません。
『古事記』序を、漢文で書かれた「上表文」と考える。
この考え方は、現代の『古事記』研究における“定説”でしょう。
しかし、なぜ定説なのか?
きちんと論じている人は、以外なほど少ない。
何人もの専門家が、訳の分からぬ解釈を振り回しています。
幸か不幸か、そのお陰で、『古事記』序が、「序(内実を打ち明ける)」ための和文であることに気づきました。
さて「臣〜言」という書き出しを、全釈漢文大系『文選五』(集英社1975)で調べてみました。
[表]の章19例のうち13例、
[上書]の章8例のうち0、でした。
唐の李善注『文選附考異』(658)の影印本(中文出版社1971-72)を見ると、字体や文章表記が驚くほど『国宝真福寺本古事記』(桜楓社1978)に似ています。
成立の時期から考え、『古事記』作者または伝承者は『文選』を見ていたと考えられます。
『古事記』序は、もともと漢文で書かれた「表」だったと思われます。
しかし『古事記』序が、最初から上巻の前にあったとは思えません。
『真福寺本古事記』の「上巻」表記についた「序并」という施注が、その事実を示しています。
善意の『古事記』伝承者が、別に伝えられた「表」を上巻冒頭に添付し、内容の解説(序=内実を明らかにする)を試みたと考えられます。
その際、「表」の漢文を、本文に合わせ、和文化した…。
私は、そう考えています。
……余談ですが「非注」は倭臭ある誤用ですね。
と、ALEXさんのご指摘があります。
確かに、「序」を漢文とすれば、“倭臭”ある誤用ということになります。
しかし「序」が和文化されていたならば、それは“倭臭”ではなく、善意の『古事記』伝承者が試みた和文表記と考えられます。
そして私が示した解釈が成立するのです。
>> 辭理■見以注
>> 明意况易解更非注
>> 問題は、■の文字です。
>> 明らかに、■は、「以注」つまり「施注」のキーワードです。
>> 従来は、[匚構中ロ]と書換えられ、「難し」などと訳されてきました。
>> しかし『真福寺本古事記』原文には、[「辷」の「一」下に「口」]と書かれています。
>> この文字は、古漢語にありません。
>> 結論からいえば、■は、『古事記』序作者の「造字」と考えられます。
『古事記』原本は、遺失して現存しません。
「序」は何なのか?
真実は、歴史の闇の中です。
ALEXさんは、『真福寺本古事記』の■について次のように述べられます。
……序文が人の手から人の手へ書き写されていくうち「匚」が上部の「一」と「L」部に分解してしまい、「一」だけ外れて「口」の上に残り、のこりの「L」が之繞に化けてしまったわけです。
しかし『真福寺本古事記』は、『古事記』写本中の最善本といわれます。
■を「匚の中に口」とする写本より、『真福寺本古事記』は信頼度が高いのです。
また、『真福寺本古事記』の文章表記は、他の写本と比べて、明らかに『古事記』本来の古体を留めています。
「手から人の手へ書き写されていくうち」という推察は、疑問です。
以上のごとく考えます。
さらなる反論と、アドバイスをいただければ幸いです。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 8月15日(水)16時54分37秒 ]
>要するに,本当は徐福派の密書であったのが改竄された,ということですね?
そういう表現もできるかもしれません。
だだ、私が表現したい歴史的事実とは、ちょっとニュアンスが違います。
水林彪氏が指摘するように、少なくとも奈良朝初期の10数年、大嘗祭の実施の思想的根拠になったのですから。
>であるから,本居流の国粋的理解の仕方は愚の骨頂である,と。
その通りです。
>徐福の一行が日本で先行の権力を後見するはめになったかもしれないので,
今のところ,なんとも分かりません。
先史日本末期の人口激減と、東西日本における人口密度の逆転。
それを、どう解釈するかの問題だと思います。
ご意見は?
>秦氏なんかの件もあるだろうし。
>倭人伝との絡みでは,
>倭人は「生姜」「柑橘」「山椒」「茗荷」の利用の仕方を知らない,
>とありますので,この辺りは,どうなんでしょう?
勉強不足で分かりません。
できれば、必読本などアドバイス下さい。
# けっこう,「伊邪」という地名の共同体があったのだったりして,,,(^^;
「伊邪」の「伊」は、「伊都国」。
「邪」は、「邪馬台国」の略だと考えています。
『古事記』作者は、多くの漢籍を叙述の参考にしており、「古漢語が何を示すか」を配慮した上で、独自の古漢語として使っています。
「伊那岐神」は、「伊都国にいる西方から来た異民族の男(神)」。
「伊邪那岐命」は、「詔を受け、伊都国・邪馬台国を率いる西方から来た異民族の男(命)」。
古漢語の「那」には、「西方の異民族」という意味があるのです。
徐福=天之御中主神説の視座からすると、ほとんど自明、当たり前の解釈になります。
『万葉集』で見かけるフレーズ「いざ子供」の由来だと思います。
>> 民衆だけでなく、当時は宮廷内でも受け入れられなかったと推定しています。
>そうですね,宮廷周辺でも,
>記紀とは感性や系統の異なる理解の行われていたフシはあります。
>ただし,倭(日本)という土地柄に対応していると思いますが。
昔も今も、現実社会は、一言の図式に当てはめられるほど単純ではないでしょう。
しかし、あまり細部にこだわると、歴史の流れを見失ってしまいます。
歴史を俯瞰する視座と、社会を動かした“種”と“発芽”、その“成長”を見逃さない視点が必要だと思います。
>和歌の方面との感性について比較するのは面白い手法です。
どこが面白いか、具体的に“ほめていただける”と、初心者には励みになるのですが…。
>> 『古事記』作者および編纂者の狙いは、伊邪那美・伊邪那美以来の
>> 「非専制的王権」システムを「神々の物語(史書)」として正当化することでした。
>王権と祭祀の緊張関係はあったでしょうから,
>「記紀と言えば皇国史観の狂気」といったたぐいの批判は>味気ないもの,
>という視点でなら理解できますが,,,(^◇^)
私も、そう思います。
と言って、よいのだろうか……?
元の発言 [ Re: 邪馬台国への道程 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 8月15日(水)17時50分01秒 ]
まず、お詫びと提案を。
不用意に抽象的な「地図論」を持ちかけて申し訳ありません。
これ以上続けると、不毛な論戦になりそうです。
できれば、先に提示した「邪馬台国=三個の薩摩芋」説に関し、なぜ成立しないか?
具体的に批判していただきたいと思います。
私が案内者で、三つの薩摩芋を並べ、「こう迂回して南下した」と説明したとします。
馬頭鬼さんが「使者の随員」だとしたら、何を根拠に「嘘」を暴くのでしょうか?
当時における学的論拠、具体的な方法、使う道具など。
考えてみて下さい。
>まして、戦国の世の中ですよ。
>軍事行動ができるような、簡易な地図が作れない様なら使者の随員たる武官の資格など無いということです。
>> >> でなければ合法的スパイは勤まらないし、軍事情報の収集にならない。
(中略)
>現代でも同じですが、基本的に外交官というものは、スパイだといってもいい代物です。
(中略)
>必ず、コース上の軍事政治情報を収集するのは常識です。
>唐の時代、玄奘の書いた西域伝が唐の軍事行動に使われたと聞いたことが有ります。
>専門家でなくとも、そのくらいの役立つ記録を作っているんです。
>専門に、勉強している人間がそのくらいで着ないはずも無い。
私の母方の先祖は、戦国時代、築城の専門家だったようです。
小田原・後北条氏の臣下で、藤沢大鋸衆棟梁・森木工之介と言います。
後北条氏の諸城や時宗総本山・遊行寺などを作ったと伝えられます。
一番興味深い城は、箱根山中の山中城です。
難攻不落のはずが、秀吉軍の“柔な”攻撃を受け、わずか半日で落城しました。
天正18年(1589)3月29日のことです。
小瀬甫庵の『太閤記』(1625)を読むと非常に面白い。
“有名”な中村勘兵衛が大活躍!
上司の中村一氏が、@三度にわたって制止するのを無視して突進、A十間の橋を渡り、B開いたままの門を抜け、C撃ちかけられた鉄砲の方に駆け寄り、D忍返しの上に飛び上がると、E200余人の敵兵の中に単身切り込んだ、とある。
この『太閤記』は、歴史学者から「史料的価値が乏しい」とされている。
しかし作者・甫庵の視点と記述には、ある種の信憑性が認められる。
甫庵は、秀吉と同時代に生きていた。
『太閤記』には、作者の実体験が生んだ記述がある。
われわれは、歴史を観る新しい視座の可能性を見出さねばならない。
『太閤記』にはないが、主将の北条氏勝は開戦前に逃亡。
その子孫は、北条流兵学を江戸時代に興す。
城将の松田康長も、なぜか当日、高野山の高室院に宿泊した記録が残っている。
そして康長の“死”と共に、“有名”な風魔一族が歴史から姿を消す。
秀吉は落城と同時に、『山中城落城』を伝える書簡を全国の諸大名に発している。
その内容は、極めて疑わしい。
それを第一級の資料として、多くの歴史学者が「小田原の役」を語っている。
悪しき文献主義は、死んだ歴史の記述になる。
さて、何が言いたいのか?
戦いの成否を決めるのは、築城法でも地図作りでもないということ。
また、これまでの歴史学者の目が、いかに節穴かということです。
従来の死せる歴史学は、打破しなければなりません。
われわれは、生きた歴史学を生み出す視座を持つ必要があります。
歴史は、文書が生み出すのではありません。
喜怒哀楽する人間が、生きる場において作り出すものなのです。
>実を言いますと、先日、福岡県前原市の平原古墳に行ってきました。
(中略)
>その時の話では、”倭人伝には、中国官僚の本音と建前の建前が、記されているのでは?”とのご意見でした。
>私としましては、他にも色々うがった見方はできると思いますが、非常にお名づける意見でもあると思います。
>いかがでしょうか?
史書の述作者が、すべて体制側の人間とは限りません。
例えば『続日本書紀』の養老6年(722)4月20日の記述。
山田史御方に関する「汚職事件と顛末」が、長々と語られています。
『日本書紀』成立の記述は、短い一文のみ。
しかし『日本書紀』作者の汚職に関しては、その10数倍の分量を費やしているのです。
彼らこそ、史御方の後継者だったからでしょう。
逆に、史書の作者が、意図的に事実を書かないこともある。
例えば司馬遷の『史記』。
徐福の東渡を5回にわたって記述しながら、行き先については語らなかった。
司馬遷は、理不尽な咎で腐刑に処された人物です。
逃亡者の行き先を“正史”に記するほど、彼は愚かでも、冷たい仕事人間でもなかった。
むしろ皇帝を騙して、圧制下の秦から脱出した徐福に、心からエールを贈った…。
そう考えられます。
元の発言 [ Re: Title 思い付いたこと ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 7月5日(木)12時33分17秒 ]
>> もう一つ、吉野ヶ里ほかの遺跡から出土している
>> 貝類のアクセサリってどうやって手に入れているんでしょうね?
>> 吉野ヶ里他北九州の遺跡のほとんどは、
>> 邪馬台国の勢力かであることに異存があるかたは、まず居ないでしょう。
>> 貝類の取れる南九州や沖縄は、
>> 久那国と呉の勢力下と見て間違いないでしょう。
>> すると、現代のように適大国貿易がなされていたんでしょうか。
#時代が違うっしょ。
#以前も書きましたが、貝輪などの製品は銅釧や巴形銅器などに取って代わられています。
#貝製品の元となる貝は南海産のもので、鹿児島県の出水(イズミ)辺りに半加工品が出土しています。
#それまで南九州の主交易品だった貝製品を北部九州の銅製品が駆逐したと言うこと、それが「素不和」となった原因の一つです。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ 関根 聡 ] 日付 [ 8月19日(日)17時13分31秒 ]
(1)
まず,渡来系の果たした役割の大きさから,
その界隈の巨魁であった秦氏について調べておくのが手法だと思います。
古事記には仏教以前の性格があるとは言うものの,
仏教,道教,中国哲学などが教養として担われていたこととか,
仏教僧が神仏習合観による神話解釈や祀りに果たした役割もあるので,
真福寺という寺に伝わった古事記であるのならば,尚更です。
また漢字の精査という点からは,
いろんな渡来系の教養の系統を調べる必要もあるでしょう。
(2)
倭人は「生姜」「柑橘」「山椒」「茗荷」の利用の仕方を知らない,というのは,
魚食派だという倭人が,それらを薬味に使わない,というのは,
かなり異様な印象を受けるわけでして,
ことに,薬草学の知識があったと信ずべきフシのある徐福の子孫,
または,その徐福の薫陶を受けた現地の人々の文化とは考えがたいのですが,
この辺りはどうなのでしょう。
(3)
日本の古代史には「いざ」「いさ」のつく人名・地名が散見されるので,
おいおい調べる予定でいます。
『魏志倭人伝』に出てくる「伊邪国」を「いさ(いざ)のくに」と読むべきならば,
その国が伊邪那岐の拠点だったかもしれない・・・とすると,
「邪馬台国」は取りあえずは熊本の「さまたのくに」で決まり,
「邪馬国」は福井の「鯖江国」でぴったり,この考え方でしょう。
・・・いや,半分冗談,,,(^^;
(4)
「天之御中主神」という言葉には,
「高天原に潜む葦原の中つ国の隠れ総帥」
みたいな印象がないわけではないので,,,(^^;
それが徐福のような人物を暗示することもあるかもしれませんが,
この場合,
「天之・・・」の「天」は,徐福の精神的属性を示すと思われるので,
高天原とは百パーセント中国文明の拠点のことになってしまいませんか。
>> どこが面白いか、具体的に“ほめていただける”と、初心者には励みになるのですが…。
これは,いざなき信仰にて解釈するという,目のつけどころですね。
元の発言 [ Re: 徐州徐州と人馬は進む ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月18日(土)00時31分14秒 ]
>>
王仲殊さん(中国の鏡の専門家)が、三角縁神獣鏡は、中国産ではなく、日本国内で生産されたと言ってますが、これに対する意見は?
元の発言 [ Re: 女王国邪馬臺國 ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月20日(月)02時43分45秒 ]
>> 倭人伝の伝える倭の風俗は「北部九州」そのものです。
>> 倭の風俗で畿内を思わせるものは何もありませんから。
>>
男子無大小皆黥面文身。[中略]今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽。
倭の男達は入墨をして海に潜り、魚介を取っていました。
現代でも入墨こそしていませんが東松浦半島の男達は海士として海に潜り魚介をとっています。
伊勢など他の多くの地域では潜るのは皆女です。
考古学とは違いますが、北九州は倭人伝の風俗を今に伝えているのです。
元の発言 [ NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ 関根 聡 ] 日付 [ 8月11日(土)02時16分38秒 ]
>>
>> NHK特集『 日本人はるかな旅』が、今月19日(日)から始まる。
>> 番組のテーマは、「日本人のルーツを探る」こと。
>> 第5集の番組案内を見てみよう。
第一週はケーブルの裏番組の放送大学テレビ特別講義"弥生文化と貝の道(木下 尚子(熊本大学教授))"の方が面白かった。
次週は"年輪は歴史年表(光谷 拓実(奈良国立文化財研究所 発掘技術研究室長))"。
見逃せません。
元の発言 [ Title トヨ姫様の祟りじゃ ] お名前 [ 鬼燐 ] 日付 [ 8月20日(月)10時48分50秒 ]
>> 梅沢恵美子著「天皇家はなぜ続いたのか」ベスト新書
>> あー、久しぶりに妖しい本を読んでしまいました。
>> 天皇家が、ずっと、畏れ敬われ、そして、現在にまで続いた理由は、邪馬台国の台与姫=神功皇后の
>> 祟りを恐れたからだ、というすごい結論で、それを利用して、天皇家を不滅にしたのは、藤原不等号じゃ
>> なくて、不比等だった!
>> という面白い本でした。神話伝承から、えんえんと自説を作るところの部分は、読んでいてめまいがしま
>> した。
>> 読み始めた最初は、それなりに勉強していて、結構マジっぽい本だと思ったんですけど、、ありゃだめだ。
>> ふう。
結構楽しんだでしょう。
元の発言 [ Re: 承前 「言語の興亡」読みました. ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月4日(水)14時04分05秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
#20世紀のさとうきび農園の労働者と、ムスティエ石器の時代の生活と、刺激にどれほどの差があったか・・・。それほど変りがないような気もします。
#クレオールの発生に「完全な××語」の知識は必要ないんじゃないでしょうか。
両親の共通語がピジンであり、「完全な××語」をほとんど聞かずに育った子供は、ハワイはともかく西インド諸島にはたくさんいたんじゃありませんか。
クレオールが発生する瞬間の記録は読んだことがありませんが、私のイメージでは:
1)ピジンで育った子どもは自分だけの構文化ピジンを作り出す。
2)彼らが4〜5歳になって互いにコミュニケーションをするようになると、互いの構文化ピジンの表現を取り入れて共通語を作るようになる。これは、もう、クレオールと呼ぶべき段階。
3)あとからこのコミュニティに加わった子どもは、最初からこのクレオールを習得する。また、この子の独自の表現が標準クレオールに取り入れられるかもしれない。
4)このコミュニティが20年続けば、このクレオールを母語とする世代が生まれる。
というものです。このイメージに従うと、クレオールは、例えばひとつの農園を単位とした小さなコミュニティごとに作られるはずですが、現実には標準的なクレオールがかなり大きな領域で使われています。このあたりをきちんと書いた書物をご存知でしたら教えてください。
#いずれにせよ、このイメージに従って、「仮想的な最初の現代人」がムスティエ語をクレオール化して最初の現代語を作ったに違いない、と私は思うのです。
>>
#解剖学的現代人ってのは要するに、明らかにエレクトスでもサピエンスでもない、っていうだけが定義みたいです。
>>
>>
>>
#これは、「現代人」ではない(おにりんさんに文句を言ってもしょうがないが)。
>>
>>
>>
#???どの骨のこと??? mtDNAを共有しているかどうかは、簡単には分からないでしょ。
>>
>>
>>
#この考えに対して私は
>> おにりんさんは、イブの子孫にも言語遺伝子を持つ者と持たない者がいた可能性を想定していますが、こういった状況を自明のことと考えることはできません。
と言っているのですが。
>>
>>
>>
#すべての現代人は現代語を習得できるのですから、おにりん説によれば、
後期旧石器と現代語が出現
→ 現代語を習得できない個体は子孫を残せず、すべて絶滅
となります。賛成できません。イブの一族は全員現代人であり、智恵の遺伝子を持っていた、と考えるべきです。
元の発言 [ Re: 徐州徐州と人馬は進む ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月20日(月)10時43分41秒 ]
>> >> あんまり屁理屈を考えずに、三角縁神獣鏡は魏鏡!といってよさそうだということでしょうか?
>> 王仲殊さん(中国の鏡の専門家)が、三角縁神獣鏡は、中国産ではなく、日本国内で生産されたと言ってますが、これに対する意見は?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
どうなんでしょうか?
鏡の研究っていっても切り口によっても違うかも
基本的には日本の方が早くから研究し始めてるとは
思うけど向こうの方が文献サンプルが多そうにも思えるし?
ただ、この時代の日本人にとって鏡とは、なんて考えてみると
1.神秘的なもの神聖なもの
2.呪具
3.権威の象徴
などなど、有るんだけど御神体に鏡が多いことから誰もが
研究の中に置いちゃうような気がするし。
でも、その時代の魏の人たちにとっての鏡って何ナノだろう?
そも縁を三角にした理由は?
模様なんかはある程度今の人手も想像可能だけど、
なぜ、三角なの?
置く時に便利なのか?
それとも、呪術にある三角(密教などで調伏や呪殺に使うらしいけど)を意味してるのかな?
また、模様を生かすための工夫?
その当たりまで結論でないと分からなくなるんじゃ?
事実、まだ中国では、出てきていないだけかも知れないけど見つかってないんでしょ(三角縁神獣鏡)。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ ピクアポポヂアミ ] 日付 [ 8月20日(月)10時47分07秒 ]
>> >>
>> >> NHK特集『 日本人はるかな旅』が、今月19日(日)から始まる。
>> >> 番組のテーマは、「日本人のルーツを探る」こと。
>> >> 第5集の番組案内を見てみよう。
>> 第一週はケーブルの裏番組の放送大学テレビ特別講義"弥生文化と貝の道(木下 尚子(熊本大学教授))"の方が面白かった。
>> 次週は"年輪は歴史年表(光谷 拓実(奈良国立文化財研究所 発掘技術研究室長))"。
>> 見逃せません。
見損なっちゃった!!
再放送の予定を調べなくっちゃ!
知っているなら教えてください。
元の発言 [ Re: 邪馬台国への道程 ] お名前 [ 関根 聡 ] 日付 [ 8月19日(日)20時28分52秒 ]
こちらこそ申し訳有りません。お詫びします。
いつも説明に不足不備が目立ち反省しているのですが、直らず申し訳有りません。
で成立しないとは、考えてはいないのです。
ですが、戦国のだまし合いの中を生抜いている者同士歓迎しているとはいえその程度で納得できるでしょうか?
元攻の時には、幕府は、元の使者を京都へ入れていません。
大阪から奈良上野を通って鎌倉まで移動しています。
普通、船を使わない限り京都を経由して鎌倉へというのがそのころの旅の常識だと思うのにです。
つまり、教えていい道、隠せないようなコースを使者には通らせると思うのですがいかがですか?
>私が案内者で、三つの薩摩芋を並べ、「こう迂回して南>下した」と説明したとします。
>馬頭鬼さんが「使者の随員」だとしたら、何を根拠に
>「嘘」を暴くのでしょうか?
>当時における学的論拠、具体的な方法、使う道具など。
>考えてみて下さい。
先ず、歩測と車輪と指南車、水準器と定盤コンパスとさすがね、分度器てな所でしょうか。
忍者の使うような道具と考えていただけたらうれしいですね。
簡単な、三角測量の繰り返しを行なって計算して概算の図を作ると思いますね。
使者というのは、忍者が、こっそりやることを、おおっぴらに近い形でできるということです。
>私の母方の先祖は、戦国時代、築城の専門家だったようです。
>小田原・後北条氏の臣下で、藤沢大鋸衆棟梁・森木工之介と言います。
>それを第一級の資料として、多くの歴史学者が「小田原の役」を語っている。
>悪しき文献主義は、死んだ歴史の記述になる。
蛇足ながら、調略によって交渉を仕掛けて置いて落城を既定ものとした上で奇襲で攻め込んだ。(でないと門が開いてるはずが無い)
戦争とは、こうやるもんだといういい例なんじゃないですかね。
すいませんチャチャです。
>さて、何が言いたいのか?
>戦いの成否を決めるのは、築城法でも地図作りでもないということ。
>また、これまでの歴史学者の目が、いかに節穴かということです。
>従来の死せる歴史学は、打破しなければなりません。
>われわれは、生きた歴史学を生み出す視座を持つ必要があります。
>歴史は、文書が生み出すのではありません。
>喜怒哀楽する人間が、生きる場において作り出すものなのです。
確かにその通りです。
>>実を言いますと、先日、福岡県前原市の平原古墳に行ってきました。
(中略)
>>その時の話では、”倭人伝には、中国官僚の本音と建前の建前が、記されているのでは?”とのご意見でした。
>史書の述作者が、すべて体制側の人間とは限りません。
>例えば『続日本書紀』の養老6年(722)4月20日の記述。
>山田史御方に関する「汚職事件と顛末」が、長々と語られています。
>『日本書紀』成立の記述は、短い一文のみ。
>しかし『日本書紀』作者の汚職に関しては、その10数倍の分量を費やしているのです。
>彼らこそ、史御方の後継者だったからでしょう。
>逆に、史書の作者が、意図的に事実を書かないこともある。
>例えば司馬遷の『史記』。
>徐福の東渡を5回にわたって記述しながら、行き先については語らなかった。
>司馬遷は、理不尽な咎で腐刑に処された人物です。
>逃亡者の行き先を“正史”に記するほど、彼は愚かでも、冷たい仕事人間でもなかった。
>むしろ皇帝を騙して、圧制下の秦から脱出した徐福に、心からエールを贈った…。
>そう考えられます。
そうかもしれません。
こうは、考えられませんか。
たとえば、有名な諸葛孔明の一族この時代三国それぞれに一族が、別れて使えています。
例)呉に使えている兄貴の諸葛 勤(この字で良かったかな?)
小松左京氏の本で読んだことなので詳しくは、知らないのですが。
氏に言わせると、この一族かなりうさんくさいそうです。
三国の終わりごろになると、三国ともにほとんどが粛正されてしまうそうですが。
事によると、三国を上手く乗っ取って諸葛王朝というのを作ろうとした節があると書いておられました。
このように、当時大陸から逃げてきた人たち(つまりは指名手配犯)が実は、身内みたいな形になっている人たちが使者だったりするんじゃなんて思うんですが。
この推理どうでしょう。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 8月19日(日)22時42分01秒 ]
ちょっと一服 様
早速アドバイスをいただき、ありがとうございます。
>> (1)
>> まず,渡来系の果たした役割の大きさから,
>> その界隈の巨魁であった秦氏について調べておくのが手法だと思います。
わかりました。
自分なりに調べて報告します。
>> 古事記には仏教以前の性格があるとは言うものの,
>> 仏教,道教,中国哲学などが教養として担われていたこととか,
>> 仏教僧が神仏習合観による神話解釈や祀りに果たした役割もあるので,
>> 真福寺という寺に伝わった古事記であるのならば,尚更です。
『古事記』には仏教臭さが少ない気がします。
あったら具体的に教えてください。
道教,中国哲学の影響は、いたるところにあります。
一字一句と言ってもいいくらいです。
特に、紀元前3世紀の思想家・皺衍などの影響が大きいようです。
『太平経』(西南師範大学出版社)も買ってみましたが、まったく読めません。
何か関わりがある気がするのですが…。
「仏教僧が神仏習合観による神話解釈や祀りに果たした役割」について
もう少し具体的に教えてください。
>> また漢字の精査という点からは,
>> いろんな渡来系の教養の系統を調べる必要もあるでしょう。
音博士等のことでしょうか?
>> (2)
倭人は「生姜」「柑橘」「山椒」「茗荷」の利用の仕方を知らない,というのは,
>> 魚食派だという倭人が,それらを薬味に使わない,というのは,
>> かなり異様な印象を受けるわけでして,
>> ことに,薬草学の知識があったと信ずべきフシのある徐福の子孫,
>> または,その徐福の薫陶を受けた現地の人々の文化とは考えがたいのですが,
>> この辺りはどうなのでしょう。
仮に日本人の祖先が、徐福集団だったとします。
彼らは秦・始皇帝からの逃亡者です。
当時、徐福はじめ指導者たちの心理状態は、どんなものだったでしょうか?
いまNHKで『北条時宗』が放映されています。
元の襲来に怯え、時宗はじめ鎌倉武士たちは右往左往…。
徐福たちも、同じよう、いや、それ以上に怯え、日本各地を逃げ回っていたのではないでしょうか。
なにしろ始皇帝を騙し、3000人の若男女を連れて逃亡したのです。
最初は夢中で、怖れどころではなかったでしょう。
しかし新天地の生活に慣れるにつれ、追討の足音が耳から離れなくなる…。
『古事記』は、彼らが「隠身也」と書いています。
彼らの記事が少ないのは、元祖ではあるが、あまり誉められた行状ではなかったからだと思います。
上代日本初期(前210〜前150)は、「クメールルージュ」状態だった。
私は、そう推定しています。
古代の中国文化は、徹底的・盲目的に否定されたかもしれません。
>> (3)
>> 日本の古代史には「いざ」「いさ」のつく人名・地名が散見されるので,
>> おいおい調べる予定でいます。
>> 『魏志倭人伝』に出てくる「伊邪国」を「いさ(いざ)のくに」と読むべきならば,
>> その国が伊邪那岐の拠点だったかもしれない・・・とすると,
>> 「邪馬台国」は取りあえずは熊本の「さまたのくに」で決まり,
>> 「邪馬国」は福井の「鯖江国」でぴったり,この考え方でしょう。
>> ・・・いや,半分冗談,,,(^^;
『古事記』上巻は、次の一文で始まります。
天地初發之時於高天原成神名天之御中主神【訓高下天云阿麻下效此】
施注があり、「高天原」の「天」は、「阿麻」だと注意書きされています。
この「阿麻」は意味深です。
『古事記』の施注は、「一言でいえない」場合につけられます。
とりあえず「文脈にそって読み進み、行ったり来たりして意味を考えるように」という、作者の思いが込められています。
「麻」からは、朝庭の館に飾られた注連縄が連想されます。
日本語読みは「あさ」で、「朝」が連想されます。
『古事記』施注における「麻」は、「朝廷」を示唆しているかもしれません。
「阿」は、『古事記』中に「私」の意味の用例があります。
したがって「高天原」は、「わが朝廷の源」の意味になります。
「阿」は、「くま」や「おもねる」とも読まれます。
その意味で読むと、「高天原」は、「くま朝の源[kumamoto]」になるかもしれません。
冗談から駒、いや熊でしょうか。
そこの集団が、何かに「おもねる」人間たちなら、その可能性がでてきます。
>> (4)
>> 「天之御中主神」という言葉には,
>> 「高天原に潜む葦原の中つ国の隠れ総帥」
>> みたいな印象がないわけではないので,,,(^^;
>> それが徐福のような人物を暗示することもあるかもしれませんが,
私は、『史記』と『新唐書』の記述から、そう考えています。
>> この場合,
>> 「天之・・・」の「天」は,徐福の精神的属性を示すと思われるので,
>> 高天原とは百パーセント中国文明の拠点のことになってしまいませんか。
「天」に関しては、基本的に古代中国語{邪馬}の和文表記[yama]と考えています。
当時は解説する必要のない、当たり前の意味と読みだったと思います。
それと違う意味に使うため、『古事記』作者は、わざわざ2語目の「高天原」に施注をつけ、「阿麻」と解説しました。
「高天原」の基本的意味は、上述のごとくです。
さらに、『古事記』の編纂責任者を示唆したとも考えられます。
つまり「阿麻(親愛なる麻さん)」の意味です。
当時「麻さん(=麻呂)」といえば、左大臣・石上朝臣麻呂でした。
この意味からすると、『古事記』は「麻呂の由緒を語る史書」だったことになります。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 8月19日(日)22時42分01秒 ]
>> (1)
>>
>> まず,渡来系の果たした役割の大きさから,
>> その界隈の巨魁であった秦氏について調べておくのが手法だと思います。
>> 古事記には仏教以前の性格があるとは言うものの,
>> 仏教,道教,中国哲学などが教養として担われていたこととか,
>> 仏教僧が神仏習合観による神話解釈や祀りに果たした役割もあるので,
>> 真福寺という寺に伝わった古事記であるのならば,尚更です。
>> また漢字の精査という点からは,
>> いろんな渡来系の教養の系統を調べる必要もあるでしょう。
大変うなずけるご意見です。
>>
>> (2)
>>
>> 倭人は「生姜」「柑橘」「山椒」「茗荷」の利用の仕方を知らない,というのは,
>> 魚食派だという倭人が,それらを薬味に使わない,というのは,
>> かなり異様な印象を受けるわけでして,
>> ことに,薬草学の知識があったと信ずべきフシのある徐福の子孫,
>> または,その徐福の薫陶を受けた現地の人々の文化とは考えがたいのですが,
>> この辺りはどうなのでしょう。
ここの所、チョットおかしいんでは?
先日、菜畑遺跡にも行ってきたんですが、「柑橘」「山椒」は、発掘で出ているんですよね。
縄文時代から少なくとも「山椒」は、出ている。
ここの所は、大事だと思うんですけど、
縄文時代からも出土しており一般的に使われていると
思ってるもので現在と違う者は多いのかな。
そも、これは現代の私たちが認識しているものと同じ物なの?
それとも使い方を言っているのかな?
以前、テレビ番組で、胡椒を栽培している人たちが、胡椒の実を、料理に使うことを知らなかったなんてうそみたいなことが現実に有ったけど(葉っぱとか皮は利用していた)
>> (3)
>>
>> 日本の古代史には「いざ」「いさ」のつく人名・地名が散見されるので,
>> おいおい調べる予定でいます。
>> 『魏志倭人伝』に出てくる「伊邪国」を「いさ(いざ)のくに」と読むべきならば,
>> その国が伊邪那岐の拠点だったかもしれない・・・とすると,
>> 「邪馬台国」は取りあえずは熊本の「さまたのくに」で決まり,
>> 「邪馬国」は福井の「鯖江国」でぴったり,この考え方でしょう。
>> ・・・いや,半分冗談,,,(^^;
大変面白いじゃ有りませんか!
>> (4)
>>
>> 「天之御中主神」という言葉には,
>> 「高天原に潜む葦原の中つ国の隠れ総帥」
>> みたいな印象がないわけではないので,,,(^^;
>> それが徐福のような人物を暗示することもあるかもしれませんが,
>> この場合,
>> 「天之・・・」の「天」は,徐福の精神的属性を示すと思われるので,
>> 高天原とは百パーセント中国文明の拠点のことになってしまいませんか。
>> >> どこが面白いか、具体的に“ほめていただける”と、初心者には励みになるのですが…。
>> これは,いざなき信仰にて解釈するという,目のつけどころですね。
イザナギイザナミは、人ではないという説も有るようですね。
がんばってください。
元の発言 [ Re: 邪馬台国への道程 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 8月20日(月)14時14分11秒 ]
>> ですが、戦国のだまし合いの中を生抜いている者同士歓迎しているとはいえその程度で納得できるでしょうか?
>> 元攻の時には、幕府は、元の使者を京都へ入れていません。
>> 大阪から奈良上野を通って鎌倉まで移動しています。
>> 普通、船を使わない限り京都を経由して鎌倉へというのがそのころの旅の常識だと思うのにです。
>> つまり、教えていい道、隠せないようなコースを使者には通らせると思うのですがいかがですか?
NHKの『北条時宗』を見てますか?
元寇に怯え、右往左往する鎌倉武士の姿が描かれています。
さて私は、徐福集団こそ日本人の祖先となった、とする立場で上代日本史を捉えています。
彼らは、秦の始皇帝からの逃亡者です。
徐福ら指導者、そして後継者たちは、常に中国からの追っ手に怯えていたと考えられます。
中国から使者が来たら、どうするか。
怪しい者が渡来したら、どうするか?
真剣に対策をとっていたと思います。
ある意味で「教えていい道」を通したと思います。
逆に本当の道筋は、隠したでしょう。
つまり使者を“騙す”方法を、入念に準備したと考えられます。
>> >私が案内者で、三つの薩摩芋を並べ、「こう迂回して南>下した」と説明したとします。
>> >馬頭鬼さんが「使者の随員」だとしたら、何を根拠に
>> >「嘘」を暴くのでしょうか?
>> >当時における学的論拠、具体的な方法、使う道具など。
>> >考えてみて下さい。
>> 先ず、歩測と車輪と指南車、水準器と定盤コンパスとさすがね、分度器てな所でしょうか。
>> 忍者の使うような道具と考えていただけたらうれしいですね。
>> 簡単な、三角測量の繰り返しを行なって計算して概算の図を作ると思いますね。
>> 使者というのは、忍者が、こっそりやることを、おおっぴらに近い形でできるということです。
ちょっと待ってください。
「不弥国から投馬国に至るには、水行20日」ですよ。
どうやって、「車輪と指南車」を使い、「歩測」するんですか?
海上で、三角測量はできません。
ところで昨日、NHKの『プロジェクトX』という番組を見ました。
たまたま「明石大橋」をかけた男たちの物語でした。
成功の鍵である土台工事に重大な問題が起きたとき、それを解決したのは、科学者や技術者の知識ではなく、ベテラン潜水夫の知恵だったことが語られていました。
瀬戸内海の海を知り尽くし、そこに生きる男の体験が、国家プロジェクトのピンチを救ったのです。
おそらく中国使節を案内したのは、瀬戸内海に住む“海士”だったのではないでしょうか。
彼らには、地図も海図も必要なかったと思われます。
その首領の頭には、上代の日本地図が、日々の経験によってインプットされていたはずです。
当然、外国の使節を“騙す”こともできたでしょう。
※「小田原の役」に関して。
>> 蛇足ながら、調略によって交渉を仕掛けて置いて落城を既定ものとした上で奇襲で攻め込んだ。(でないと門が開いてるはずが無い)
>> 戦争とは、こうやるもんだといういい例なんじゃないですかね。
>> すいませんチャチャです。
いえ、それが“史実”だと思います。
与えられる情報によって、歴史の解釈は変わります。
われわれは、何が“正しい”情報か、見極める必要があります。
最終的には、自分の知識と理性が決め手になります。
秀吉は、「山中城攻め」の第一功労者として、中村一氏に褒賞を与えました。
攻めるのを止めた人物に、です。
一氏は、勘兵衛に褒美を与えず、それを不満として勘兵衛は脱藩します。
小瀬甫庵は、一氏を非難していますが、これは筋ちがいでしょう。
山中城は、一氏の謀略によって、攻められる前に“落城”していたのです。
“山中城の力攻め”は、秀吉と一氏の演出でした。
余談ですが、その真相が噂になった時、秀吉は八王子城を“力攻め”にし、数千人を虐殺しています。
>> こうは、考えられませんか。
>> たとえば、有名な諸葛孔明の一族この時代三国それぞれに一族が、別れて使えています。
>> 例)呉に使えている兄貴の諸葛 勤(この字で良かったかな?)
>> 小松左京氏の本で読んだことなので詳しくは、知らないのですが。
>> 氏に言わせると、この一族かなりうさんくさいそうです。
>> 三国の終わりごろになると、三国ともにほとんどが粛正されてしまうそうですが。
>> 事によると、三国を上手く乗っ取って諸葛王朝というのを作ろうとした節があると書いておられました。
>> このように、当時大陸から逃げてきた人たち(つまりは指名手配犯)が実は、身内みたいな形になっている人たちが使者だったりするんじゃなんて思うんですが。
>> この推理どうでしょう。
可能性は、あると思います。
私が、上代日本の歴史に“何か暗いもの”を感じるのは、その点なのです。
だから徐福とその後継者たちは、基本的に「新たな渡来者を許さなかった」のではないか。
上代日本前期(前210〜1世紀前半)は、鎖国政策がとられた。
私は、そう推定しています。
では、渡来者が来たらどうなるか?
「許されない」のだから、起こるのは悲劇です。
元の発言 [ Re: 女王国邪馬臺國 ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月20日(月)10時55分17秒 ]
>>
五,六世紀の話でしょう?
黥面の埴輪って畿内の王族の墓を守る役目を持っていた。
五世紀に畿内を攻略する応神天皇に従った九州の久米族、又は阿曇族を象徴するものです。
九州には7,8世紀まで黥面があった事は確かです。5,6世紀の畿内人にとって九州の風俗が珍しくて埴輪にしたのでしょう。
>>
>>
>>
北九州では卑弥呼、壱與一族が卜占を独占していて庶民にはやらせなかったとか??
>> 考古学とは違いますが、北九州は倭人伝の風俗を今に伝えているのです。
>>
>>
>>
畿内が有利な所ってどんなことですか?
>>
>>
生活に根ざした風俗ってなかなか消えないものです。
九州では黥面も五百年も続いた。
黥面は消えても現代まで漁法は消えなかった。
3世紀の高句麗の婚姻形式が12世紀まで平安時代の貴族の妻問婚として残ったように。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ 関根 聡 ] 日付 [ 8月20日(月)15時08分48秒 ]
>> 「仏教僧が神仏習合観による神話解釈や祀りに果たした役割」について
>> もう少し具体的に教えてください。
『親鸞和讃集』(岩波文庫)の第272頁によると,「三寶流布讃略云」として,
次のようにあります。
日本国始人更無。葦二筋生立。神成代知。
自是葦原水穂国名。
神代七代第四,日天下神成。依此吾国名日本。
人世百王定。
神武天皇始即位元年辛酉歳,釈迦滅後数二百五十年成。
というわけで,これなどは,
「日本国始めに人更に無し」
「日の天下りて神と成れり」(「日天の下りて神と成れり」?)
という伝え方なんですね。
次のサイトでは,邪馬台国時代に「葛野井宮(かずのいぐう)」があった,
という主張なんですが・・・。
法輪寺ご案内
http://www2.ocn.ne.jp/~horinji/introcuction.html#about%20horinji
山幸彦なんかは,新羅圏に渡って,
そこの特産の白い服を着せて貰ったようなフシがあります。
この山幸彦,「天の垢(顔)でもなく地の垢(顔)でもなく,虚空彦(そらつひこ)である」と讃えられているわけですが,(古事記では「虚空津日高」)
火とともに生まれたということは,
天系の垢や地系の垢を浄化した達人ふうの人物であったのではないか,
とも想像されます。
仏教の知識のある者が,日本神話の神々や登場人物のなかに,
仏教でいう菩薩や如来や天部に相応する位相を嗅ぎつけていたフシは,
確かにあるわけです・・・。
>> 音博士等のことでしょうか?
あるいは,独自の哲学からなる考えがあって,国家の中枢に,
思想(イデオロギー)戦略を被せた人達がいるらしいので,
そういう人達の学派・学統のようなもののことです。
>> 彼らの記事が少ないのは、元祖ではあるが、あまり誉められた行状ではなかったからだと思います。
九州の弥生遺跡には戦闘の激しさを物語るものが多いそうですよね。
中国で徐福村が見つかったことと,
梅原猛氏が徐福渡来説をかましてくれたので,
徐福伝説について話しやすくなっているのは確かです。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 8月20日(月)15時10分42秒 ]
この辺り,調べがいがありそうです。食べていた人達は,
どういう系統の民族なのか,あるいは食文化に属すのか,と。
遺跡から出たのが,料理用なのか薬草用なのか,呪術用なのか,とか。
(奈良時代の記録では,鯖の山椒焼きが御用達であったようです。)
薬草や呪術専用であったのなら,食用としては禁忌であった,
なんて発想もありか,と。
これらのものは,辛味,酸味,苦味,臭味,灰汁っぽさ,などが強く,
喉を傷めたり,胃にもたれたり,頭痛が起きたりするはずのものですから,
実は嫌いな人のほうが健全かもしれないので,,,(^^;
# 「草」と「臭い」とが通じるという説もあるようですし。
邪馬台国佐俣説というのは論客がいて知られていますがね。
一説によると,あの辺は弥生時代の人口密度が高いことと,
免田式関連の遺物の件,あるいは神話の舞台に近いこと,
景行紀の九州巡幸譚があることなどから,
まったく黙殺するという訳にもいかないでしょう。
畿内説をとっても政治地理学ふうに気になる場所だと思います。
元の発言 [ 女王国は ] お名前 [ おんじ ] 日付 [ 7月4日(水)19時45分43秒 ]
こんばんは。
> 日数記事と里数の記事の元が異なる資料という点は、文の書き方も異なっていますから賛成です。
ありがとうございます。
> 女王国の東へ里数で標記された記事があって、海を渡っているので、女王国(不弥国)は、九州の瀬戸内海沿岸と思います。
>
奴国と不弥国はもっと近いんじゃないでしょうか。
岩波文庫巻末に
>『魏略』逸文
>
>〔『前漢書』地理志・燕地・顔師古注〕
> 倭在帯方東南大海中、依山島為国。度海千里、復有国、皆倭種。
とありますが、ここでは、「倭国から海を渡る」の意味かと思います。魏志倭人伝の、
>女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
この「女王国」も倭国の意味で使っているのではないでしょうか。
元の発言 [ Re: 女王国邪馬臺國 ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月21日(火)10時15分46秒 ]
>> >> 考古学とは違いますが、北九州は倭人伝の風俗を今に伝えているのです。
>> だから、たんなる思いこみだってば。沈没漁法については、ちゃんと考古学的にも
>> でてきているから、文句はないが、他には、近畿のほうが有利なものばっかりだったり
>> する。
「畿内が有利な所ってどんなことですか?」
についても回答願いませんか?
元の発言 [ 無関係だけど、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月21日(火)13時49分09秒 ]
>>
>>
おにりんさんの持論では、倭人伝の時代には a,i,u,Oの
4母音で他の母音はこの合成でできたことになって
いますね。
すると倭人伝の時代には、一時的にでも二重母音は
存在したのでしょうか。
それとも連用形のiなどがくっついたり、途中の子音が
落ちたりすると、すぐさま母音の変化が起こったもので
しょうか。
このあたりはどう考えればよいのでしょう。
エ(乙)あたりは、ずっとあとまで二重母音だという説も
見ましたが。
元の発言 [ Re: 邪馬台国への道程 ] お名前 [ 関根 聡 ] 日付 [ 8月20日(月)17時42分42秒 ]
はじめまして。
>> さて私は、徐福集団こそ日本人の祖先となった、とする立場で上代日本史を捉えています。
#じょふくのしゅうだんはどうしてにほんにわたったのですか?
みなみのしまのほうがあたたかくていいとおもいます。
>> 彼らは、秦の始皇帝からの逃亡者です。
#”しん”は”かん”の”りゅうほうと”そ”のこううにほろぼされました。
その”かん”からおうさまのしょうごうをゆずってもらった”ぎ”は”かん”なので、べつににげたことをかくさなくてもいいとおもいます。
それにいまも、ちゅうごくじんどうしはたすけあったりするそうです。
>> 徐福ら指導者、そして後継者たちは、常に中国からの追っ手に怯えていたと考えられます。
>> 中国から使者が来たら、どうするか。
>> 怪しい者が渡来したら、どうするか?
>> 真剣に対策をとっていたと思います。
#おうちょうこうたいのじょうほうははいってなかったということですか?
>> >> 小松左京氏の本で読んだことなので詳しくは、知らないのですが。
>> >> 氏に言わせると、この一族かなりうさんくさいそうです。
>> >> 三国の終わりごろになると、三国ともにほとんどが粛正されてしまうそうですが。
>> >> 事によると、三国を上手く乗っ取って諸葛王朝というのを作ろうとした節があると書いておられました。
#さっかのかんかくをそのままとりいれるのはいけないとおもいます。
にほんをしずめたり、もくせいをこわしたり、とうきょうをけしたりすることをかんがえられるひとのそうぞうだとおもいます。
元の発言 [ Re: Title青龍三年鏡の疑問 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月2日(木)11時49分48秒 ]
>> 「音尨」が以前からあるならば「音犬」が新しいとは言いきれないですよね。
>>
>>
写真で見る限り不可能というほどの狭さじゃないような。
三本が難しければ二本でも良いわけだし。
古田氏は「尨」を「犬」と書くようになったのは北魏の頃と言ってますね。
元の発言 [ Re: いえ大いに教えていただきたいところです ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月21日(火)19時11分25秒 ]
ところで倭人伝の倭人語の音写ですが、おにりんさんは
ほぼ全面的に上古音にしていらっしゃるようです。
一般書では上古音から中古音への変遷期であるとして
魚部模韻の字は、母音をオ(甲)で取る例が多いようです。
また陽類字および中古音ベースでの入声字と
アクセント去声字以外は子音韻尾ではなかった様に
書かれていることもあります。
そのほかかなりの文字を中古音もしくは、日本語の呉音で
取るひともいらっしゃるようです。
おにりんさんも弓は中古音で読んでおられたように
思いますが、このあたりどう整理されておられるでしょうか。
私の読んでいるのは、一般書の少々古い知識ですが、
最近でもこのあたりの研究の大きな進展は
あったのでしょうか。
元の発言 [ Re: Title青龍三年鏡の疑問 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月22日(水)10時49分20秒 ]
>> 古田氏は「尨」を「犬」と書くようになったのは北魏の頃と言ってますね。
# 単純な調査もれでしょう。
元の発言 [ 徐州徐州と人馬は進む ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 8月16日(木)00時14分18秒 ]
どうも、このスレッド、重要な論点が提示されているのに、核心部分の話が発展せず、勿体無いですね。
>> 魏の徐州(旧彭城県、現徐州市)は、近郊に銅山の地名が残るとおり古来産銅の地であります。ひところ銅を産する徐州といえば長江北岸近くであるという議論もありましたが、徐州市近郊で漢代銭貨銅笵の発見が相次ぎ、鋳銅銭のメッカぶりが明らかになっていきました。遼陽(遼東郡治:当時)三道壕1号墓出土の鳥文規矩鏡に「同出余州」(=銅出徐州)銘があることの認識もぼちぼち広まってきたようであります。結局「銅出徐州師出洛陽」の銘文を考案し得るのは魏の鏡師を措いて無いでしょう。
三角縁神獣鏡の中には、「銅出徐州師出洛陽」の銘文を有するものがあり、ここに見える徐州という地名には、広域(州)を指す場合と狭域(都市)を指す場合があるわけですが、この銘文中では、洛陽と対に用いられていますから、狭域(都市)を指して用いられていると考える方が妥当であるわけです。狭域(都市)の徐州といえば、紛れもない魏の領土ですから、「銅出徐州師出洛陽」の銘は三角縁神獣鏡魏鏡説の証拠のひとつに数えられてきました。
ところが、狭域(都市)の徐州には銅山はなく、「銅出徐州」の徐州は広域(州)の徐州であり、具体的には広域(州)の徐州の南、長江近くの呉の領域の銅山を指し、三角縁神獣鏡を作った工人が呉の出身であることの証拠とする説が出てきたわけですね。
しかしながら、狭域(都市)の徐州の近郊に確かに銅山があったということになれば、やはり、洛陽と対をなす徐州は狭域(都市)の徐州とみるのが妥当であると考えられ、「銅出徐州」の銘は魏の領域の銅を用いたと語っていることになります。まして、この銘文は極めてまれで、三角縁神獣鏡の他には、「遼陽(遼東郡治:当時)三道壕1号墓出土の鳥文規矩鏡」に見出されるだけだとなればなおさらのことです。規矩鏡といえば、芝草紋(唐草紋)の変遷についても三角縁神獣鏡と強い親縁性が認められる鏡種でもあります。
>> 一方で、鈕孔が長方形を指向する鏡は中国では幽州を中心に分布しております。倭との窓口は帯方郡であり帯方郡は幽州の管轄下でありますから、長方形鈕孔の鏡が河北−半島−日本にかけて分布するのはごく自然ではありますが、ちょっと待ってほしい。
>> 長方形鈕孔の鏡が河北省で発見される事実からは、この鏡の制作の中心地が幽州であったかのように一見して思われますが、実は北京を中心として河北省文物研が積極的な活動を展開していることの単純な結果かも知れません。むろん江南にはこのような偏平な方形の鈕孔が見られない事実は動かないでしょう。しかし魏は魏でも東北方面限定と見なすのは些か時機尚早と思います。
長方形鈕孔の他に、外周突線もありますね。やはり、魏の領域から出る鏡にあり、三角縁神獣鏡にも多い。
>> 三角縁神獣鏡の生産地が魏の国内であるか、藩属国下であるかの結論はいま暫く置くとして、この両者以外の選択肢は既に事実上消えたものと思います。ここでいう「魏」に、直接その禅譲を受けた国の初期を含めるか否かや、生産地の更なる絞り込み等が、これからの議論でありましょう。
同意いたします。未だに呉の工人制作説を無批判に受け入れている人がいるのは困ったものです。三角縁神獣鏡は、どこで制作されたにせよ、魏の工人の作であることは決定的でしょう。つまりは、卑彌呼や臺與といった親魏倭王治下の倭国に魏から齎されたか、親魏倭王治下の倭国で生産されたかである、と考えられます。
#まあ、魏の工人が親魏倭王の倭国を素通りして国交もないさらに奥地に渡来したんだ、とかいう想像も可能なのかもしれませんが。
元の発言 [ Re: 徐州徐州と人馬は進む ] お名前 [ 大和猫 ] 日付 [ 8月22日(水)17時55分05秒 ]
北宋神宗の元豊年間に徐州に鋳銅銭の監が置かれたことは宋史地理志に明らかですが、宋の徐州は漢の徐州より遥かに狭い僅か5県の範囲です。この中には、例の「元」三角縁神獣鏡=東之宮鏡と酷似する斜縁同向式二神二獣鏡の見つかった滕県があります。銅出徐州が具体的に彭城近郊産を指すことは最早疑いないでしょう。
「徐州で銅は出ない」説は既に過去のもの。歴史の屑篭行きであります。
元の発言 [ Re: 邪馬台国への道程 ] お名前 [ よいこ ] 日付 [ 8月22日(水)07時44分23秒 ]
>> >> さて私は、徐福集団こそ日本人の祖先となった、とする立場で上代日本史を捉えています。
徐福が弥生時代の原因などと言うばかばかしい話が一部で言われているようですが、2,300人の人間で日本全土に一時代をもたらすのは無理です。
弥生時代は少なくとも数万、おそらくは数十万の人間の渡来によって始まったのです。
徐福日本に来たかどうかはさだかでは有りませんが時期がたまたま近かっただけでしょう。
>> #じょふくのしゅうだんはどうしてにほんにわたったのですか?
>> みなみのしまのほうがあたたかくていいとおもいます。
>>
>> >> 彼らは、秦の始皇帝からの逃亡者です。
>> #”しん”は”かん”の”りゅうほうと”そ”のこううにほろぼされました。
>> その”かん”からおうさまのしょうごうをゆずってもらった”ぎ”は”かん”なので、べつににげたことをかくさなくてもいいとおもいます。
>> それにいまも、ちゅうごくじんどうしはたすけあったりするそうです。
>> >> 徐福ら指導者、そして後継者たちは、常に中国からの追っ手に怯えていたと考えられます。
>> >> 中国から使者が来たら、どうするか。
>> >> 怪しい者が渡来したら、どうするか?
>> >> 真剣に対策をとっていたと思います。
>> #おうちょうこうたいのじょうほうははいってなかったということですか?
>> >> >> 小松左京氏の本で読んだことなので詳しくは、知らないのですが。
>> >> >> 氏に言わせると、この一族かなりうさんくさいそうです。
>> >> >> 三国の終わりごろになると、三国ともにほとんどが粛正されてしまうそうですが。
>> >> >> 事によると、三国を上手く乗っ取って諸葛王朝というのを作ろうとした節があると書いておられました。
>> #さっかのかんかくをそのままとりいれるのはいけないとおもいます。
>> にほんをしずめたり、もくせいをこわしたり、とうきょうをけしたりすることをかんがえられるひとのそうぞうだとおもいます。
ちょっと笑ってしまった。
日本でも真田雪村と真田信之が東西に分かれて戦いましたから、片方が倒れても一族の血は絶えないですむ。
そんなに怪しい事ではなく当時の人の知恵と言うものでしょう。
元の発言 [ Re: 徐州徐州と人馬は進む ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 8月22日(水)20時08分47秒 ]
ちょっと待ってください。
>>徐州市近郊で漢代銭貨銅笵の発見が相次ぎ、鋳銅銭のメッカぶりが明らかになっていきました。
がどうして
>> 「徐州で銅は出ない」説は既に過去のもの。歴史の屑篭行きであります。
になるのか?少し飛躍しすぎでは?
銅鉱山又は発掘跡が発見されたのならまだしも、鋳銅銭のメッカである事が徐州で銅が産出した事の証明にはならないと思いますが。
元の発言 [ Re: いえ大いに教えていただきたいところです ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月22日(水)22時59分40秒 ]
>> 一般書では上古音から中古音への変遷期であるとして
>> 魚部模韻の字は、母音をオ(甲)で取る例が多いようです。
>>
>>
>>
このあたりは、中公文庫の「日本の古代1 倭人の登場」
第5章「倭人伝の地名と人名」の森博達氏の受け売りですが。
伊都国の都などはどうでしょうか。
あと模韻ではありませんが、台与の与はどうでしょうか。
>> また陽類字および中古音ベースでの入声字と
>> アクセント去声字以外は子音韻尾ではなかった様に
>> 書かれていることもあります。
>>
>>
>>
>>
ほんとはこれは同じ本に書いてあった、倭人伝の音写についての分析から
私がかってに逆算したものですが、中国の古音が倭人伝をよむ
重要な資料で有ると共に、倭人伝も同時代の中国音の資料とも
言えるわけでしょうから。
>> そのほかかなりの文字を中古音もしくは、日本語の呉音で
>> 取るひともいらっしゃるようです。
>>
古本屋で見かけた本に、魏、西晋の時代は五胡十六国のまえで
異民族は無く、純粋漢人なのだから、上古音でいい、
中古音は一切考慮の必要なし、と書いて有りましたがどうでしょうかね。
五胡の侵入は、中華文明外からというより、周辺部から。
匈奴などは内乱ですよね。
前漢末の大乱後から少しづつ異民族の浸透は続いていたと
考えたほうがいいかも知れないと思うんですが。
さらに後漢末にも、漢人全滅寸前ですし。
詩経は遠くなりにけり・・・かなと・・・
ただ教養人は古典を勉強しますから、文語は古いものが残りそうですが。
魚部模韻の件については、これをオ(甲)とすると、
全体のオ(甲)が増えすぎる。
オ(甲)の連続が現われる。
など、上代日本語とつながりにくくなると、森博達氏も
苦慮しておられました。
これに対して、
1.方音などの使用を考える。
2.より強い母音調和の存在を考える。
3.国名全てを、前漢代の音写と考える。
などとありました。
1.と2.は私にはわかりません。
3.はいかにも苦しげです。
やはりアでいい、たまにオ(甲)を考慮するのかなと考えています。
>> おにりんさんも弓は中古音で読んでおられたように
>>
>>
そうでしたか。
>>
>>
私は中国語の発音、特にあのアクセントは全く分からないのですが、
中国人は平板で単純な日本語は聞きやすいのでしょうか。
実は倭人伝の表音を、自分なりの基準を設けて
読んでみようとしたのですが、分からないことが
山のように出てきました。
という訳で、名前でおにりんさんをお誘いしたわけです。
元の発言 [ Re: いえ大いに教えていただきたいところです ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月22日(水)22時59分40秒 ]
>> 一般書では上古音から中古音への変遷期であるとして
>> 魚部模韻の字は、母音をオ(甲)で取る例が多いようです。
>>
>>
>>
このあたりは、中公文庫の「日本の古代1 倭人の登場」
第5章「倭人伝の地名と人名」の森博達氏の受け売りですが。
伊都国の都などはどうでしょうか。
あと模韻ではありませんが、台与の与はどうでしょうか。
>> また陽類字および中古音ベースでの入声字と
>> アクセント去声字以外は子音韻尾ではなかった様に
>> 書かれていることもあります。
>>
>>
>>
>>
ほんとはこれは同じ本に書いてあった、倭人伝の音写についての分析から
私がかってに逆算したものですが、中国の古音が倭人伝をよむ
重要な資料で有ると共に、倭人伝も同時代の中国音の資料とも
言えるわけでしょうから。
>> そのほかかなりの文字を中古音もしくは、日本語の呉音で
>> 取るひともいらっしゃるようです。
>>
古本屋で見かけた本に、魏、西晋の時代は五胡十六国のまえで
異民族は無く、純粋漢人なのだから、上古音でいい、
中古音は一切考慮の必要なし、と書いて有りましたがどうでしょうかね。
五胡の侵入は、中華文明外からというより、周辺部から。
匈奴などは内乱ですよね。
前漢末の大乱後から少しづつ異民族の浸透は続いていたと
考えたほうがいいかも知れないと思うんですが。
さらに後漢末にも、漢人全滅寸前ですし。
詩経は遠くなりにけり・・・かなと・・・
ただ教養人は古典を勉強しますから、文語は古いものが残りそうですが。
魚部模韻の件については、これをオ(甲)とすると、
全体のオ(甲)が増えすぎる。
オ(甲)の連続が現われる。
など、上代日本語とつながりにくくなると、森博達氏も
苦慮しておられました。
これに対して、
1.方音などの使用を考える。
2.より強い母音調和の存在を考える。
3.国名全てを、前漢代の音写と考える。
などとありました。
1.と2.は私にはわかりません。
3.はいかにも苦しげです。
やはりアでいい、たまにオ(甲)を考慮するのかなと考えています。
>> おにりんさんも弓は中古音で読んでおられたように
>>
>>
そうでしたか。
>>
>>
私は中国語の発音、特にあのアクセントは全く分からないのですが、
中国人は平板で単純な日本語は聞きやすいのでしょうか。
実は倭人伝の表音を、自分なりの基準を設けて
読んでみようとしたのですが、分からないことが
山のように出てきました。
という訳で、名前でおにりんさんをお誘いしたわけです。
元の発言 [ Re: 邪馬台国への道程 ] お名前 [ 関根 聡 ] 日付 [ 8月20日(月)17時42分42秒 ]
>>
>> >> ですが、戦国のだまし合いの中を生抜いている者同士歓迎しているとはいえその程度で納得できるでしょうか?
>> >> 元攻の時には、幕府は、元の使者を京都へ入れていません。
>> >> 大阪から奈良上野を通って鎌倉まで移動しています。
>> >> 普通、船を使わない限り京都を経由して鎌倉へというのがそのころの旅の常識だと思うのにです。
>> >> つまり、教えていい道、隠せないようなコースを使者には通らせると思うのですがいかがですか?
>> NHKの『北条時宗』を見てますか?
>> 元寇に怯え、右往左往する鎌倉武士の姿が描かれています。
>> さて私は、徐福集団こそ日本人の祖先となった、とする立場で上代日本史を捉えています。
>> 彼らは、秦の始皇帝からの逃亡者です。
>> 徐福ら指導者、そして後継者たちは、常に中国からの追っ手に怯えていたと考えられます。
秦の間はそうでしょうが、後はどうでしょう。
>> 中国から使者が来たら、どうするか。
>> 怪しい者が渡来したら、どうするか?
>> 真剣に対策をとっていたと思います。
>> ある意味で「教えていい道」を通したと思います。
>> 逆に本当の道筋は、隠したでしょう。
>> つまり使者を“騙す”方法を、入念に準備したと考えられます。
>> >> >私が案内者で、三つの薩摩芋を並べ、「こう迂回して南>下した」と説明したとします。
>> >> >馬頭鬼さんが「使者の随員」だとしたら、何を根拠に
>> >> >「嘘」を暴くのでしょうか?
>> >> >当時における学的論拠、具体的な方法、使う道具など。
>> >> >考えてみて下さい。
>> >> 先ず、歩測と車輪と指南車、水準器と定盤コンパスとさすがね、分度器てな所でしょうか。
>> >> 忍者の使うような道具と考えていただけたらうれしいですね。
>> >> 簡単な、三角測量の繰り返しを行なって計算して概算の図を作ると思いますね。
>> >> 使者というのは、忍者が、こっそりやることを、おおっぴらに近い形でできるということです。
>> ちょっと待ってください。
>> 「不弥国から投馬国に至るには、水行20日」ですよ。
>> どうやって、「車輪と指南車」を使い、「歩測」するんですか?
>> 海上で、三角測量はできません。
それが間違いです。
船の長さ、角度を測るために立つ位置の距離それと指南車を使い島から島へ目印の岩から岩へ岬から岬へ測定して行くようにすれば良いのです。
当時は、沿岸航法ですから、こうやれば可能でしょう。
ただ、まったく目標のみえない沖合いを走った場合のみ、不可能になります。
近代になるまで洋上の位置の測定は大変難しい物でした。
ごまかす方法をとるとしたらこの方法でしょう。
>> ところで昨日、NHKの『プロジェクトX』という番組を見ました。
>> たまたま「明石大橋」をかけた男たちの物語でした。
>> 成功の鍵である土台工事に重大な問題が起きたとき、それを解決したのは、科学者や技術者の知識ではなく、ベテラン潜水夫の知恵だったことが語られていました。
>> 瀬戸内海の海を知り尽くし、そこに生きる男の体験が、国家プロジェクトのピンチを救ったのです。
>> おそらく中国使節を案内したのは、瀬戸内海に住む“海士”だったのではないでしょうか。
>> 彼らには、地図も海図も必要なかったと思われます。
>> その首領の頭には、上代の日本地図が、日々の経験によってインプットされていたはずです。
>> 当然、外国の使節を“騙す”こともできたでしょう。
しかも明白な方法である潮を利用するような航海もしては行けないということになる。
まさに超ベテランでなくては、遭難しかねないのを安全に交通する必要がある。
その通りだと思います
>> 上代日本前期(前210〜1世紀前半)は、鎖国政策がとられた。
>> 私は、そう推定しています。
航海技術が逮捕しているような感じを受けるのでありえますね。
元の発言 [ Re: 邪馬台国への道程 ] お名前 [ 関根 聡 ] 日付 [ 8月20日(月)17時42分42秒 ]
>>
>> >> ですが、戦国のだまし合いの中を生抜いている者同士歓迎しているとはいえその程度で納得できるでしょうか?
>> >> 元攻の時には、幕府は、元の使者を京都へ入れていません。
>> >> 大阪から奈良上野を通って鎌倉まで移動しています。
>> >> 普通、船を使わない限り京都を経由して鎌倉へというのがそのころの旅の常識だと思うのにです。
>> >> つまり、教えていい道、隠せないようなコースを使者には通らせると思うのですがいかがですか?
>> NHKの『北条時宗』を見てますか?
>> 元寇に怯え、右往左往する鎌倉武士の姿が描かれています。
>> さて私は、徐福集団こそ日本人の祖先となった、とする立場で上代日本史を捉えています。
>> 彼らは、秦の始皇帝からの逃亡者です。
>> 徐福ら指導者、そして後継者たちは、常に中国からの追っ手に怯えていたと考えられます。
秦の間はそうでしょうが、後はどうでしょう。
>> 中国から使者が来たら、どうするか。
>> 怪しい者が渡来したら、どうするか?
>> 真剣に対策をとっていたと思います。
>> ある意味で「教えていい道」を通したと思います。
>> 逆に本当の道筋は、隠したでしょう。
>> つまり使者を“騙す”方法を、入念に準備したと考えられます。
>> >> >私が案内者で、三つの薩摩芋を並べ、「こう迂回して南>下した」と説明したとします。
>> >> >馬頭鬼さんが「使者の随員」だとしたら、何を根拠に
>> >> >「嘘」を暴くのでしょうか?
>> >> >当時における学的論拠、具体的な方法、使う道具など。
>> >> >考えてみて下さい。
>> >> 先ず、歩測と車輪と指南車、水準器と定盤コンパスとさすがね、分度器てな所でしょうか。
>> >> 忍者の使うような道具と考えていただけたらうれしいですね。
>> >> 簡単な、三角測量の繰り返しを行なって計算して概算の図を作ると思いますね。
>> >> 使者というのは、忍者が、こっそりやることを、おおっぴらに近い形でできるということです。
>> ちょっと待ってください。
>> 「不弥国から投馬国に至るには、水行20日」ですよ。
>> どうやって、「車輪と指南車」を使い、「歩測」するんですか?
>> 海上で、三角測量はできません。
それが間違いです。
船の長さ、角度を測るために立つ位置の距離それと指南車を使い島から島へ目印の岩から岩へ岬から岬へ測定して行くようにすれば良いのです。
当時は、沿岸航法ですから、こうやれば可能でしょう。
ただ、まったく目標のみえない沖合いを走った場合のみ、不可能になります。
近代になるまで洋上の位置の測定は大変難しい物でした。
ごまかす方法をとるとしたらこの方法でしょう。
>> ところで昨日、NHKの『プロジェクトX』という番組を見ました。
>> たまたま「明石大橋」をかけた男たちの物語でした。
>> 成功の鍵である土台工事に重大な問題が起きたとき、それを解決したのは、科学者や技術者の知識ではなく、ベテラン潜水夫の知恵だったことが語られていました。
>> 瀬戸内海の海を知り尽くし、そこに生きる男の体験が、国家プロジェクトのピンチを救ったのです。
>> おそらく中国使節を案内したのは、瀬戸内海に住む“海士”だったのではないでしょうか。
>> 彼らには、地図も海図も必要なかったと思われます。
>> その首領の頭には、上代の日本地図が、日々の経験によってインプットされていたはずです。
>> 当然、外国の使節を“騙す”こともできたでしょう。
しかも明白な方法である潮を利用するような航海もしては行けないということになる。
まさに超ベテランでなくては、遭難しかねないのを安全に交通する必要がある。
その通りだと思います
>> 上代日本前期(前210〜1世紀前半)は、鎖国政策がとられた。
>> 私は、そう推定しています。
航海技術が逮捕しているような感じを受けるのでありえますね。
元の発言 [ Re: 邪馬台国への道程 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 8月22日(水)20時58分29秒 ]
>> >> >> さて私は、徐福集団こそ日本人の祖先となった、とする立場で上代日本史を捉えています。
>> 徐福が弥生時代の原因などと言うばかばかしい話が一部で言われているようですが、2,300人の人間で日本全土に一時代をもたらすのは無理です。
私も、その見方には賛成です。
>> 弥生時代は少なくとも数万、おそらくは数十万の人間の渡来によって始まったのです。
>> 徐福日本に来たかどうかはさだかでは有りませんが時期がたまたま近かっただけでしょう。
>> >> #じょふくのしゅうだんはどうしてにほんにわたったのですか?
>> >> みなみのしまのほうがあたたかくていいとおもいます。
>> >>
確実に土地が有ることが分かっているのと
南より東のほうが情報が少なかったからだとと思います。
もしかの時に、逃げやすいし弁明も可能。
>> >> >> 彼らは、秦の始皇帝からの逃亡者です。
>> >> #”しん”は”かん”の”りゅうほうと”そ”のこううにほろぼされました。
>> >> その”かん”からおうさまのしょうごうをゆずってもらった”ぎ”は”かん”なので、べつににげたことをかくさなくてもいいとおもいます。
>> >> それにいまも、ちゅうごくじんどうしはたすけあったりするそうです。
>> >> >> 徐福ら指導者、そして後継者たちは、常に中国からの追っ手に怯えていたと考えられます。
>> >> >> 中国から使者が来たら、どうするか。
>> >> >> 怪しい者が渡来したら、どうするか?
>> >> >> 真剣に対策をとっていたと思います。
>> >> #おうちょうこうたいのじょうほうははいってなかったということですか?
>> >> >> >> 小松左京氏の本で読んだことなので詳しくは、知らないのですが。
>> >> >> >> 氏に言わせると、この一族かなりうさんくさいそうです。
>> >> >> >> 三国の終わりごろになると、三国ともにほとんどが粛正されてしまうそうですが。
>> >> >> >> 事によると、三国を上手く乗っ取って諸葛王朝というのを作ろうとした節があると書いておられました。
>> >> #さっかのかんかくをそのままとりいれるのはいけないとおもいます。
>> >> にほんをしずめたり、もくせいをこわしたり、とうきょうをけしたりすることをかんがえられるひとのそうぞうだとおもいます。
>> ちょっと笑ってしまった。
>> 日本でも真田雪村と真田信之が東西に分かれて戦いましたから、片方が倒れても一族の血は絶えないですむ。
>> そんなに怪しい事ではなく当時の人の知恵と言うものでしょう。
“戦争において確かなことは、確かなことなど一つも無いということだ。”
なんて誰の言葉だか忘れたけど中国の戦国時代でしょ。何でもありでしょうね。
このくらいの陰謀なんてかわいいもんだと思いますよ
大体が、漢の劉邦だって、明の太祖(すいません名前忘れました)だってその辺の町のごろつきから皇帝になっているんですから二千数百年間に二人だけだけれどとんでもないのがいるし。
もっとも規模は小さいけれど日本では秀吉、ほんとに何にも無いところから国取りしたのは。
東アジアで分かっているのは、この三人だけ何だけれど普通ではありえないとんでもない結果がでるのが戦国時代や戦争ってもんでしょう。
ただ、三国志なんか見てみると結構地縁血縁というか塾の同門で義理が有るとか奥さんが同じ一族だとか言うのが多くその伝で交渉しているのが頻繁に出てくる。
魏でも呉でも蜀でも似たような物
まあ、ただでも漢の前の戦国時代から学問の同門とかが各国に根を果ているし。
考えてみたら漢帝国の官僚団、武官団として一つだった物が3つに別れたんだから当たりまえか!
それで3つに整理されるまでに分解した官僚団が潰れたりくっ付いたりした。
そんな中で運悪く中国にいられないようなのが四方に逃げ出す。
そんなのは、珍しくないでしょう。ないと考えるほうがおかしい!
また、そんな辺境まで逃げ出した人間を追っかけるほど中国の連中も暇じゃないと思う。
せいぜい少数の刺客を送り込むのがせいぜいでしょう。
送り込まれる刺客だって成功して帰っても戦国時代なんだし褒美が待っている確証も無いでしょうし、どこまで行きましたが見つかりませんでしたというか、それでだめなら色々手を尽くして途中で逃げ出すと思いますね。
それと、中国の中華思想ってなものがある。
有名な話しですが、清帝国の時、時の高官が、国際的な公席でこんな事を言っている。
“皇帝の恩を忘れて許可を得ずにかってに海外に出て行くものは、棄民である皇帝の保護を受ける資格はない。帝国は保護などしないから勝手にしてくれ”こんな意味のことをです。
このことは、2000年来の中国の伝統的な、儒教にうらずけられた考えなんです。
つまり、この考え方のために華僑の人たちは、本国の保護は受けられないのです。
マフィアが、元は相互扶助の組織であったように、元々本国でも地縁血縁で団結して助け合うならいが、ないとどうしようもないからさらに強くなったと見るべきです。
それより、私が、考えていることは、中国の国家的な性格なんですね。
中国って国は、アメリカに劣らない根っからの侵略国家なんですね。
分裂してる時は、外に面する国が、国力を高めようとして侵略に出る。
また統一したら統一したで、必ず外へ大規模侵略を行なうしね!
始皇帝から、中華人民共和国と名のる帝国まで一つの例外なしです。
そして、その上手なこと上手なこと、アメリカ以上でしょう。
そう言う国と付き合うんですから、慎重にならないほうがおかしいと思いますね。
中国人以上にそのことを知っている物もいないと思うし、そこから逃げた人たちなんだから。
人のすねの傷どうこうするつもりは、ないですから念のため、自分にも傷が有るし。
すいません調子に乗りすぎました。
変なことを、反省します。
読売新聞の記事ですが(著作権は・・・)
*************************************************************************
大阪府八尾市亀井、「久宝寺遺跡」の古墳内部で、古墳時代初頭(3世紀末ごろ)の割竹形木棺(わりたけがたもっかん)が見つかったと、府教委が23日発表した。ほぼ原形をとどめ、丸太をくりぬいて作った同型の棺としては国内最古級という。専門家は「木棺の実態を研究する上で非常に貴重な資料」と注目している。
木棺は長さ3・2メートル、幅四十センチ、厚さ5―6センチで、内部に数点の歯を確認。ふたの部分も完全な形で残っており、スギ科の高木・コウヤマキを使用、方墳(南北10・5メートル、東西12・5メートル、墳丘高1・7メートル)の中央部に納められていた。
周辺の溝から祭祀用の土器群や、木棺の被葬者とは別人が被葬されたと見られる土器製棺など5基が出土。同遺跡からは以前、丸木船に波よけ板が付いた精巧な「準構造船」が発掘されており、府教委文化財保護課は「大和(奈良)に通じる水運拠点の有力者が埋葬されたのでは」と推測。歯は2か所で見つかっていることから、「2人の人物が納められた可能性もある」としている。
*************************************************************************
これの年輪年代が分かれば面白いですね。
元の発言 [ Re: Title:大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土 ] お名前 [ おにりん@大阪 ] 日付 [ 8月24日(金)00時53分33秒 ]
>> 読売新聞の記事ですが(著作権は・・・)
>>
>>
よかった
>> これの年輪年代が分かれば面白いですね。
>>
>>
>>
>>
>>
まえから丸ごとの木棺がでれば上の意味で年代ばっちりと思っていたんですよ。
再利用はありえないですよね。
楽しみです。
元の発言 [ Re: Title:大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 8月24日(金)09時14分22秒 ]
>> >> >> 読売新聞の記事ですが(著作権は・・・)
>> >> 引用はオーケー。ちゃんと最後に意見がついているし。
>> >> #一応、結構勉強したから。
>> よかった
>> >> >> これの年輪年代が分かれば面白いですね。
>> >> コウヤマキなら、標準パターンできているはずだから、、
>> >> それに、木棺なら、
>> >> 1)廃材利用の可能性は少ない
>> >> 2)太さの面でも、樹皮近くまで使われている可能性大
>> >> で、年代ばっちりだと思いますがねー。
>> まえから丸ごとの木棺がでれば上の意味で年代ばっちりと思っていたんですよ。
>> 再利用はありえないですよね。
>> 楽しみです。
いつもやり込められているので、無理やりチャチャのいちゃもんを付けさせていただきます。
どの程度埋葬年代が、はっきりするかの条件
1.樹皮まで残っており冬以外に伐採されたものと確認できること。
理由
1.樹木の伐採は、必ず冬に行なわれる。
2.伐採したままの生木で作られるわけが無い。
3.せめて、喪狩りの期間中だけでも乾燥させて作るだろう。
4.それ程大きな木の用途は、宮殿の柱その他の部分、船の材料、棺など、家具などはあまり考えなくて良い。
5.ならば、伐採して乾燥しておいた物を選んで使用したと考えてもおかしくない。
6.その場合、権勢や勢力を誇るため長期間保存していた物を使う可能性が大
なんて、いちゃもんです。
でも、はっきり分かるといいですね!
元の発言 [ Re: いえ大いに教えていただきたいところです ] お名前 [ おにりん@大阪 ] 日付 [ 8月24日(金)01時12分50秒 ]
>>
>>
なるほどそうでしたか。
どうも様子がおかしいと思ったんですよ。
私はcgiでも書いてるのかと思いました。
実は本題のご教授いただきたいことはこれからなんです。
すいません。
おにりんさんは以前遊維さんとの論争の中で
***************************************
ちなみに、語幹内部における母音交替は、
a <-> O
i <-> u
(O <-> i)?
などがほとんどで、不安定な、o や e,i や二重母音で
あっただろう、E,I については存在しません。
***************************************
と言う内容の発言をされていますが、この最後の(O <-> i)?はなぜ括弧でくくって?なのでしょう。
ほとんどありえないということでしょうか。
もしありえるなら、どのようなケースがあったのでしょうか。
まだまだ分からないことがありますが、自分のなかで整理しながら少しずつ質問させていただいていいですか?
元の発言 [ Re: Title:大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 8月24日(金)12時40分16秒 ]
他の用途に使われたものを転用した場合、簡単に五十年ぐらいはずれてしまうでしょう。
それに比べればはるかに近い年代になると思います。
それと、よく知りませんが木棺の場合乾燥させる必要はあったのでしょうか。
私は祭祀の一環として、木を切り出すところから行った可能性すらあると思うんですが。
東国蔵の同向式二神二獣鏡(伝黄海道)をご存知のかたも少なくないと思います。
この鏡は保存状態のいい黒檀色の銅鏡で、鋳上がりも良好です。明瞭な三角縁を持ち、四乳で区画された内区には左右に朱鳥を従えた西王母と東王父が精妙に書き分けられており、上下には龍虎が配されています。鈕は連珠文を伴い、鈕孔は角度のせいでよく見えませんが扁平気味の長円形のように見えます。
三角縁神獣鏡との相違は外区で、三角縁の内側から雲形文、鋸歯文、櫛歯文となっており、これは上海博物館蔵の三角縁として知られる龍氏鏡と同じもののようです。鈕座の連珠文なども同じで、乳で四分される内区に西王母・東王父・龍・虎を配する点も同じですが、龍氏鏡の表現は画像石ふうの硬直的な画風で、楽浪三角縁のほうは日本の三角縁神獣鏡と同じのふくよかな表現、曲線を多用し流麗な印象を与えます。
つまり、上海の龍氏鏡と類似しつつも内区は正真正銘の神獣鏡です。三角縁神獣鏡に酷似していますが、その工作精度は明らかに上を行きます。
この鏡の製作地がどこかという問いに答えるのは難しいですが、出来のよさがら受ける印象は三国時代まで下らないもののように感じます。あまり話題に上らないのが不思議な鏡ではあります。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 8月20日(月)15時10分42秒 ]
>> イザナギイザナミは、人ではないという説も有るようですね。
,,,(^^;
神とは言うが,なんだか悪魔の手先か宇宙人みたいだ,
という風評もありますね。
あるいは破壊性を備えた神霊存在みたいな。
もちろん,基本的には,人ではなく,
「霊」ということです・・・難解ですけど(二霊群品の祖)。
この点については,
国生みにまつわる矛盾,
つまり生んだ果てに死(黄泉神)に取り憑かれるという事態や何かが,
人間にとって恐ろしいものや,
有り難くないものを惹起する存在のような印象を与えるからでしょう。
ただし,この点は,
聖書の原罪説や仏法の無明説などと通じる洞察を,
物語の行間に潜ませたもの,
と考えたほうが面白いでしょう。
救いになるという「桃子(もものみ)」なんかは,
もちろん道教とか,ネクターとか,甘露,生命の水,月の若水,
なんかを連想させますから,
人間社会の苦しみを超える体験(教え)の存在を,
暗示しているのでしょう。
元の発言 [ 勝山の資料bPについて ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 7月4日(水)23時16分20秒 ]
>> 勝山の年輪年代測定資料bPに関する毎日新聞の2001年5月30日「紫外線による劣化が切断面にない」という報道について、この「切断面」が何を意味するのか橿考研に問い合わせ、ご回答を頂きましたので報告します。
>> 橿考研の見解は「木材の表面には長期間外部に露出していた際に観察されるような、紫外線によって生じる目やせなどの劣化痕跡は認められない」というものです。したがって「切断面にない」は誤報で、なぜ報道に「切断面」という言葉が入ったか不明とのことです。
>> 以上の回答を保存科学研究室の今津室長から頂戴いたしました。この場を借りて御礼申し上げます。
>> 紫外線によって生じる目やせと言えば、我々もよく目にするところの、紫外線吸収物質リグニンの分解と風雨に晒されることの相乗効果で木目が浮き出してくる(木目でないところがへこむ)状態でありますが、その期間についてどう見積もるべきか現状の私も材料を持ち合わせません。
>> 結論としては、橿考研の「木材の伐採から製材、加工にかかる時間幅、および、使用から廃棄に至る経緯やその間の時間幅をも考慮する必要があることは言うまでもない。残念ながら、現段階ではこれらの時間幅を明らかにするてだてはないが、それを極端に長く見積もる必要はないものと考えられる。」に行き着くものと思います。
*勝山の年輪年代測定資料bPの測定値が正しかったと仮定して、その発表の仕方に問題があると思います。
ホケノ山の周濠部から発見された布留0式土器の時は
「周濠底から少し浮いた状態で布留0式土器が面的に分布しているのが見つかっているため、築造年代は布留0式期(纏向3式後)より前、すなわち、庄内期であることは確定」
と言う発表があったように聞いています。
勝山の場合は50cmも浮いていたのにどうして古墳築造直後という事になるのでしょう。
発表の仕方に何か恣意的なものを感じてしまうんですが。
おなじみ馬淵・平尾論文の鉛同位体比分析結果を見ると、]軸:Pb207/208×Y軸:Pb206/208のグラフ上に古墳出土の後漢式鏡がプロットされた範囲の中に、三角縁神獣鏡及び古墳出土[イ方]製鏡のエリアがすっぽり収まっていることが観察できます。
これが、三角縁神獣鏡らに用いられた素材が他の後漢式鏡と同じグループに属するといわれる理由ですが、すこし見方を変えてみましょう。
後漢式鏡がプロットされた範囲の広がりは、三角縁神獣鏡の広がりより広い−三角縁神獣鏡の広がりは狭い−わけです。
特定の比較的狭い範囲に三角縁神獣鏡がプロットされるということは、銅等素材の産出地にばらつきが少ない/ないということですから、これは文様からの分析結果−特定の一部工房で集中的に製作された:と整合性があります。また、銅素材を産する特定地域と三角縁神獣鏡の製作地が特定の関係を持っていたということになります。
これを、特定地域の銅のみが輸入されて三角縁神獣鏡及び古墳出土[イ方]製鏡らが製作されたと考えるのか、銅産地と三角縁神獣鏡の製作地は近傍にあって三角縁神獣鏡に随伴して[イ方]製鏡や銅鏃用のインゴットやスクラップ素材が大量に招来されたと考えるかは解釈によりますが、後者がより自然のように思います。
前者の場合は、三角縁神獣鏡以外の後漢式鏡は自由な交易で招来されていて生産地にばらつきがあるのに、銅素材はというと同じく自由な交易で特定産地のもののみが招来されたという状況は想定しにくいと思われます。よって、この状況からは、その特定地域を領域に含む中国王朝との特殊かつ緊密な関係が抽出されてきます。もちろん後者は三角縁=魏鏡を支持します。
いづれにしても呉鏡の素材が異質であることを鑑みれば、当時の日本列島と魏の関係が浮き彫りになってくることは否定しようがないでしょう。
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡銅素材考 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月25日(土)03時37分37秒 ]
>>
>>
>>
# 赤烏元年鏡を含む環状乳数面ほか呉鏡と考えられるものが三角縁神獣鏡と異なる分布域を示しています。
これらは湖南、江西及び安徽省南端部の鉛に近いものと思われ、呉領域の製造であることを裏付けています。
元の発言 [ Re: Title:大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 8月24日(金)12時51分46秒 ]
どうも、はじめまして。池ちゃんです。
>> 私は祭祀の一環として、木を切り出すところから行った可能性すらあると思うんですが。
#御柱みたいにでしょうか?
元の発言 [ Re: Title:大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ 池ちゃん@諏訪(大阪か・・・いいなぁ・・・) ] 日付 [ 8月25日(土)15時15分39秒 ]
>> どうも、はじめまして。池ちゃんです。
はじめまして
>> >> 私は祭祀の一環として、木を切り出すところから行った可能性すらあると思うんですが。
>> #御柱みたいにでしょうか?
単なるこの場の思いつきですが。
現代日本人のメンタリティーでは、あらかじめ準備してあるというのも抵抗があるかなと思いまして。
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 8月20日(月)13時01分40秒 ]
>> 見損なっちゃった!!
>> 再放送の予定を調べなくっちゃ!
>> 知っているなら教えてください。
しらべた限りではやらないようですね。
もったいないです。
元の発言 [ Re: Title:大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 8月24日(金)12時51分46秒 ]
>> 私は祭祀の一環として、木を切り出すところから行った可能性すらあると思うんですが。
生木をそのまま使用する、という事でしょうか?
生木をそのまま製材した木材には、次のような特徴があり、典型的な粗悪材です。
割れ易い/ねじれ易い/反り易い/色艶が悪い/カビ易い/腐り易い/虫が付き易い
幾ら木棺の場合とはいえ、このような粗悪な材を使用したとは考えにくいです。
昔ながらの伝統的な木の乾燥方法には幾つかあります。
・伐り旬 伐採時期の事です。
木は春から夏にかけて水分や養分を根から盛んに吸い上げて活発に生長しています。
この時期に伐った木は水分や養分が多く、乾燥しにくくカビ易く虫が付き易いです。
従って、木の活動が停止している秋から冬が「伐り旬」です。
・葉枯らし
伐採した木を枝葉樹皮をつけたままで2週間〜半年ほど放置する技法です。
枝葉樹皮からの蒸散作用を利用して乾燥を促進します。
この時辺材部のでんぷん含有量も著しく減少し、カビや虫に対する耐性が向上します。
軽くなり運搬し易い/割れにくい/色艶が良くなる/カビ・虫に強くなる
といった効果があります。
・水中貯木
水中貯木は乾燥の前処理としておこなわれます。
水中のバクテリアなどにより、木の細胞の通道組織の壁孔などが破壊され、
水分の透過性が上がり、結果として木材が乾燥しやすくなります。
乾燥の促進の他、大型の部材でも狂いや乾燥割れが少なく、
加工の仕上がり精度や歩留まりが良くなるとされています。
上記の技法を駆使して数年〜10年以上乾燥させた木でも、板や柱に挽くと
そこから更に乾燥が進み、収縮して捩じれや反りを生じます。
そこで一度大きめに製材して、さらに乾燥させた後、曲がりを修正挽きします。
古代に、こういった乾燥技法のどこまでが存在していたかは分かりませんが、
こういった乾燥技法がなかったならば、乾燥期間はさらに長かったものと考えます。
現在では乾燥期間を短縮できる人工乾燥が主流になってしまっていますが、
今でも伊勢神宮の遷宮などでは伝統的手法が守られています。
遷宮の8年前から貯蔵池に運ばれて、水中貯蔵/乾燥/製材されるのだそうです。
再利用についても伊勢神宮の遷宮が参考になるかと思います。
御正殿の棟持柱は御正殿で20年を経てから宇治橋の大鳥居になるそうです。
大鳥居として20年経た後、全国の神社に下げ渡されて、更に使われるそうです。
各神社では、伐採時期から数えて実に50年近く経ってからの使用になります。
年輪年代では伐採時期の絶対年代は正確に分かるようですが、
使用時期の推定にあたってはかなりの注意を要するものと推察いたします。
元の発言 [ 勝山の資料bPについて ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 7月4日(水)23時16分20秒 ]
水銀朱の効果についての研究すらないのでしょうか。
元の発言 [ Re: Title:大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 8月26日(日)16時34分57秒 ]
>> >> 私は祭祀の一環として、木を切り出すところから行った可能性すらあると思うんですが。
>> 生木をそのまま使用する、という事でしょうか?
>> 生木をそのまま製材した木材には、次のような特徴があり、典型的な粗悪材です。
>> 割れ易い/ねじれ易い/反り易い/色艶が悪い/カビ易い/腐り易い/虫が付き易い
>> 幾ら木棺の場合とはいえ、このような粗悪な材を使用したとは考えにくいです。
製材すればそうでしょうが、丸木のまま使用する場合はどうなんでしょう。
さらに湿った地中で使用する場合、乾燥による変型ひび割れは問題にならないのでは?
しかも埋めてしまうわけですから、問題になるのは切り出してから埋葬するまで。
その間乾燥を防げばよいのでは。
密閉した土中ですから、虫食いは心配いりませんし。
私は自分の葬儀のための丸太を長々と乾燥していたとは思えないのですが。
仮にそのようなことがあったとしても、当時の平均的一世代を超える期間ではあり得ないと思います。
割竹形木棺ですから、再利用はなおさらあり得ないでしょう。
小生、考古学は得意ではないが。
天理市柳本町の前方後円墳「黒塚古墳」。
この古墳は、それぞれの鏡の位置と位取りが明確に判明したことである。
他の遺跡では、必ずしも被葬者の遺体の何処から出土したか判明していない。
「黒塚古墳」は三角縁神獣鏡31面が出土し、画文帯神獣鏡との関係が明確になった。
三角縁神獣鏡31面は棺の回りに置かれており、棺内には一枚も入れられていない。
棺内からは、三角縁神獣鏡よりやや古い画文帯神獣鏡一面が出土した。
画文帯神獣鏡は、棺外を守るように配列された三角縁神獣鏡とは区別して扱われていることは明らかである。
また棺外であるが、朱と漆を施した板の上に置き、棺の北側の外に立てかけていたと思われる波文帯盤龍鏡(17号鏡)も区別すべきである。
以上から、三角縁神獣鏡はそれほど珍重されたものとは考えられず、魏朝から下賜されたものではないと考えるのが筋ではないか。
したがって、三角縁神獣鏡は国産と決めてもよいのではないか?
「黒塚古墳」の発掘で、現場の実務担当者がほとんど「三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない。」という見解を打ち出していると聞く。
とすると、卑弥呼の鏡は九州に集中してる漢式鏡のどれかであるといってよいのでは?
魏志倭人伝との関連でいえばこの遺跡には(鏡と)絹と矛が同時に出土しない。
その点からも「卑弥呼の時代」ではない。
あとは、九州の考古学者が編年の問題が残されるだけではないだろうか?
元の発言 [ 三角縁神獣鏡は国産(黒塚古墳) ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 8月27日(月)08時49分36秒 ]
>> 魏志倭人伝との関連でいえばこの遺跡には(鏡と)絹と矛が同時に出土しない。
黒塚から絹が見つかっていることは常識はありませんか。
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡は国産(黒塚古墳) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月27日(月)09時23分57秒 ]
>>
これがわからない。
だれが、2世紀以前と決めたのですか?
ところで、卑弥呼がもらった鏡は、100枚。
なのに、三角縁神獣鏡は、かれこれ500枚位も出土しているのは?
卑弥呼以外に、“いつ”、“誰から”、“誰に”渡されたのかは、何かの裏付けがあるのでしょうか?
元の発言 [ Re: Title:大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 8月25日(土)19時13分58秒 ]
>> >> どうも、はじめまして。池ちゃんです。
>> はじめまして
>> >> >> 私は祭祀の一環として、木を切り出すところから行った可能性すらあると思うんですが。
>> >> #御柱みたいにでしょうか?
>> 単なるこの場の思いつきですが。
>> 現代日本人のメンタリティーでは、あらかじめ準備してあるというのも抵抗があるかなと思いまして。
儀礼としてならありえますよね。
そして喪狩りの間に干したりして使うってのも考えられる。
ただ、寿墓的な考え方が、無いとも思えませんし難しいですね
もう一つ、唐津へ旅行した時に、
双すい古墳を見てきたんですが、
舟形の木棺が使われていたようだと書いてあったんです。
置かれた台座を調べて分かったらしんですが。で、いくつ
かの記事にであったら舟形って結構有るようですね。
海の民とか水運関係に近いようなのが。
で、此所まで書くときずいた人もいると思うけど、もしかしてこの木棺の幾つかは、本ものの船なんじゃないかって?
結構世界に有りますよね、船に乗せて葬る例って!
極端な例で言えば、バイキングがそうだし。
南米にも有ったような、エジプトでも船が副葬されているしこれは少し違うかもしれないけど。
で、先に書いた通り、船を作るつもりで多数用意された木材の中から一本なんてのは、おかしくないと思いませんか?
とはいえ、これにも穴が丸木舟なら干す必要はあまり無いといえるのも確かなんですね(勿論干したほうが良いのは確かなんですが)
さて結果は?
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡は国産(黒塚古墳) ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 8月27日(月)11時42分44秒 ]
>> ところで、卑弥呼がもらった鏡は、100枚。
>> なのに、三角縁神獣鏡は、かれこれ500枚位も出土しているのは?
何百枚も出土している所謂「舶載」三角縁神獣鏡の大部分が、卑弥呼が親魏倭王に冊封されたときに下賜された銅鏡百枚には含まれていなかったことは、量の多寡を別にしても、もはや常識でしょう。
所謂「舶載」三角縁神獣鏡のうち、紀年銘を有する景初三年・正始元年鏡は、編年研究の成果から三角縁神獣鏡の中でも最初期のものと考えられています。景初三年十二月の詔によって卑弥呼に下賜された銅鏡百枚は正始元年に倭国に齎されています。つまり、この銅鏡百枚の中に三角縁神獣鏡が含まれていたとしても、その可能性があるのは景初三年・正始元年銘鏡と同時期のごく初期タイプのみということになります。
>> 卑弥呼以外に、“いつ”、“誰から”、“誰に”渡されたのかは、何かの裏付けがあるのでしょうか?
「九州に集中してる漢式鏡」には「“いつ”、“誰から”、“誰に”渡されたのかは、何かの裏付けがあるのでしょうか?」
元の発言 [ Re: NHK特集『日本人はるかな旅』と上代日本史観 ] お名前 [ ピクアポポヂアミ ] 日付 [ 8月20日(月)10時47分07秒 ]
>> 次週は"年輪は歴史年表(光谷 拓実(奈良国立文化財研究所 発掘技術研究室長))"。
>> 見逃せません。
今週は特に見るべきものはなかった。
光谷さんは最近白頭山の噴火年代の推定に取り組んでいて、これをきっかけに、東アジア地域一帯に手を広げようとしているらしい。
このユーラシア大陸東端の年輪年代学の層が厚くなるのは好ましいことだと思う。
偏見かも知れないが、中国人はこの研究に向いているのでは?
日本でも対立意見が出てくるぐらい、層が厚くならないと、学問としては弱いと考えます。
元の発言 [ Re: Title:大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 8月26日(日)20時12分20秒 ]
>> 私は自分の葬儀のための丸太を長々と乾燥していたとは思えないのですが。
東南アジアのほうで,
生きているうちから自分の棺桶を作って,
床下だかに置いておく風習があるとか,
テレビで見た覚えがあります。
たしか木棺で,高床式の住居だったような・・・。
以上,うろ覚えですいません。
--
こんばんは。ハヤシライス改め、郭公です。久しぶりに投稿します。手前味噌になってもいけないので、みなさんのご批判とご教示をいただければありがたいです。ご賛同いただければなおありがたいです。
津に臨んで捜露する
・皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
この文の読み下しにはまだ定説がない。私は、
・皆、津に臨んで、伝送の文書賜遺の物を捜露し、女王に詣り差錯するを得ず。
と読むのがいいのではないかと思う。
津とは船着場のことだから、津に臨むとは、入港する際に、上陸する際にと考えられる。
捜露するとは、捜し出し露わにする、捜してはっきりさせると言うことであろうか。
皆とは誰のことか。港で待つ側の者たちであるのか、船内の者たちであるのか。
賜遺とは賜い遣わす、受け取るのは倭の女王であるから、与える側は魏帝と言うことになる。その役目を負った使者一行は責任重大である。そのように考えると、「皆」とは、船内の使者一行を指すと考えるのが穏当ではあるまいか。伊都国の港で検閲する側を指しているのではない。そもそも、検閲する立場でもなかったのではないか。
したがって意味としては、私は下記のように考える。
・「伊都国へ上陸する際、船中の誰もが、魏帝から伝送された文書や賜遺の物を漏れのないように探し明らかにした。倭の女王卑弥呼のもとへ行き、文書と物とに齟齬があってはならないからだ」
この一文からいくつかのことがわかる。
(一)
まず、伊都国へは末盧国から陸行したのではなく、伊都国まで船で行ったことがわかる。つまり、末盧国から伊都国への陸行の記事は魏使の旅程ではない。
「魏志倭人伝」に書かれている伊都国までの道のりは、先行する「魏略」にも類似の文章がある。魏志倭人伝が魏略を襲ったか、魏志倭人伝、魏略ともにそれに先行する史料を襲ったかのいずれかであろう。
誰であるかは不明だが、末盧国から伊都国へ陸行したものがおり、それが記録として残っていたと言うことだ。しかし、魏使は伊都国へは直接船で入港していることを示している。
(二)
年表によると、魏が成ったのは西暦220年である。倭国から魏への初めての使者は景初三年(239年、あるいは景初二年)である。じつに、19年後の朝貢である。これは、遼東、帯方郡に公孫氏が半ば独立状態で跋扈していたことによる。その公孫氏の滅亡を期に魏へ使者を派遣したのである。
「魏志倭人伝」に書かれている魏との交渉は、この景初三年(239年)から正始八年(247年)に張政が来倭し帰国するところまで書かれている。ただし、張政がいつ帰国したのかは不明であるが、魏使は正始元年(240年)と正始八年(247年)の二度来倭していることになるが、冒頭の記事は正始元年の梯儁一行の来倭と対応する。
伊都国で上陸したと言うことは、倭の女王卑弥呼は伊都国から陸行できるところにいたことを示している。
「魏志倭人伝」には、伊都国のあとに、
・東南、至奴國百里。官曰シ馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。
とあるが、この奴国はいまの福岡県春日市一帯と考える。須玖岡本遺跡一帯である。続けて、
・東行、至不彌國、百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
この不彌国はいまの福岡県宇美町一帯と考える。最近発掘された光正寺古墳を有する町である。服部四郎は不弥は于弥の誤記ではないかと言っているが、私もそれに従う。
>当時の発音では、
> 宇美 umi
> 不彌 pumi
>であるから、いかに外国人である魏の使節たちと言っても、umiをpumiと聞き誤るはずはない。そこで私は、「倭人伝」の原本には「于彌」と書かれていたものが「不彌」と書き誤られたのではないかと考える。
・自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、畏憚之、常治伊都國(女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す)
この記事と合わせて考えると、女王国は伊都国の南にあり、伊都国から陸行できる所にあることになる。
しかし、「魏志倭人伝」には、先に上げた不弥国に続いて、
・南至、投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至、邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳テイ、可七萬餘戸。
とある。邪馬台国が、女王の都であると書かれている。
(ここで断っておくと、現存する数種の『三国志、魏書、烏丸鮮卑東夷伝、倭人条』通称「魏志倭人伝」には、上記引用のように邪馬「臺」国ではなく、邪馬「壹」国と書かれているが、これは邪馬「臺」国の誤記とする説に従う。また、「臺」を略して「台」と表記する)
しかし、この記事は奇妙である。伊都国から東南の奴国、そこから東の不弥国へ陸行し、不弥国からさらに水行している。当時の海岸線は現在よりもっと内陸にあったことが知られているが、それでもいまの博多駅あたりである。
まず、邪馬台国が女王卑弥呼の住んでいた所とするならば、なぜ、伊都国から陸行して奴国、不弥国と立ち寄らなければならなかったのか、さらに、不弥国から水行しなければならないのか。伊都国から水行してもいいのである。とすれば、なぜ伊都国に上陸する際に、「捜露」したのか。同じ船で水行するのなら、最終的に上陸する港で「捜露」すればよいのである。また、仮にここで「捜露」し、さらに水行すると言うことは、違う船に積み替えた、つまり船を替えたことを意味している。何故なのか? 当時の造船技術は倭国の方が進んでいたと言うわけでもないであろう。
また、不弥国までは里で表記されているのに対し、この投馬国、邪馬台国への距離は日数表記になっている。この投馬国、邪馬台国への表記と、不弥国までの表記とは魏志倭人伝が参考にした史料そのものが異なっていたとする説があるが、その通りだと思う。もともと、別に存在していた投馬国、邪馬台国までの記事を、「魏志倭人伝」は不弥国の後ろに付加したと私は考える。
そのように考えると、この投馬国、邪馬台国への日数表記はどこを起点にしているのかと言う問題が残る。私は、伊都国ではないかと思うが、これはもちろん推量である。
「魏志倭人伝」はあくまでも、いくつかの史料によりながら結果として各国の位置関係を示そうとしたのである。魏使一行の報告書に基づく旅程ではない。
・自女王國以北、其戸數道里、可得略載、其餘旁國、遠絶、不可得詳。(女王国より以北、その戸数・道理は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず)
不弥国までは、戸数も道里(里数として)が書かれている。不弥国から水行したとは考えられない投馬国、邪馬台国への記事が存在しなくてもこの記事は成り立つ。
つまり、女王国は、不弥国の南にしかも陸行できるところにあったのではないかとの推測が導かれる。具体的には、私は、大宰府あたりではないかと考えるに至っている。
もちろんこの考えは、「魏志倭人伝」の記述と矛盾する。邪馬台国は、不弥国から南へ水行二十日で投馬国へ行き、さらにそこから南へ水行十日、陸行一月というどこだかわからないところにあるのだから。
つまり、本当に邪馬台国=倭の女王卑弥呼のいる女王国なのかどうか? 私は別の国ではないかと考えている。「魏志倭人伝」は邪馬台国ではなく、女王国と言う言葉で考えた方がはるかにわかりやすい位置関係を示しているのである。
それでは、なぜ「魏志倭人伝」は、「邪馬壹國女王之所都」と書いたのか?
ここがわからないところである。
さて、私は、大宰府あたりが女王国であろうと書いたが、それでも問題がないわけではない。ひとつには、倭の女王卑弥呼の墓である。私は、この卑弥呼の墓を「平原1号墓」と考えている。被葬者は女性であると考えられること、三世紀と考えられること、副葬品から王墓と考えられることに拠っている。ただ、この墓は伊都国にある。卑弥呼の墓がなぜ女王国になく、伊都国にあるのか?
もちろん当時の伊都国王が女王であり、その墓が平原1号墓と考えることはできるが、いまのところこの平原1号墓以上の墓が発掘されていないのである。
これにもまたうまい考えが見出せずにいる。
元の発言 [ Re: 勝山の資料bPについて ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月6日(金)19時06分00秒 ]
>> 発表の仕方に何か恣意的なものを感じてしまうんですが。
それは,土器の編年が疑われるとか,
年輪年代測定が信頼できないとか,
古墳時代についての事実を隠しているとか,
そういうような疑いなのでしょうか。
元の発言 [ Re: 大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 8月27日(月)17時05分37秒 ]
>> >> 私は自分の葬儀のための丸太を長々と乾燥していたとは思えないのですが。
>>
>> 東南アジアのほうで,
>> 生きているうちから自分の棺桶を作って,
>> 床下だかに置いておく風習があるとか,
>> テレビで見た覚えがあります。
>> たしか木棺で,高床式の住居だったような・・・。
>>
>> 以上,うろ覚えですいません。
>>
>> --
中国の風習から言えば、子供が親に生前に立派な棺桶を贈るのが、親孝行だった出すね!
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡は国産(黒塚古墳) ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 8月27日(月)11時42分44秒 ]
>> ところで、卑弥呼がもらった鏡は、100枚。
>> なのに、三角縁神獣鏡は、かれこれ500枚位も出土しているのは?
この「500枚位」という話を結構あちこちで耳にしますが、こういういい加減な情報を本に書いている人でもいるのかな。
これはほとんどの人が国産と言ってるボウ製鏡も含む数字だから、これを平気で公言しているとしたらかなり悪質っていうか、もう確信犯。
もしそういう本があるなら、ほかの書いてあることも信用しないのが一番でしょうね。きっとウソ話がテンコ盛りな気がする。
元の発言 [ Re: 大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 8月27日(月)17時44分47秒 ]
>> 中国の風習から言えば、子供が親に生前に立派な棺桶を贈るのが、親孝行だった出すね!
だとしても一世代分は超えませんよね。
久々に黒塚の関係のページをさがしていたらとんでもない物を
発見した。
梅乃宿 黒塚三角縁神獣鏡
■原料米、山田錦・赤米■精米歩合60%
■アルコール度数14.5度■酒度―4■酸度1.5
この蔵本の主人は、なにものなんだろう?
元の発言 [ 三角縁神獣鏡は国産(黒塚古墳) ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 8月27日(月)08時49分36秒 ]
>> 小生、考古学は得意ではないが。
私も得意ではありませんが、龍サンは、あまりに酷い本しか読まれていないようですね。
>> 天理市柳本町の前方後円墳「黒塚古墳」。
(中略)
>> 三角縁神獣鏡31面は棺の回りに置かれており、棺内には一枚も入れられていない。
>> 棺内からは、三角縁神獣鏡よりやや古い画文帯神獣鏡一面が出土した。
>> 画文帯神獣鏡は、棺外を守るように配列された三角縁神獣鏡とは区別して扱われていることは明らかである。
>> また棺外であるが、朱と漆を施した板の上に置き、棺の北側の外に立てかけていたと思われる波文帯盤龍鏡(17号鏡)も区別すべきである。
>> 以上から、三角縁神獣鏡はそれほど珍重されたものとは考えられず、魏朝から下賜されたものではないと考えるのが筋ではないか。
見方を変えれば、風景は変わってきます。
少なくとも、黒塚の棺内にあった小振りの画文帯神獣鏡では、辟邪の用はなさない。つまり、あの画文帯を棺外に並べてもしょうがないわけです。じゃあ、画文帯は何故副葬されたか。多分、死者の日用品としてでしょう。
これに対し、9寸を超える三角縁神獣鏡は、棺外に並べることに意味があった。つまり、その神秘的な効用を期待して副葬された。
両鏡の副葬位置の違いは、副葬する目的の違いによるのであって、珍重されたかどうかとは別の次元の問題でしょう。
だからといって、三角縁神獣鏡は特別に珍重されていたなんて主張しているわけではありませんよ。(<念のため)
卑弥呼が親魏倭王に冊封されたときに、特に下賜された品々は以下のとおり。
紺地句文錦三匹
細班華kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]五張
白絹五十匹
金八兩
五尺刀二口
銅鏡百枚
眞珠・鉛丹各五十斤
銅鏡百枚のうちに初期の三角縁神獣鏡が含まれていたかどうかはさておきます。他の下賜品と比べてみれば、銅鏡百枚の内の一枚一枚の鏡がどの程度のものかは、おおよそ見当がつくのではないでしょうか。少なくとも、古今にまれな名品という程のものではなかったことは確かでしょう。
>> したがって、三角縁神獣鏡は国産と決めてもよいのではないか?
>> 「黒塚古墳」の発掘で、現場の実務担当者がほとんど「三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない。」という見解を打ち出していると聞く。
>> とすると、卑弥呼の鏡は九州に集中してる漢式鏡のどれかであるといってよいのでは?
#おにりんさんのレスとやや重なりますが...
どの鏡のことですか?弥生時代中期後半から後期前半ぐらいの遺跡から大量に出てくる鏡のことならとても無理ですが。この辺の時期の鏡種の変遷は中国の紀元前後の鏡種の変遷と一致していますから、ほぼタイムラグなしに中国で流布している鏡が北部九州に入っていると考えざるを得ない。そして、これよりも後の時期の鏡となると、出土例は激減していく。
>> 魏志倭人伝との関連でいえばこの遺跡には(鏡と)絹と矛が同時に出土しない。
絹についてはALEXさんのレスがありますように、実際に出土しています。で、矛がなかったとも言い切れないんですよね。大量の刀剣類が出土していますが、当然ながら酷く錆付いており、まとめて配置されているところでは互いにくっつきあって塊をなしています。これらの中に矛があるかもしれないのです。
>> その点からも「卑弥呼の時代」ではない。
ある一つの墳墓に副葬されていなかったから、その時代に矛や絹が存在しなかったというのは、あまりに短絡的ではないでしょうか?
元の発言 [ Re: 大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 8月27日(月)18時47分58秒 ]
>> >> 中国の風習から言えば、子供が親に生前に立派な棺桶を贈るのが、親孝行だった出すね!
>> だとしても一世代分は超えませんよね。
#こんばんわ。
生前から棺を造っておくような風習って日本にあったんでしょうかね?
皆さん東南アジアとか中国とか例に出していますけど
肝腎の日本ではどうなんでしょう?
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡は国産(黒塚古墳) ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 8月27日(月)11時42分44秒 ]
こんばんわ。はじめまして。
#棺の中にあったか無かったかで、国産・舶来と決められるものなのでしょうか?
#東遷説の立場から申しますが
画紋帯そのものに国産が含まれている可能性は無いでしょうか?
卑弥呼の時代ではありませんが、この時代より前に鋳造していたと思われる遺跡が九州からも発見されています。
こういった技術が畿内で発達したとは考えられないでしょうか?
>> ところで、卑弥呼がもらった鏡は、100枚。
>> なのに、三角縁神獣鏡は、かれこれ500枚位も出土しているのは?
>> 卑弥呼以外に、“いつ”、“誰から”、“誰に”渡されたのかは、何かの裏付けがあるのでしょうか?
#ふと思ったことですが、100枚きっかりという漢式の銅鏡はあるのでしょうか?
元の発言 [ Re: Title:大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 8月27日(月)12時41分50秒 ]
馬頭鬼さん今晩は、由です。
>> で、先に書いた通り、船を作るつもりで多数用意された木材の中から一本なんてのは、おかしくないと思いませんか?
これ、私も考えました。
でも、この当時の船の材料はクスノキが主流ですよね。
木棺はコウヤマキですから樹種が合わない。
船の材料からの転用は、多分違うだろうなって思います。
元の発言 [ Re: Title:大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 8月26日(日)20時12分20秒 ]
ピクポポデミさん 今晩は、由です。
まず一言お断りしておきます。
私は、生木をそのまま使用するという事は考えにくい、とは思っていますが、
まったくあり得ない、とまでは思っていません。
現に、諏訪大社の御柱という実例もある事ですし・・・。
> 製材すればそうでしょうが、丸木のまま使用する場合はどうなんでしょう。
背割りという技法があります。丸太に縦に芯まで割りを入れる技法です。
背割りの部分に割れや歪みを集中させ、他の部分が歪む/割れる事を防ぎます。
この技法を応用すれば、比較的未乾燥の状態でも、縦に二つに割った丸太の芯材部分を
十分に早く(乾燥割れが生じる前に)くり抜けば、割れは防げるかも知れません。
> さらに湿った地中で使用する場合、乾燥による変型ひび割れは問題にならないのでは?
> しかも埋めてしまうわけですから、問題になるのは切り出してから埋葬するまで。
> その間乾燥を防げばよいのでは。
> 密閉した土中ですから、虫食いは心配いりませんし。
合理的に考えれば、全くその通りだと思います。
ですが合理的に考えれば、何もコウヤマキではなくても、
当時 船の材料としてポピュラーだったクスノキでも良さそうに思えます。
更には、何も木棺である必要もありません。
木棺の材料としてコウヤマキを選んだところに、当時の人々の心情が現れているように思います。
コウヤマキの特徴は、水や湿気に大変強く材の色がいつまでも変わらず腐りにくい事です。
わざわざこういう特徴を持つ材料を選んだという事は、当時の人々は、
木棺が湿気の多い場所で長持ちする事を気にかけていた、と思えるのです。
そういう人々が、生木の状態で木棺を加工したとは、ちょっと考えにくいです。
コウヤマキの特徴を最大に生かすために十分に乾燥した材を使用した、という方が考え易いです。
> 私は自分の葬儀のための丸太を長々と乾燥していたとは思えないのですが。
> 仮にそのようなことがあったとしても、当時の平均的一世代を超える期間ではあり得ないと思います。
これは、私には分かりません。
> 割竹形木棺ですから、再利用はなおさらあり得ないでしょう。
私が考えた再利用とは木棺からの再利用ではなく、何か別の用途から木棺への再利用です。例えば・・・、
・王族に赤ん坊が生まれて何年かを無事に生き延びると、
祝いと感謝の印として、コウヤマキの大木を切り倒して祭儀場に立てる。
・本人が死んだ時にはその柱を倒して木棺やその他の祭具を作る。
といったような具合です。
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡は国産(黒塚古墳) ] お名前 [ 蛟児 ] 日付 [ 8月27日(月)19時37分59秒 ]
天理市柳本町の前方後円墳「黒塚古墳」の真西に鏡作神社が鎮座まします。
鏡作神社の御神宝(神獣鏡)は崇神天皇の御代に初めて試鋳されたと社伝に記載されています。
この事を抜きに生産地論争は無意味ではないでしょうか。
三角縁神獣鏡のいくつかが舶来鏡だったにしても、77種類にも及ぶ三角縁神獣鏡がある内の大部分は近畿地方に沢山ある鏡作神社で作ったと考えるのが妥当だと思います。
それぞれの鏡作神社で独自の工夫を加えて作ったのでしょう。
よく特注されたから数が多いなどという人がいますが、短期間の内に大量に製作されたものならこのように多種な鏡が作られる事は考え難いですね。
日本でも間違いなく鏡は作られていたのですから、一番数多く見つかる鏡は日本で作られていたと考えるのが妥当です。
黒塚古墳には真西にある鏡作神社に縁のある人が葬られているのでしょうね。
だから31枚もの三角縁鏡が副葬されたのでしょう。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月5日(木)19時54分35秒 ]
>> おにりんさんの癖ですから、そこは。
#分かっちゃいるけど・・・・・。§^。^§
>> >> #十分な根拠を挙げて可能性ありとする学者は少なくありません。
#方形周溝墓を含む単独厚葬、鏡など青銅祭器の多量副葬は北部九州で早くから行われていたなどですネ。
#東遷が五世紀だと、卑弥呼より後ですか。
元の発言 [ 三角縁神獣鏡は国産(黒塚古墳) ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 8月27日(月)08時49分36秒 ]
>> 小生、考古学は得意ではないが。
と言いつつ果敢に考古学ねたに挑戦し、孤軍奮闘ているかまくら龍さん、がんばってくださいね。
>> 以上から、三角縁神獣鏡はそれほど珍重されたものとは考えられず、魏朝から下賜されたものではないと考えるのが筋ではないか。
#私は「三角縁は葬儀の花輪だ」と思っています。
陳葬儀社が仕掛けて、ブームを作った。
僕は倭鏡ではないかと思っているのですが、魏鏡とした場合、黒塚の扱いを考えて
これは魏から貰った鏡なのか?それとも買った鏡なのか、どちらなのでしょう?
黒塚の配置が特殊であると言われればそれまですが、どうもあまり価値のないよう
な配置としか言えないように思うんですが。
魏鏡であっても、買った可能性もあるわけでしょう。もしくは、別の人物(皇帝以外)
から貰ったんど、そうすると卑弥呼とは何も関係がなくなるのではないですか?
魏鏡であろうが倭鏡であろうが、意味がないというか、、、
元の発言 [ 三角縁神獣鏡の価値 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 8月27日(月)23時26分43秒 ]
>> 黒塚の配置が特殊であると言われればそれまですが、どうもあまり価値のないよう
>> な配置としか言えないように思うんですが。
# それは「湯たんぽよりも氷嚢の方が価値がある!」みたいな論理と違いますか?現代のわれわれの価値観を持ち込んで古代を解釈することには無理があります。
神仙瑞獣の図柄の凸面鏡がどういう目的で副葬されるかという理由を当時の中国の書物を通じて探ってみた限りでは、9寸の鏡の破邪機能を生かすのは矢張りあの配置になるであろうと思います。
>> 魏鏡であっても、買った可能性もあるわけでしょう。もしくは、別の人物(皇帝以外)
>> から貰ったんど、そうすると卑弥呼とは何も関係がなくなるのではないですか?
# 魏と商取引したなら、国どうしも国交があったんではないですか?
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡の価値 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 8月27日(月)23時44分26秒 ]
>> # それは「湯たんぽよりも氷嚢の方が価値がある!」みたいな論理と違いますか?現代のわれわれの価値観を持ち込んで古代を解釈することには無理があります。
それはそうです。
>> 神仙瑞獣の図柄の凸面鏡がどういう目的で副葬されるかという理由を当時の中国の書物を通じて探ってみた限りでは、9寸の鏡の破邪機能を生かすのは矢張りあの配置になるであろうと思います。
破邪機能を生かすのはそうかもしれません。
でも、皇帝からもらった鏡をそのように使うのかな?
破邪用の鏡だったのではないですか?
>> # 魏と商取引したなら、国どうしも国交があったんではないですか?
北朝鮮の松茸はたくさんありますが、国交はないです。
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られた ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月28日(火)01時02分43秒 ]
>>
>>
でも銅の鏡1トンくらいかかえてきた中国人がいたわけね。
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られた ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月28日(火)01時39分19秒 ]
>> でも銅の鏡1トンくらいかかえてきた中国人がいたわけね。
>>
魏と邪馬台国の交流は23年しかないです。
多分、洛陽と大和の往復は巧くいって2年かかります。
最大でも12回くらいしか行き来できません。
その間に中国人は日本人の為にだけ77種類もの△鏡をデザインし、1000枚(推定)もの△鏡を作った?
一方、三角縁鏡は4,5,6世紀に渡って埋葬されている。
300年も有れば77種類の△鏡がデザインされても不思議は無いですけどね。
元の発言 [ Re: 女王国は ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 7月5日(木)23時14分16秒 ]
こんばんは。
>> こんばんは。
>> > 女王国の東へ里数で標記された記事があって、海を渡っているので、女王国(不弥国)は、九州の瀬戸内海沿岸と思います。
>> 奴国と不弥国はもっと近いんじゃないでしょうか。
倭人伝の文章から、合いそうな場所を探した場合の位置なので、奴国も定説の位置とは思っていません。
>> 岩波文庫巻末に
>> >『魏略』逸文
>> >
>> >〔『前漢書』地理志・燕地・顔師古注〕
>> > 倭在帯方東南大海中、依山島為国。度海千里、復有国、皆倭種。
>> とありますが、ここでは、「倭国から海を渡る」の意味かと思います。魏志倭人伝の、
>> >女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
>> この「女王国」も倭国の意味で使っているのではないでしょうか。
魏略の逸文のみでは、そのように考えれますが、魏志倭人伝では、
「自女王国以北」の2例は女王国を倭国の中の一国として使っています。
「自郡至女王国萬二千余里」も、女王国以北は戸数道里を記したという注釈をこころみると、倭国という意味ではなく、女王国を倭国の中の一国として使っていると考えるべきだと思います。
「世有皆統属女王国」、伊都国のみ倭国に統属していたわけではないでしょう。
以上の4例の使用法から考えると、「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」を倭国と考える必要はないと思います。
この文章の後にある侏儒国は女王を起点として里数が書かれていますから、「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」も女王の居た女王国起点の書き方と考えてよいのではないでしょうか。
また、国名だけの国を挙げた後に「此女王境界所尽」とあり、女王の境は倭国の境と同じ意味と思えますが、女王国の境とは書いていません。これは女王国と倭国を陳寿が同一視せずに使い分けていたからと思います。
魏志倭人伝では陳寿はそのように使っていないと思います。
陳寿は女王国がどの国か分かって(それが正しいかはともかく)著したと考えます。
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡の価値 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月28日(火)01時19分43秒 ]
>> 破邪機能を生かすのはそうかもしれません。
>> でも、皇帝からもらった鏡をそのように使うのかな?
>> 破邪用の鏡だったのではないですか?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> >> # 魏と商取引したなら、国どうしも国交があったんではないですか?
>> 北朝鮮の松茸はたくさんありますが、国交はないです。
>>
これ一概にひねくれって言えるのかな?
日本の場合、遣唐使が廃止されて正式な国交はされてなくても、
民間の取引きが有った例が有るし。
太宰府など出先においての非公式な折衝はあるし。
現代でも、正式な形をとらない場合でも別ルートでつながりが有るのが政治じゃ当たり前なんだし。
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られた ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月28日(火)08時50分04秒 ]
>> 魏と邪馬台国の交流は23年しかないです。
>>
>>
>>
>>
>>
三角縁神獣鏡は晋のも含んでいたのでしょうか?
魏の墓は見つかっていないから三角縁神獣鏡も見つからないと言う議論はない訳ですね。
邪馬台国からの特注は晋にも引き継がれて作り続けられた?
紀年鏡はほとんどが魏の年号なのはどうしてでしょう。
三角縁神獣鏡が晋の時代も作られていたのなら晋の墓からも出てきて不思議はないのに出てこないのは何故?
>> 多分、洛陽と大和の往復は巧くいって2年かかります。
>>
>>
>>
大和の為に洛陽又は(狭義の)徐州で作られた△鏡を楽浪や帯方にストックしておいた?
まあ、考えにくいですね。
>> その間に中国人は日本人の為にだけ77種類もの△鏡をデザインし、1000枚(推定)もの△鏡を作った?
>>
>>
上記と同じ疑問が湧きます。
>> 一方、三角縁鏡は4,5,6世紀に渡って埋葬されている。
>> 300年も有れば77種類の△鏡がデザインされても不思議は無いですけどね。
>>
>>
>>
>>
>>
古墳から出土した鏡って大抵、箱式石棺や甕棺から出てきた前漢や後漢の鏡より出来が悪いものが多いのは何故?
http://fukuoka.cool.ne.jp/chikuzen/enjoy/mirror04.html
http://fukuoka.cool.ne.jp/chikuzen/enjoy/mirrorkuro17.html
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡は国産(黒塚古墳) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月28日(火)10時37分26秒 ]
>>
こんなイメージです。
「社長、黒塚商会の会長が亡くなったそうです。」
「そうか・・・」(と、よくある会話がひとしきり)
「そうだ、近頃評判の陳葬儀社に注文して、鏡を一枚お贈りしておいてくれ。」
「かしこまりました。」
こんなやり取りが各地(どのくらいの広がりかは不明)の有力者と側近との間で交わされ、数十枚の鏡が埋葬式のときに埋められたのです。多分。
#だから、卑弥呼は関係ない。純粋に陳葬儀社の商活動の結果です。陳さんだって、洛陽から倭に流れてきて、食っていかねばならなかったでしょう。
元の発言 [ Re: 勝山の資料bPについて ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 7月6日(金)20時02分13秒 ]
>>
>> >> 発表の仕方に何か恣意的なものを感じてしまうんですが。
>> それは,土器の編年が疑われるとか,
>> 年輪年代測定が信頼できないとか,
>> 古墳時代についての事実を隠しているとか,
>> そういうような疑いなのでしょうか。
つまりホケノ山の時は周濠の底から浮いて発見された物を浮いているから、時代が経ってから捨てられた物と発表し、勝山の時は同時期に捨てられたと発表するのは変です。
勝山の場合ホケノ山と同じように言った場合、勝山古墳は150〜180年位の築造にしないといけなくなります。
これでは古墳時代の到来がこれまでの土器編年から言っても100年も繰り上がりあまりに非常識と思ったのでしょうか。
このような発表を行う橿原考古学研究所は信頼できないと思いませんか?
元の発言 [ Title EKさんへ、。 言語学の話 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月28日(火)01時16分35秒 ]
>>
>>
ありがとうございます。読んでみます。
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡の価値 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月28日(火)10時54分59秒 ]
>> 日本の場合、遣唐使が廃止されて正式な国交はされてなくても、
>> 民間の取引きが有った例が有るし。
>> 太宰府など出先においての非公式な折衝はあるし。
>> 現代でも、正式な形をとらない場合でも別ルートでつながりが有るのが政治じゃ当たり前なんだし。
>>
>>
だから、よく時代を考えましょう。
ちと国にこだわりすぎですね。
だいたい、この時代なら部族単位どころか、村単位、家族単位で国際交易をやりかねないってことも認められないんですか?
政治ってものでも、いつの時代でもこの事は変わらないけど非公式のルートを必ず持っているもんですよ。
政治学の常識じゃないんですか?
元の発言 [ Re: Title:大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 8月27日(月)21時06分58秒 ]
>>
由さん今日は、馬頭鬼です。
>> >> で、先に書いた通り、船を作るつもりで多数用意された木材の中から一本なんてのは、おかしくないと思いませんか?
>> これ、私も考えました。
>> でも、この当時の船の材料はクスノキが主流ですよね。
>> 木棺はコウヤマキですから樹種が合わない。
>> 船の材料からの転用は、多分違うだろうなって思います。
ご指摘、どうもありがとうございました。
クスノキが主流なんて無知なもんだから書いてしまったんですが。
すいません。
でも、少し前の常識では、船って言うと杉の木が一番てなってたんですね。
それで、別のところでも書いていらした通りコウヤマキって杉科だから、あたりと思ったんですが。
それに、由さんの書かれたコウヤマキの性質って船にぴったりだと思いませんか。
コウヤマキって少なかったのでしょうか?
それなら、書いてることも当たるかも。
元の発言 [ Re: 大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 8月27日(月)20時16分48秒 ]
>> >> >> 中国の風習から言えば、子供が親に生前に立派な棺桶を贈るのが、親孝行だった出すね!
>> >> だとしても一世代分は超えませんよね。
>> #こんばんわ。
>> 生前から棺を造っておくような風習って日本にあったんでしょうかね?
>> 皆さん東南アジアとか中国とか例に出していますけど
>> 肝腎の日本ではどうなんでしょう?
>>
少なくとも、落語や講談などの中のほんとの話の例としては、聞いたことがあるような気がします。
但し材料のみのはなしが多いのですが地方によっては有ったみたいですね。
元の発言 [ Re: 与太話 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月28日(火)10時45分04秒 ]
>>
だ〜か〜ら、そんなはずないですよ。どんな本がそのマトモな本?
車崎説は新進気鋭の放つ意欲的親切かもしれないけど、多数説でも通説でもないでしょ?
大半のひとは倣製鏡150枚からが国産じゃないとは思ってないのだ。これ事実。
「卑弥呼がもらった鏡は100枚なのに、三角縁神獣鏡はかれこれ500枚位も出土しているからおかしい。」
じゃなくて「三角縁神獣鏡はかれこれ350枚位も出土」と言ったって、多いことには変わりないハズでしょ?
これをあえて倣製鏡も加えて「500枚」と言うのは、数を水増しして舶載も倣製も知らない一般読者を騙す以外の意図があると思う?
だから、こんな言葉のトリックを使うのはサギ本以外にないでしょう。
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られた ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月28日(火)13時32分23秒 ]
>> 魏の墓は見つかっていないから三角縁神獣鏡も見つからないと言う議論はない訳ですね。
>>
>>
>>
晋の時代にも作られていたなら魏代の墓の有無は△鏡の発見とは関係ないでしょう。
>>
>>
>>
国産で出来る技術があれば国産するんじゃないですか?
北九州では弥生時代の墓から[イ方]製鏡が出ているそうですし。
わざわざ輸入する理由はない。
>> 紀年鏡はほとんどが魏の年号なのはどうしてでしょう。
>>
>>
>>
>>
>>
日本の(三角縁神獣鏡の)年号入りの話ですけど?
>> 三角縁神獣鏡が晋の時代も作られていたのなら晋の墓からも出てきて不思議はないのに出てこないのは何故?
>>
魏晋の工人は自分達の趣味に合わない鏡を作っていたんですか。
>> 大和の為に洛陽又は(狭義の)徐州で作られた△鏡を楽浪や帯方にストックしておいた?
>> まあ、考えにくいですね。
>>
>>
>>
>>
>>
なるほど魏鏡ではなく晋鏡だった訳だ。
晋の時代なら「同出徐州」も少しは納得がいく。
ところで三世紀に作られた鏡が伝世して4、5,6世紀に墓に入れられる理由は何でしょう。
5代も6代も伝世してから墓に入れられる理由は?
それが2代だったり10代だったりするのは何故?
伝世させるものなら永遠に伝世するのでは?
やはり必要に応じて注文され、田原本町でその都度生産したと考えた方が分かり易い。
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡の価値 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月28日(火)16時39分23秒 ]
>> 政治ってものでも、いつの時代でもこの事は変わらないけど非公式のルートを必ず持っているもんですよ。
>>
#100冊も200冊も読まなくても、チャント読んでれば見えるはず。
>>
>>
>>
#一つの政権にまとまっていなくても合意は可能だし、
#これも、二三の調査報告書を読めば近畿圏が玄界灘沿岸とは別のルートを持っていたことがわかるはず。
元の発言 [ Title 思い付いたこと ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 7月3日(火)12時51分55秒 ]
>> #先月から適当に思い付いたのを脈絡なく。
>> #古事記でも、日本書紀でも
>> #ギは、男神をあらわし、ミは女神をあらわすと
>> “仏教用語に「伊舎那天」(いしゃなてん)という言葉があります。
>> 「伊舎那」は梵語の音訳で、「伊邪那」とも書き、支配者の意味だといいます。
>> 『古事記』の編纂者は、「伊邪那天」という言葉を知っていたのではないでしょうか。
>> そして「天の地堅めし去来子等」を、「伊邪那天」の「天」を「岐」と「美」に置き換えて表記、上代日本建国の主人公として描き出したのです。
>> まさに建国の主人公、「支配者(殿す人)」にふさわしい名前です。“
>> #この件
>> #伊舎那天とは、胎蔵界曼荼羅の外苑の東北の鬼門を守る三個か三叉戟を担ぎ髑髏の血杯をかざしている鬼神でしょう。
>> インドで破壊をつかさどる正体不明の神(アーリア人の神ではない)と聞きます。
>> また暴悪の性質も持つとも。
>> 依然読んだ小説では、源義経の幼名の遮那王もこれからきており、鞍馬寺ではこれをサナートクマラ、魔王尊と呼んで祭っていると。
>> また、“この天喜ぶ時、諸尊もともに喜びこの天怒るとき諸尊も怒り天地は荒廃するであろう。”なんて仏典には書いてあるとうんちくされてました。
>> ついでに、この神は神道ではどんな神かと聞かれたキャラが、スサノウの命と答えたが、間違いでそれはイザナギの命だと解説がされてます。
>> 創世神がなぜと?シバ神みたいなものかと思ってたんですが、変な所でつながってますね。
「伊邪那天」という言葉は、『日本語大辞典』(小学館1973)第2巻P-24で見つけました。
・・・・・いざな-てん【伊舎那天】(伊舎那は梵語の音訳。伊邪那、伊■那とも書き、伊沙とも略す。支配者の意)仏語。欲界第六の主で、大自在天(魔醯修羅天=まけいしゅらてん)ともいう。密教の胎蔵界曼陀羅(たいぞうかいまんだら)では、外金剛院の上首に位する。十二天の一つ、東北地方のの護法神で、その形は、黒青色で、怒りの三目と上を向いた牙(きば)を持ち、首に髑髏(どくろ)の瓔珞(ようらく)をかけ、左手には血を盛った器盤、右手には鉾鎗を持ち、黄牛に乗る、とされる。いざな。いしゃなてん。いしゃな。
密教の日本伝来について、平凡社『世界大百科辞典』(CD版2000)には、次のように書かれています。
・・・・・ 日本には,密教はすでに7世紀後半に断片的な形で伝えられていた。けれども初めて体系的なインド中期密教をもたらし,それを日本的に再構成したのは,天台宗の開祖伝教大師最澄と真言宗の開祖弘法大師空海であった。
「密教はすでに7世紀後半に断片的な形で伝えられていた」という記述から、「伊邪那天」と「伊邪那岐・伊邪那美」の関係を推察。
『古事記』作者は、「伊邪那天」の「天」を「岐」と「美」に置き換え、「伊邪那岐・伊邪那美」という言葉を作ったと考えたのです。
『世界大百科』の「大自在天」の項には、次のように書かれています。
・・・・・サンスクリット語(摩醯首羅天(まげいしゆらてん))の訳。ヒンドゥー教の最高神格であるシバ神が仏教にとり入れられて護法神となったもの。十二天の中の一尊である伊舎那天(いしやなてん)も密教に入った摩醯首羅天である。自在天,自在天王ともいう。その形像については諸説があり,(中略)単独で信仰・造像されることはなかった。なお,大自在天が天界で諸種の伎楽を行うとき,髪際から伎芸に優れた美しい一人の天女が出現したことが経軌に記される。(後略)<関口 正之>※一部の単語削除
また「シバ」の項には、次の記述が見らます。
・・・・・ビシュヌやブラフマー(梵天)と並ぶヒンドゥー教の主神。《リグ・ベーダ》のルドラと同一視され,ハラ ,シャンカラ ,マハーデーバ (大天),マヘーシュバラ(大自在天)などの別名を有する。(中略)ブラフマーが世界創造神,ビシュヌが世界を維持する神であるのに対し,シバは世界破壊神である。(中略)金・銀・鉄でできた悪魔の三つの都市(トリプラ)を一矢で貫いて焼き尽くしたので,〈三都破壊者〉と呼ばれる。(後略)<上村 勝彦>
伊邪那天は、「十二天の中の一尊」であるといいます。
『古事記』の伊邪岐神も、「神世七代」12神のうちの1神であり、のちに「伊邪那岐命」と名を変えます。
「髪際から出現した美しい一人の天女」は、「天照大御神」を思わせます。
またシバが、「世界破壊神」で、<三都破壊者>と呼ばれるのも興味深い。
伊邪那岐・伊邪那美による国生み、上代日本における国造りは、客観的にみれば「革命」です。
徐福に連れられてきた6カ国の子女の流れをくむ一部族、「伊邪那岐・伊邪那美」部族による上代日本「天」の革命劇といってよいでしょう。
その革命劇は、徐福の直系「天御柱」を見立て(後見)することで行われます。
その方法は「修理因成」。
「過ちを直し、責任をもって治めることによって、平定せよ」と『古事記』に書かれています。
『古事記』作者は、それを天神の詔として正当化しています。
しかし「修理因成」事業は、昔の天神が築き、時と共に荒廃した世界の再構築です。
天神族による統治から、「伊邪那岐・伊邪那美」部族への「矛」による政権交代。
見方を変えれば、「既存体制の破壊」です。
天之御中主神-宇摩志阿斯訶備比古遲神-天之常立神が築きあげ、國之常立神-豐雲(上)野神が継承した体制の破壊です。
ムー謎シリーズ3『世界の神々と神話の謎』(学研1996)に面白い記述を見つけました。
「シヴァ」の解説(P-114 )の中です。
・・・・・あるとき偉大なバギラータ王が6万人の先祖の王子を供養するために凄まじい苦行をした。
それを知ったブラフマーは、聖なる天の川ガンジスを地上に流す許可を与えた。
だが直接流すと、凄まじい衝撃が予想される。
シヴァに祈ると、自らの豊かな髪でそれを受け止めることを約束した。
ガンジスの奔流は、七つの支流となって大陸を流れはじめたのである。
これによって、多くの人や生き物が潤い、樹木や草原までも恩恵を受けたのである。
「6万人の先祖と七つの支流」を語る古代インド「シヴァ」の神話。
「徐福の連れてきた6カ国の子女と神世七代」を記す『古事記』の物語。
それが密教「伊邪那天」の由来と、「伊邪那岐・伊邪那美」との関わりから、相関性を持つことが見えてきます。
やはり『古事記』作者は、密教「伊邪那天」の由来を知っていたと考えられます。
また「伊邪那岐・伊邪那美」の正体が、「徐福の連れてきた6カ国の子女」ということも知っていたと推定できます。
『古事記』の記述は、古代中国における「禹」の伝説を素材にしています。
今回、古代インドの神話までもが関わることが分かりました。
『古事記』作者は、古代インド「シヴァ」と古代中国「禹」の伝説を利用して、上代日本「天」の歴史を記述したのです。
私は、このように考えます。
元の発言 [ Re: 大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 8月27日(月)20時16分48秒 ]
>> 皆さん東南アジアとか中国とか例に出していますけど
>> 肝腎の日本ではどうなんでしょう?
中国には,「寿陵」といって生前に墓を造る風習があり,
日本の古墳時代にも,「寿陵」みたいな例はあるようです。
同時に,生前に用意する棺桶だか棺材のことを「寿板」と言うそうです。
そういう葬送儀礼があるので,
土器編年とか,年代年輪とか,炭素測定とかも,
その辺りの有無を推理する研究を含むんでしょうけど・・・もともと。
木棺の場合,古代日本にも「寿板」のような風が,
なかったとは言い切れないでしょうから。
元の発言 [ Re: Title:大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 8月28日(火)15時21分32秒 ]
馬頭鬼さん 今晩は、由です。えっと、私の意見を訂正いたします。
丸木船の材料としては、時代は多少前後いたしますが、
ケヤキ/スギ/クリ/ホウノキ/マツ なんてのも使われたみたいですね。
クスノキが主流だという事は確かなようですが。
木棺の材料もコウヤマキが主流ではありますが、
ケヤキ/クスノキ/ヒノキ/クリ/カヤ/クワ なんてのも使われたみたいです。
そこで、私の意見を訂正いたします。
>> 船の材料からの転用は、多分違うだろうなって思います。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
船の材料からの転用は、主流ではないだろうが、事例としては有ったかも知れない。
なお、クスノキが船材として主流になったのは、
樟脳を含むため腐りにくく虫害などに対する耐久性があり、
巨木で大きな材が得られ易く、比較的加工し易いからだろうと推測します。
クスノキ 葉や材から樟脳が取れる。この精油成分によって害虫に対する抵抗力をもつことから、
巨樹になるものが多くあり、しばしば幹の直径が2メートルを超える大木となる。
日本の広葉樹の中で最も長命で千年を超える樹齢のものもある。
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡は国産(黒塚古墳) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月28日(火)08時54分15秒 ]
>>
>>
>>
#ふーん。そうなんですか。
>> #東遷説の立場から申しますが
>>
>>
#証拠がないからねぇ。まぁ、希望的な空想でもいいんじゃないスカ?歴史の楽しみ方は十人十色なわけだし。
「古事記は予言書で、神武天皇はマッカーサー」なんて
ぶっ飛んでなけりゃ。
犯罪犯してるわけじゃなし。
>> 画紋帯そのものに国産が含まれている可能性は無いでしょうか?
>>
>>
>> 卑弥呼の時代ではありませんが、この時代より前に鋳造していたと思われる遺跡が九州からも発見されています。
>>
>>
>>
>>
#あくまでも卑弥呼が登場する前の時代の話なんですよねヒルハタ遺跡からでてきたのは。その間にも大陸・半島とは交流があったわけで、当然技術だって入って来て、
その技術が畿内で発達したと考えられないですか?
外国の工人が入ってきたという考え方もいいけど、日本って同人誌的な国じゃないですか?なんでも真似マネで、オリジナル性が乏しい。この傾向は明治の
「欧米に追いつき追い越せ」の精神かもしれないけど、古代にも同じような感覚で真似たかもしれない。
おにりんさんの嫌う想像上のことで申し訳無いですね。
けれど、想像は大事ですよ。ジョン=レノンだってそう言ってる。
(^^;)
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡の価値 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月28日(火)16時39分23秒 ]
おにりんさん こんばんは。 ちょっと教えてください。
>>
ここの部分が具体的になにを示しているのかよくわかりません。
もしかすると、中平銘の鉄刀とか、三世紀の年号の鏡のことでしょうか。
これらだとしたら、みんな4世紀の古墳から出ているものですよね。
とすると、「それらの文物をもらった人は始めは九州にいたけど、三世紀末か四世紀になって、それらを携えて畿内方面へやってきた。だから九州には、その時代のものが少ない」っていう解釈も成り立つような気がしますけど。(個人的にはそう思いませんが。)
元の発言 [ Re: 女王国邪馬臺國 ? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月25日(土)03時44分43秒 ]
こんばんは 牛頭天王さんからの反論がないようですので、かわりに
>>
卜占については「弥生文化の研究8」(雄山閣)に詳しく載っています。今この本が手元にないので、以下は記憶で書きますが。。。
卜骨は全国で22遺跡78例で見つかっていて、その大半は関東から東海の海岸地帯です。九州本土からの発見はありませんが、畿内も数例であって、決して多くありません。発見場所は、貝塚のようなアルカリ性土壌のところで、骨が残りやすかった場所だけのようです。「発見されているところでのみ卜占が行われていたというわけでなく、日本全土で卜占は行われていたのでは」というのが著者の意見だったと思います。
おそらく、卜占は大陸から弥生時代初期に渡来人が日本列島へ伝えた風習だと思いますので、マルセも、九州のみ卜占が行われなかったと考えるのは、かえって不自然なのではないかと思います。
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡の価値 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月28日(火)01時19分43秒 ]
>>
>>
銘文にはそのようには書いてないでしょう。
文字は読めたのではないですか?
>>
>>
いや、たったそれだけしかわかっていないという事実でしょう。
>>
そうじゃない、民間の商取引はとても重要な位置を
どの国も、どの時代も占めていると言うことです。
元の発言 [ Re: うー、なんとも言えない ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月28日(火)10時35分54秒 ]
>>
>>
あの饅頭は買って食べました。
現地説明会の時の写真も、その店で貰ってきました。
元の発言 [ Re: 大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 8月28日(火)21時41分34秒 ]
>> 中国には,「寿陵」といって生前に墓を造る風習があり,
>> 日本の古墳時代にも,「寿陵」みたいな例はあるようです。
>> 同時に,生前に用意する棺桶だか棺材のことを「寿板」と言うそうです。
>> そういう葬送儀礼があるので,
>> 土器編年とか,年代年輪とか,炭素測定とかも,
>> その辺りの有無を推理する研究を含むんでしょうけど・・・もともと。
>> 木棺の場合,古代日本にも「寿板」のような風が,
>> なかったとは言い切れないでしょうから。
#問題は卑弥呼の時代にこの風習があったかどうかなんですよね。
卑弥呼そのものは「魏志倭人伝」を読んだ限りでは、卑弥呼がなくなってから急いで造っているように見えます。
・急に亡くなったので(その死因は置いといて)急いで造ったのか。
→ 死ぬ前から造る風習があった・・・という前提で。
・その逆でホントに死んでから造る。
このどちらかということになります。
私は九州説なので心情的には”死ぬ前から造る風習があった”とした方が都合がいいのですが、お墓ってモノはそこにはいる当人が造るものではなくて、その子供が造って管理するもんだと思うんですね(”管理”なんて嫌な言葉ですが)。
天皇家はどうなんでしょう?あらかじめ自分の墓を造っておく・・・なんて風習があったのでしょうか?
あと、卑弥呼の墓についてなんですが、生贄として百人もの人間が埋められたということなんですが、これは他に例があるんでしょうか?
卑弥呼が天皇家とつながりがあるのなら、他の天皇稜にも同じような傾向があるのではないでしょうか?
元の発言 [ Re: Title:大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 8月27日(月)22時08分58秒 ]
由さん、こんばんわ。
>> まず一言お断りしておきます。
>> 私は、生木をそのまま使用するという事は考えにくい、とは思っていますが、
>> まったくあり得ない、とまでは思っていません。
>> 現に、諏訪大社の御柱という実例もある事ですし・・・。
#アレは何かの材料ではありませんです。あくまで儀式用のものです(^^;)。
元の発言 [ Re: Title:大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 8月27日(月)22時08分58秒 ]
>> ピクポポデミさん 今晩は、由です。
今晩は。
今回の木棺は残りが良いようなので、場合によっては製作状況に関して何か分かるかも知れません。
年輪年代が分かったとして、木棺の状況によって、再利用かどうか、乾燥したとすればどれくらいかけたか、推定の上で埋葬年代を出すことになると思います。
要するに調査待ちですね。
私は今までの場合に比べて、断然期待できると思います。
元の発言 [ Title みーつけた!これが日本語の語源だ! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月28日(火)11時39分03秒 ]
>>
>>
>>
>>
こりゃまじではまりますね。
ほんとになんか関係ありなんじゃ...
ところで下のサイトは御存じですか?
初学者で事の真偽がつかめません。
元の発言 [ この時代の葬儀は・・・ ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 8月28日(火)22時46分54秒 ]
>> 天皇家はどうなんでしょう?あらかじめ自分の墓を造っておく・・・なんて風習があったのでしょうか?
聖徳太子の墓は「寿陵」のようです。
また,仁徳陵などの巨大古墳は生前から築いたものではないか,
という説は聞きます。
あるいは,天照大神は天岩戸隠れから復活し,
応神天皇は死んだふりを装うなど,
生前に象徴的な死(葬儀)を経ることで改めて皇位を継ぐ,
という風習がなかったかどうか・・・?
>> あと、卑弥呼の墓についてなんですが、生贄として百人もの人間が埋められたということなんですが、これは他に例があるんでしょうか?
うーむ,宇佐に百人塚があるとは言うものの,,,(^^;
垂仁紀によると,倭彦命の陵に「古の風」として人垣を立てたが,
殉葬者の死ぬようすが悲惨なので,垂仁天皇が禁止し,
かわりに埴輪を立てるようになったわけです。
古事記(崇神記)によると,
倭日子命の時に「初めて陵に人垣を立てた」とあります。
ところが,重臣の田道間守が垂仁天皇陵の前で殉死(自害)する,
という不条理なオチがついているわけでして,
殉葬とは一緒にできないだろうが,しかし,
「古の風」とする日本書紀のほうが正確ではないかと思います。
以上,魏志倭人伝の徇葬記事と併せて考えると,
興味深いでしょう。
元の発言 [ 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られた ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 8月27日(月)22時51分55秒 ]
このレス、何で私のところについているのかよくわかりませんが...
>> 天理市柳本町の前方後円墳「黒塚古墳」の真西に鏡作神社が鎮座まします。
>> 鏡作神社の御神宝(神獣鏡)は崇神天皇の御代に初めて試鋳されたと社伝に記載されています。
>> この事を抜きに生産地論争は無意味ではないでしょうか。
奈良県田原本町鏡作神社蔵の内区だけの神獣鏡が、三角縁神獣鏡の原型だというお話のことですか?それは多分、ないです。この鏡は、愛知県犬山市東之宮古墳出土鏡M5の内区と同型です。この二鏡については、樋口隆康『三角縁神獣鏡新鑑』学生社の125pに次のようにあります。
「田原本町鏡作神社鏡は内区だけの鏡だが、これで完型である。図文は東之宮鏡と一致するので、鋳笵をつくるための模鏡ではないかとみられていたが、東之宮鏡の方が図文が鮮鋭である。」
ということですと、鏡作神社蔵鏡が三角縁神獣鏡の原型であるというのはありえず、むしろ東之宮古墳M5鏡の同型鏡を原型に「試鋳された」のが鏡作神社蔵鏡である可能性が高いのではないでしょうか。
元の発言 [ 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られたか? ] お名前 [ 蛟児 ] 日付 [ 8月29日(水)00時12分45秒 ]
>> このレス、何で私のところについているのかよくわかりませんが...
失礼しました。書き込む時「三角縁神獣鏡は国産(黒塚古墳)」スレッドの最後だったからです。
>> 奈良県田原本町鏡作神社蔵の内区だけの神獣鏡が、三角縁神獣鏡の原型だというお話のことですか?それは多分、ないです。この鏡は、愛知県犬山市東之宮古墳出土鏡M5の内区と同型です。この二鏡については、樋口隆康『三角縁神獣鏡新鑑』学生社の125pに次のようにあります。
>> 「田原本町鏡作神社鏡は内区だけの鏡だが、これで完型である。図文は東之宮鏡と一致するので、鋳笵をつくるための模鏡ではないかとみられていたが、東之宮鏡の方が図文が鮮鋭である。」
>> ということですと、鏡作神社蔵鏡が三角縁神獣鏡の原型であるというのはありえず、むしろ東之宮古墳M5鏡の同型鏡を原型に「試鋳された」のが鏡作神社蔵鏡である可能性が高いのではないでしょうか。
「試鋳された」のが三角縁神獣鏡ですから、田原本町の鏡作部が作っていたのも素直に考えて「三角縁神獣鏡」でしょう?
同地域に鏡作と名のつく神社が5つもあって鏡作部が住み、鏡を作る事を生業にしていた。
その真東に沢山鏡を埋蔵した古墳が発見された。
鏡は太陽信仰のシンボルでもある。
私は真東と言う所にその強い関連を見出します。
これらの状況からその関連を考えるのは自然ではないでしょうか?
敢えて無視する方がおかしい。
邪馬台国畿内論者の間でも黒塚古墳の三角縁神獣鏡の大量発掘で、この鏡を卑弥呼の鏡とする事に否定的な意見を持つ人が増えたと聞いています。
元の発言 [ Re: 勝山の資料bPについて ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月7日(土)16時44分51秒 ]
>> つまりホケノ山の時は周濠の底から浮いて発見された物を浮いているから、時代が経ってから捨てられた物と発表し、勝山の時は同時期に捨てられたと発表するのは変です。
# 同時期に捨てられたという発表があるのですか?
>> このような発表を行う橿原考古学研究所は信頼できないと思いませんか?
# 橿原考古学研究所がそのような発表を行っているのですか?
何に記載されているのか教えてください。
既に毎日新聞の誤報を紹介いたしましたが、これも誤報の可能性が大きいと思います。
あなたがおっしゃるのは何処に書かれていたことでしょうか?
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡の価値 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月29日(水)09時07分33秒 ]
>>
>>
>>
ほんとにそうなんでしょうか?
黒曜石など、随分古い時代から、今でも結構遠いのでは
ないかと思えるようなところまで流通していませんか?
>>
>>
>>
>>
制限ではなく、嗜好の変化とかの可能性もあるのでは
ないですか?
元の発言 [ Re: Title みーつけた!これが日本語の語源だ! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月29日(水)14時22分49秒 ]
>>
>> ところで下のサイトは御存じですか?
>> 初学者で事の真偽がつかめません。
>>
>>
ですか。
最近よく見ていたので安心しました。
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡の価値 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月29日(水)15時58分23秒 ]
>> 黒曜石など、随分古い時代から、今でも結構遠いのでは
>> ないかと思えるようなところまで流通していませんか?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
またまたどうなんでしょうね。
中国の歴史に詳しいのに、こんなこといっている。
だいたい、漢の時代から取り締まられても取り締まりきれる物じゃないでしょうに。
塩賊みたいなモンだと思いますがね
鏡なんかお守りみたいな意味もあるものや医薬品みたいなもの
の流通までなくなってるなんてちと信じられない。
大体こういうものでは、権力者より民衆のほうが利口って言うの歴史でも常識じゃなかったっけ。
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られたか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月29日(水)11時58分33秒 ]
>> 邪馬台国畿内論者の間でも黒塚古墳の三角縁神獣鏡の大量発掘で、この鏡を卑弥呼の鏡とする事に否定的な意見を持つ人が増えたと聞いています。
>>
>>
>>
>>
最近では畿内論者の中では画紋帯神獣鏡が卑弥呼の鏡と考える人が増えているようですね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
邪馬台国畿内論のなかでもまともな方の考えですね。
私は画紋帯神獣鏡をベースに三角縁神獣鏡を作ったのは田原本町に住んでいた銅鐸職人ではないかと考えています。
畿内で何故か銅鐸が廃棄され、職を失った銅鐸職人が三角縁神獣鏡に生きる道を見出した。
そして鏡作部と呼ばれるようになった。
画紋帯神獣鏡に比べて△鏡は精緻さに欠けます。
考古学的にも矛盾なく理解できます。
問題なのは何故魏の年号を使用したか?
当時の大和人の心理が判らない。
元の発言 [ Re: 勝山の資料bPについて ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 7月7日(土)21時27分16秒 ]
>> >> つまりホケノ山の時は周濠の底から浮いて発見された物を浮いているから、時代が経ってから捨てられた物と発表し、勝山の時は同時期に捨てられたと発表するのは変です。
>> # 同時期に捨てられたという発表があるのですか?
>> >> このような発表を行う橿原考古学研究所は信頼できないと思いませんか?
>> # 橿原考古学研究所がそのような発表を行っているのですか?
>> 何に記載されているのか教えてください。
>> 既に毎日新聞の誤報を紹介いたしましたが、これも誤報の可能性が大きいと思います。
色々新聞やテレビのニュースを見たのでどれかはっきりしませんが、「この材は、墳丘上での埋葬儀礼が行われた建物の部材で、儀礼終了直後に壊され、廃棄されたものと見られる。年輪の状態などから他の建物からの転用ではなく、また紫外線による劣化がなかったことから伐採後すぐに使われた物。」と言う新聞記事があったと思いましたが。テレビも同様のニュアンスで報道していました。
これは橿原研の発表とは違うのでしょうか。
新聞社やテレビの捏造ですか?
それとも葬儀礼というのは五十年間位続いて行われていたという解釈なのでしょうか?
これは
元の発言 [ Re: 二世紀末以降の大陸からの文物 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月29日(水)09時03分25秒 ]
こんばんは
>>
>>
>>
>>
>>
>>
画文帯神獣鏡、飛禽鏡、き鳳鏡など中国鏡の3世紀の出土は、奈良県内ではホケノ山の2枚、中山大塚の1枚の計3枚に過ぎません。それに京都府の園部黒田、太田南2号の各1ずつを加えて畿内では計5枚です。畿内以外の地域のこの時期のは、九州3、中国2、四国3、東海2、関東甲信枚4です。(古代「おおやまと」を探るより)
これらの鏡が畿内に一番多いのは確かですが、他の地域より中国の文物が厚くでているとまで言える差ではないと思いますけれど。
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡の価値 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月29日(水)08時59分35秒 ]
>>
>>
#丹後半島には何ら勢力は無かった?
>>
>>
>>
#「糸島半島」ですか。
#明治23年に「怡土」郡と「志麻」郡が合併する前の「志麻」で、
#かつては「怡土(伊都・前原)」との間に「糸島水道」があって、
#“島”だった。
#したがって、「中心が移った」などと言うことはありません。
#伊都国の中心なら、「三雲」あたりでしょう。
>>
>>
>>
>>
#「赤坂今井墳丘墓」が造られたころですネ。
>>
#そうですか?
#「九州における古墳文化と朝鮮半島」(福岡教育委員会)はお読みになった200冊の中には無かったですか。
#柳田康雄氏が土器を示して北部九州と半島南部の交流を明らかにしています。
>>
>>
>>
#2世紀中葉は「和国大乱」の時代では?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#「広域国家的様相をもっていた」けれど国際的交易は行っていないってことですか。(-_-?)
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#「和国大乱」は玄界灘から北陸までを抑えた近畿勢力対瀬戸内東部の争いだったと?
#で、勝利を収めたのは瀬戸内東部勢力ってことですか。
>>
>>
>>
>>
>>
>> #一つの政権にまとまっていなくても合意は可能だし、
>> #これも、二三の調査報告書を読めば近畿圏が玄界灘沿岸とは別のルートを持っていたことがわかるはず。
>>
#要するに、半島とのルートは複数あったが「倭国大乱」の結果近畿に集約されたということですか。
#纏めると、大陸、半島との交易ルートを玄界灘沿岸、山陰、北陸に頼っていた瀬戸内の勢力が団結して日本海に進出したのが「倭国大乱」で、
#「共立」ではなく瀬戸内勢力が近畿に勢力を移し、山陰、北陸を切り捨てて玄界灘経由で交易を「独占」したってことですか。
#国内最大級の赤坂今井墳丘墓(京都府峰山町)は、弥生時代後期末(3世紀中頃)の方形墳丘墓で、近畿の対半島交易を担うことによって勢力を伸ばしたと考えられてるんですが?
#なんだか分けがわかりませんネ。
元の発言 [ Re: この時代の葬儀は・・・ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月29日(水)10時51分51秒 ]
>>
>>
>>
古墳に先行する方形周溝墓に若干,見られる,
という辺りの整合性がスゴイです。
卑弥呼の冢も,実は,これなんでしょう・・・とか,,,(^^;
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ないとは言い切れませんね。
あるいは,
殉葬者をカメ棺などに首だけ出して立姿勢で埋めていたのなら,
特殊器台や埴輪というものが,
そういう「殉葬棺」の風習から象徴的に発達したものかもしれません。
弥生遺跡から出る頭部のない遺骸については,
それを動物に持って行かれた殉葬者の可能性もある・・・?
# 風葬や鳥葬がなかったとも言い切れないようだし,
# 沖縄には洗骨の風が最近まであったのだから,
# そういう奇抜な視点から探るのも一法でしょう。
元の発言 [ 三世紀にはそれほど差がないような気が ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 8月29日(水)21時17分01秒 ]
>> これらの鏡が畿内に一番多いのは確かですが、他の地域より中国の文物が厚くでているとまで言える差ではないと思いますけれど。
# 九州は2世紀の流入とすべき例が混入していないでしょうか?具体的には何処の例を数えていますか?
また、この時代は兵庫を畿内圏に含めたいと思うのですが、これだと畿内が突出してきませんか?
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られた ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月29日(水)09時28分02秒 ]
>> 晋の時代にも作られていたなら魏代の墓の有無は△鏡の発見とは関係ないでしょう。
>>
>>
はあ?晋の時代にも作られていたなら晋の遺跡からも出てきて良いだろうと言っているの
ですが?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
画紋帯神獣鏡は江南系と聞いていますが?
>>
>>
>>
>>
>>
魏は鏡にそれほど思い入れがなかったと考えられます。
薄葬令の影響もあって墓に鏡を入れることも無く、まして年号鏡なども作らなかった。
日本人の為に鏡を作って年号を入れたのなら、どうして全部に年号を入れなかったのか?
どうして色々なデザインの鏡を取り混ぜて送ったのか?
など疑問が湧きます。
鏡の量産時は大抵石型でやると思いますが三角縁は粘土型で製作されたと推定されている。
これは鏡の出来具合で判ります。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
言う事が破綻しているように思います。
図案なんか真似すれば良いのですから。
>>
ほんとしっかり認識してほしいです。
>> ところで三世紀に作られた鏡が伝世して4、5,6世紀に墓に入れられる理由は何でしょう。
>>
>>
>>
鉛だけ輸入と言う線はありませんかね?
>> 5代も6代も伝世してから墓に入れられる理由は?
>>
>>
>>
>>
!!!三角縁神獣鏡は4世紀、5世紀にも輸入されていた????
元の発言 [ Re: この時代の葬儀は・・・ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 8月29日(水)22時29分24秒 ]
>> >> ところが、考古学的にどうしても出てこない。
>> >> 弥生時代において、若干の周溝に殉葬じゃないかって
そう言えば、平原墓に行った時、殉葬じゃないかっていう一家らしいのが墓の横から出た聞きましたね。
>> >> いう例がある程度。
>>
>> 古墳に先行する方形周溝墓に若干,見られる,
>> という辺りの整合性がスゴイです。
>> 卑弥呼の冢も,実は,これなんでしょう・・・とか,,,(^^;
意外と方形じゃなく前方後円型の周溝墓だったりして、
そう言えば、豊田有恒氏が小説で邪馬台国の卑弥呼の墓だという遺跡というか古墳を紹介してましたっけ。
円形の周溝墓で径100歩ぐらいだって。
本持ってたはずだけど見つかりませんので見つけたら紹介しましょう。
>>
>> >> で、原田大六氏だったかが、特殊器台の類が、じつは、
>> >> 立て棺だったという説を出した。私も勝手にそういう説
>> >> を出しましたが、となると、、、。
>> >> とすると、円筒型埴輪などは、立て棺としては結構らし
>> >> い形をしているわけですよ。大きさからしても、高さ
>> >> からしても(とくに、メスリ山のやつとか)。
>> ないとは言い切れませんね。
>> あるいは,
>> 殉葬者をカメ棺などに首だけ出して立姿勢で埋めていたのなら,
>> 特殊器台や埴輪というものが,
>> そういう「殉葬棺」の風習から象徴的に発達したものかもしれません。
>> 弥生遺跡から出る頭部のない遺骸については,
>> それを動物に持って行かれた殉葬者の可能性もある・・・?
それより、アジアで最近まで行われてた殺人祭祀の後なんじゃと思ったりして。
諏訪の御柱も元はそうじゃないかって祭だけど。
>> # 風葬や鳥葬がなかったとも言い切れないようだし,
>> # 沖縄には洗骨の風が最近まであったのだから,
>> # そういう奇抜な視点から探るのも一法でしょう。
縄文には日本でもあったのが分かってるし平安時代もそうだったんだからこの時代にあっても不思議じゃないですね。
元の発言 [ Re: 勝山の資料bPについて ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月7日(土)16時44分51秒 ]
伐採年が,西暦199年+4〜12年以内の幅ということだそうです。
つまり,203年から211年ということだそうです。
また,布留0式の行われた時期は遡ることが判明した,
いや,出土状況の検証が必要である,
というふうに,確かに見解は分かれているそうです。
要するに,年輪年代測定から時代を特定する補完的な技法は研究されていない,
ということなんでしょうか。
# 自信たっぷりげだけど,,,(^^;
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡の価値 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月29日(水)15時58分23秒 ]
>>
>>
#過去のおにりんさんの発言を見る限り、近畿の土器が北部九州のマーケットを押さえたことを「近畿勢力の浸透」と呼んでいるようですが、それじゃ現代日本は「圧倒的なまでの中華勢力の浸透」があるわけです。でも、現実は湯に黒が中華人民を収奪しているという構図でしょう。
こんな案はどうでしょう。
大規模な水田開拓に必要な鉄製農具を九州が押さえていたので、これを買うために近畿勢力は品質的に競争力のある土器の完成を機に、ダンピングして大量に輸出するようになった。九州の土器業者は壊滅的打撃を受けたが、国全体としては鉄関連産業が大いに栄えた。
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られたか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月30日(木)10時37分20秒 ]
>>
>>
>>
>>
中国で見つかっている陳是作鏡の銘文入りの鏡ってほとんどが長江流域で、しかも呉の年号入りらしいですけど。
陳是作は中国で有名な鏡作者らしいからハク付けに書いとけみたいなもの?
>> 私は画紋帯神獣鏡をベースに三角縁神獣鏡を作ったのは田原本町に住んでいた銅鐸職人ではないかと考えています。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
公孫氏は山東半島まで勢力を伸ばしていたらしいですから、この辺から鏡作り職人が遼東に渡り、公孫氏が敗れると一緒に日本に亡命なんて線も考えられますね。
>> 畿内で何故か銅鐸が廃棄され、職を失った銅鐸職人が三角縁神獣鏡に生きる道を見出した。
>> そして鏡作部と呼ばれるようになった。
>>
では鏡作部は何を作っていたんですか?鏡を作ってこそ鏡作部でしょう?
鏡作神社の神宝は崇神天皇の時に試鋳した神獣鏡だし、ここで三角縁神獣鏡を作らない筈はない。
日本で一番需要の多い三角縁神獣鏡を作っていたと考えない方がおかしい。
>> 画紋帯神獣鏡に比べて△鏡は精緻さに欠けます。
>>
>>
画紋帯神獣鏡にも日本で作られた物も有るような気がしますがホケノ山の破砕されたやつなんかすごく奇麗。
段違いですね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
うーん、皇帝の命令でわざわざ卑弥呼の為に特別に作るんですからもっと良いものをと思うんですが、
神獣鏡はデザイン的には目出度い鏡でいいんですが、昔倭人はもっと良いものを手にした事があると考えると、
ホケノ山からでたやつ位の奇麗なものを願ってしまいます。
元の発言 [ Re: Title:大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土チャチャ! ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 8月28日(火)21時59分29秒 ]
>> 馬頭鬼さん 今晩は、由です。えっと、私の意見を訂正いたします。
>> 丸木船の材料としては、時代は多少前後いたしますが、
>> ケヤキ/スギ/クリ/ホウノキ/マツ なんてのも使われたみたいですね。
>> クスノキが主流だという事は確かなようですが。
>> 木棺の材料もコウヤマキが主流ではありますが、
>> ケヤキ/クスノキ/ヒノキ/クリ/カヤ/クワ なんてのも使われたみたいです。
>> そこで、私の意見を訂正いたします。
>> >> 船の材料からの転用は、多分違うだろうなって思います。
>> ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
>> 船の材料からの転用は、主流ではないだろうが、事例としては有ったかも知れない。
>>
>> なお、クスノキが船材として主流になったのは、
>> 樟脳を含むため腐りにくく虫害などに対する耐久性があり、
>> 巨木で大きな材が得られ易く、比較的加工し易いからだろうと推測します。
>> クスノキ 葉や材から樟脳が取れる。この精油成分によって害虫に対する抵抗力をもつことから、
>> 巨樹になるものが多くあり、しばしば幹の直径が2メートルを超える大木となる。
>> 日本の広葉樹の中で最も長命で千年を超える樹齢のものもある。
由さん、どおもありがとう。
馬頭鬼です
確かにいろんな木が使われているようですね。
別のところで書いてくださったように喪狩りとして木を切ったかもしれない。
儀式の2Mから長ければ6M、1Yも有れば十分ありえると想像できます。
やはり、分析で詳しいことが分かるまで無数のパターンが出てきますね。
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られたか? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 8月29日(水)09時08分07秒 ]
>> 「試鋳された」のが三角縁神獣鏡ですから、
「試鋳された」のは”外区・圏帯のない神獣鏡”であり、その原型とされたのが三角縁神獣鏡です。
>> 田原本町の鏡作部が作っていたのも素直に考えて「三角縁神獣鏡」でしょう?
それは、違うでしょう。鏡作神社蔵鏡があそこで作られたものだとしても、いわゆる「舶載」三角縁神獣鏡ほどの浮彫りの技術がなかったからこそ、三角縁神獣鏡の内区を拝借したんじゃないですかね。しかも、この鏡は、黒塚から出土したどの鏡よりも新しい。つまり、鏡作神社蔵鏡が製作されたのは、黒塚の鏡群が製作された後であり、その段階で、黒塚の三角縁神獣鏡なみの鏡を作る技量はなかったんですよ。
>> 同地域に鏡作と名のつく神社が5つもあって鏡作部が住み、鏡を作る事を生業にしていた。
でも、いわゆる「舶載」三角縁神獣鏡以外に、歴然とした倭鏡は存在するんだから、仮に鏡作神社の地で古墳時代前期にも鏡を作っていたとしても、その鏡の第一候補は歴然たる倭鏡の方なのは当然。
元の発言 [ Re: この時代の葬儀は・・・ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月30日(木)11時33分43秒 ]
>>
>>
>>
洗骨用とか風化を促進する構造とか再葬用とか,,,(^^?
>>
ま,思いつきですから。
台湾の高山族(高砂族)なんかはマライ・ポリネシア系みたいですね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
そりゃびっくり,,,(^^;
というわけで,殉葬者を再葬していたのだろうか,と。
ただ,馬なんかの場合,埋めたままとか。
元の発言 [ Re: この時代の葬儀は・・・ ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 8月30日(木)09時46分24秒 ]
>> 本持ってたはずだけど見つかりませんので見つけたら紹介しましょう。
お願いします。
>> それより、アジアで最近まで行われてた殺人祭祀の後なんじゃと思ったりして。
>> 諏訪の御柱も元はそうじゃないかって祭だけど。
銅鐸の謎ですか・・・?
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡の価値 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月30日(木)11時24分41秒 ]
>> #伊都国の中心なら、「三雲」あたりでしょう。
>>
#「どう表現するか」じゃないでしょが!
#まったく別の場所です。
>>
>>
#なにを読んでるんですか。「伊都」は「怡土」であって、「志麻」とは違うって言ってるでしょうが。
>> #「九州における古墳文化と朝鮮半島」(福岡教育委員会)はお読みになった200冊の中には無かったですか。
>> #柳田康雄氏が土器を示して北部九州と半島南部の交流を明らかにしています。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#だから!
#「九州における古墳文化と朝鮮半島」(福岡教育委員会)はお読みになった200冊の中には無かったですか。
#とレスしてるでしょうが。
>> >> この傾向は、大方、西暦の160年ごろから始まる。
>> #2世紀中葉は「和国大乱」の時代では?
>>
>>
>>
#「倭国大乱」の真っ最中が「大方近畿圏が、対半島交易を独占し始めた時期なんですよ」ですか。
>> #纏めると、大陸、半島との交易ルートを玄界灘沿岸、山陰、北陸に頼っていた瀬戸内の勢力が団結して日本海に進出したのが「倭国大乱」で、
>> #「共立」ではなく瀬戸内勢力が近畿に勢力を移し、山陰、北陸を切り捨てて玄界灘経由で交易を「独占」したってことですか。
>>
>>
>> #国内最大級の赤坂今井墳丘墓(京都府峰山町)は、弥生時代後期末(3世紀中頃)の方形墳丘墓で、近畿の対半島交易を担うことによって勢力を伸ばしたと考えられてるんですが?
>> #なんだか分けがわかりませんネ。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#(貴方風に答えると)ぜんぜん!見ることはできません。
元の発言 [ Re: 勝山の資料bPについて ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月7日(土)22時51分13秒 ]
>> 色々新聞やテレビのニュースを見たのでどれかはっきりしませんが、「この材は、墳丘上での埋葬儀礼が行われた建物の部材で、儀礼終了直後に壊され、廃棄されたものと見られる。年輪の状態などから他の建物からの転用ではなく、また紫外線による劣化がなかったことから伐採後すぐに使われた物。」と言う新聞記事があったと思いましたが。
# そのような出所を確定できない情報で「このような発表を行う橿原考古学研究所は信頼できないと思いませんか?」などという発言をなさるのは慎み下さい。
元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡は国産(黒塚古墳) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月29日(水)09時41分47秒 ]
こんばんわ〜。
>>
#それまであった鏡を新たに打ち直したとか・・・
ところで銅鐸に使われている銅と、銅鏡に使われている銅の質は違うものなんでしょうか?
>>
>>
>>
>>
#あくまで母体は大陸なわけで、人の移動はそれほど重要なことではないでしょう。全てが国産とは考えておりません。
前にも言ったと思うけど、私は「”全て国産”説」オリジナルは大陸で作られ、小数の鏡が入って来て、それを模倣した・・・という、「”一部魏鏡”説」です。
焦点は当時の畿内に模倣する技術があったのではないか・・・ということ。
>>
>>
>>
>>
>>
#今も昔も、器用・不器用な人はいるわけです。ゲームの原画家にもいるでしょう。下手な人と上手な人が。
「なんじゃ〜?!このヘタクソな絵は〜!」
って思っても、
「いや〜、この人のシナリオにはやっぱり、この人の絵じゃないと。」
ッて言う肯定する人がいる限りその人は原画家として食っていけるように、鏡の世界にもあったのではないでしょうか。
>>
>>
#それが出来ないから悩んでいるんです(^^;)。
悩んでてもはじまらないんで、開き直りますが(^O^)
古くは福○さんや、最近ではM○さんみたく。
まぁ、開き直るにもあそこまでの域には達したくないですが(^^;)
元の発言 [ Re: 三世紀にはそれほど差がないような気が ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 8月30日(木)03時17分01秒 ]
ALEXさん こんばんは
>>九州は2世紀の流入とすべき例が混入していないでしょうか?具体的には何処の例を数えていますか?
また、この時代は兵庫を畿内圏に含めたいと思うのですが、これだと畿内が突出してきませんか?
#兵庫にはこのグループの鏡が見当たりません。2世紀のものが入っているかどうかはよくわかりませんので、全部を抜書きします。『古代「おおやまと」を探る』218ページ(小山田宏一)
千葉 高部32号 上方作系浮彫式神獣鏡
千葉 高部30号 斜縁ニ神ニ獣鏡
長野 弘法山 上方作系浮彫式神獣鏡
長野 中山36号 上方作系浮彫式神獣鏡
岐阜 象鼻山1号 き鳳鏡
三重 東山 斜縁四獣鏡
奈良 ホケノ山 画紋帯同向式神獣鏡
奈良 ホケノ山 半肉彫表現の鏡
奈良 中山大塚 上方作系浮彫式神獣鏡
京都丹波 園部黒田 双頭龍紋鏡
京都丹波 太田南2号 画紋帯環状乳神獣鏡
岡山 七つ[土丸]1号 き鳳鏡
岡山 宮山 飛禽鏡
徳島 萩原1号 画紋帯同向式神獣鏡
香川 丸井 画紋帯環状乳神獣鏡
愛媛 朝日谷2号 斜縁ニ神ニ獣鏡
福岡 汐井掛28号木棺 飛禽鏡
福岡 馬場山41a土壙 双頭龍紋鏡
福岡 野方中原1号石棺 上方作系浮彫式神獣鏡
この19面です。それと、邪馬台国の考古学(石野博信)の42ページから上記にない10面も加えるべきかも知れません。
福井 岩内山D 飛禽鏡
奈良 見田大沢4 四獣鏡
京都山城 芝ヶ原 四獣鏡
京都丹波 狸谷17 獣帯鏡
京都丹波 成山2 飛禽鏡
徳島 庄 神獣鏡
香川 円養寺C 変形神獣鏡
福岡 外之隈II−2 飛禽鏡
福岡 郷屋 四禽鏡
大分 赤塚方周1 飛禽鏡
合計すると29面で、関東甲信4、東海2、北陸・山陰5、畿内5、山陽2、四国5、九州6となります。二つ本で記述法が異なりますので、モレや重複が数面あるかも知れません。
畿内に丹波や若狭を含めて近畿地方とすると近畿が多いと言えるかも知れませんが、それより、この分布のようすは「この卑弥呼の治世の時代は、日本各地の首長の実力は伯仲していた。卑弥呼は共立によって王となった」という当時の政治状況を正に表していると見てよいのじゃないでしょうか。
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られたか? ] お名前 [ 蛟児 ] 日付 [ 8月30日(木)19時00分19秒 ]
>> 「試鋳された」のは”外区・圏帯のない神獣鏡”であり、その原型とされたのが三角縁神獣鏡です。
外区・圏帯のない神獣鏡を作っておいて、他の外区との組み合わせにより、神獣鏡のバリエーションを作り出したのではないかとも言われている。
77種類というバリエーションの多さはこのような技法によるものではないでしょうか?
>>しかも、この鏡は、黒塚から出土したどの鏡よりも新しい。
新しいと言う事はどうして判るんですか?
>> >> 同地域に鏡作と名のつく神社が5つもあって鏡作部が住み、鏡を作る事を生業にしていた。
>> でも、いわゆる「舶載」三角縁神獣鏡以外に、歴然とした倭鏡は存在するんだから、仮に鏡作神社の地で古墳時代前期にも鏡を作っていたとしても、その鏡の第一候補は歴然たる倭鏡の方なのは当然。
当然倭鏡も作っていたでしょう。
だけど大勢の鏡職人がいて三角縁神獣鏡の需要が多ければこれを作ってみようと思うのは職人気質として当然で、たとえば三角縁神獣鏡の最初の数枚が中国から輸入されたとしてもこれのコピーを作ったと考えるのは自然じゃないかと。
畿内派の人には考えたくないでしょうが。
鏡作神社と黒塚古墳の位置関係が太陽信仰とも関係しているのではと想像してしまいます。
神獣鏡の試作を命じた?崇神天皇陵かとも言われる行燈塚も近くにあり、その関係は濃いのでは?
元の発言 [ Re: この時代の葬儀は・・・ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 8月30日(木)19時31分21秒 ]
>> >> 本持ってたはずだけど見つかりませんので見つけたら紹介しましょう。
>> お願いします。
>>
>> >> それより、アジアで最近まで行われてた殺人祭祀の後なんじゃと思ったりして。
>> >> 諏訪の御柱も元はそうじゃないかって祭だけど。
>> 銅鐸の謎ですか・・・?
いいえ違います。
稲作が伝わるともに、人を生け贄にする祭が伝わったようなのです。
池ちゃん さんが、諏訪なので詳しいと思います。
祭で木に縛り付けて殺したとか、あるみたいですから。
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られたか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月30日(木)18時10分21秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
晋の時代以降なら長江流域の銅を輸入する事も可能でしょう?
>> 公孫氏は山東半島まで勢力を伸ばしていたらしいですから、この辺から鏡作り職人が遼東に渡り、公孫氏が敗れると一緒に日本に亡命なんて線も考えられますね。
>>
>>
>>
>>
>>
城の中にいた人間はともかく公孫氏の支配した領域は広いし、皆殺しは無理でしょう。
>> では鏡作部は何を作っていたんですか?鏡を作ってこそ鏡作部でしょう?
>>
>>
>> 鏡作神社の神宝は崇神天皇の時に試鋳した神獣鏡だし、ここで三角縁神獣鏡を作らない筈はない。
>> 日本で一番需要の多い三角縁神獣鏡を作っていたと考えない方がおかしい。
>>
三角縁鏡も銅鐸の原料も同じだと言う話を聞いてますが。
銅鐸は国産の銅だったんですか?
銅鐸の原料輸入していたら鏡の原料も輸入したんでしょうね。
>>
>>
日本の模倣技術は昔からすごかった。(^^)
模倣は意欲さえあればそんなに難しくない。
かえって銅鐸よりやさしかったんじゃないかと思いますが。
>>
>>
中国(遼東かも)から来た技術指導者が死んだとか、粗製濫造がたたって人気が落ちたとか、流行すたれとか、理由は色々と考えられますが。
>> うーん、皇帝の命令でわざわざ卑弥呼の為に特別に作るんですからもっと良いものをと思うんですが、
>>
>>
>>
>>
技術者が死なずに生き残っていれば簡単でしょう。
要は意匠と石に彫刻するテクニックですから。
石に彫刻して青銅 溶かして流しこむだけ。
人さえ生き残っていればインフラなんて必要ない。
三角縁神獣鏡は粘土彫刻だからもっとやさしかったでしょうけど。
意匠は真似だけで出来る。
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られたか? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 8月31日(金)11時55分45秒 ]
>> 晋の時代以降なら長江流域の銅を輸入する事も可能でしょう?
晋の時代以降なら輸入可能だけど、△の銅は長江流域の銅じゃない。
ということは、△が作られたのは晋の時代以降じゃなさそうですね。
>> 三角縁鏡も銅鐸の原料も同じだと言う話を聞いてますが。
誰ですか?今どきそんなアホ言ってるのは?
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られたか? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 8月31日(金)06時55分42秒 ]
>> 外区・圏帯のない神獣鏡を作っておいて、他の外区との組み合わせにより、神獣鏡のバリエーションを作り出したのではないかとも言われている。
>> 77種類というバリエーションの多さはこのような技法によるものではないでしょうか?
誰がそんなこと言ったのですか?内区が同型で外区や圏帯が異なるような三角縁神獣鏡がありますか?
どちらにせよ、東ノ宮古墳出土三角縁神獣鏡の方が鏡作神社蔵神獣鏡より図文が鮮鋭であるということですから、鏡作神社鏡が東ノ宮古墳鏡の原型ではありえないのはわかりますよね?
>> >>しかも、この鏡は、黒塚から出土したどの鏡よりも新しい。
>> 新しいと言う事はどうして判るんですか?
編年上、新しく位置付けられる鏡である、ということです。
>> だけど大勢の鏡職人がいて三角縁神獣鏡の需要が多ければこれを作ってみようと思うのは職人気質として当然で、たとえば三角縁神獣鏡の最初の数枚が中国から輸入されたとしてもこれのコピーを作ったと考えるのは自然じゃないかと。
それは、ただの空想。実際に三角縁神獣鏡を作ったという証拠はないでしょう?
>> 畿内派の人には考えたくないでしょうが。
また、自分ででっち上げた畿内説を攻撃しているのですか?わたしは、いわゆる「舶載」三角縁神獣鏡の生産地に関しては、まあ、不明説です。以前は、大部分が国産だろうという考えに傾いていましたが、最近はどちらかといえば、魏・西晋鏡説に傾きつつあるといったところ。
ただ、はっきり断言できるのは、「牛頭氏の国産説」は評価するに足りない、ということです。
>> 鏡作神社と黒塚古墳の位置関係が太陽信仰とも関係しているのではと想像してしまいます。
なんだ、わかっているのですね。そう、単なるあなたの想像なのです。
>> 神獣鏡の試作を命じた?崇神天皇陵かとも言われる行燈塚も近くにあり、その関係は濃いのでは?
元の発言 [ Re: 勝山の資料bPについて ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 7月8日(日)00時07分25秒 ]
>> >> 色々新聞やテレビのニュースを見たのでどれかはっきりしませんが、「この材は、墳丘上での埋葬儀礼が行われた建物の部材で、儀礼終了直後に壊され、廃棄されたものと見られる。年輪の状態などから他の建物からの転用ではなく、また紫外線による劣化がなかったことから伐採後すぐに使われた物。」と言う新聞記事があったと思いましたが。
>> # そのような出所を確定できない情報で「このような発表を行う橿原考古学研究所は信頼できないと思いませんか?」などという発言をなさるのは慎み下さい。
ちょっと一服さんが下に毎日、読売、奈良新聞の記事の載った桜井市のHPの紹介をしてくれました。
新聞社のHPで検索しようとしたら、全て消されていて見る事が出来ませんでした。
私の発言と差の無い記事だと思いませんか。
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られたか? ] お名前 [ 蛟児 ] 日付 [ 8月31日(金)12時57分02秒 ]
>> 誰がそんなこと言ったのですか?内区が同型で外区や圏帯が異なるような三角縁神獣鏡がありますか?
孫引きで申し訳ないのですが、昔ここで飛んだハヤシライスさんが
http://www.netlaputa.ne.jp/~k-salt/bbs9912/bbs/13.html
「『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』(京都大学文学部)の巻末にある、三角縁神獣鏡三角縁神獣鏡目録によれば、外区は、唐草文帯、波文帯、獣文帯といろいろですが、三神二獣鏡が二十面ほど出土しています。この中に、外区は違っても内区が同型のものがあるのかどうか?」
のような発言をしておられます。
この辺りを私の能力では調べられませんが、誰か調査して明らかに違う事を証明済なのでしょうか。
>> どちらにせよ、東ノ宮古墳出土三角縁神獣鏡の方が鏡作神社蔵神獣鏡より図文が鮮鋭であるということですから、鏡作神社鏡が東ノ宮古墳鏡の原型ではありえないのはわかりますよね?
現物を自分で比較した訳じゃ有りませんから何とも言えませんが、
粘土で型を取ったあと不鮮明な所を彫り直すくらいは簡単な事だと思いますが?
ま、そうしたと主張したい訳でも 鏡作神社鏡が東ノ宮古墳鏡の原型と主張している訳でも有りませんが不可能ではないと思います。
>> >> 新しいと言う事はどうして判るんですか?
>> 編年上、新しく位置付けられる鏡である、ということです。
実際に試鋳された物は天皇に献上されて今のものは後からどこかで拾った(発掘した)ものと言う話もある。
>> それは、ただの空想。実際に三角縁神獣鏡を作ったという証拠はないでしょう?
でも、社伝に試鋳したとかいてあり、神獣鏡が残されている。
どちらにも決定的証拠はないので議論百出なんでしょう?
>> ただ、はっきり断言できるのは、「牛頭氏の国産説」は評価するに足りない、ということです。
そうですか?
かって鏡作部と言うのが鏡を作っていたと言う事を全く無視した制作地議論も評価するに足りないです。
>> なんだ、わかっているのですね。そう、単なるあなたの想像なのです。
物的証拠が提示できない以上、想像と言うしかありませんが。
他の専門家と言われる人たちもじぶん想像した事を学説として発表しているのだと思いますよ。
誰も物的証拠を示した人は未だいないのですから。
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られたか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月31日(金)13時26分28秒 ]
>> ということは、△が作られたのは晋の時代以降じゃなさそうですね。
>>
△は東晋代に作られたものだという本を書いてるドンデモおぢさんを意識してのカキコであります。
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られたか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月31日(金)13時22分53秒 ]
>> 銅鐸の原料輸入していたら鏡の原料も輸入したんでしょうね。
>>
>>
そのスクラップ銅の産地は?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
一時的流行だったんじゃないですか?
神獣鏡はしょせん飾りですから必要ない技術ですから、流行が収まればすたれて当然。
大きな古墳作って副葬品たっぷり入れる事は止めようと言う事になって神獣鏡も消えた。
>> かえって銅鐸よりやさしかったんじゃないかと思いますが。
>>
なんで?
>>
>>
私も西晋の影響は否定していません。肯定もしていませんが、魏鏡であると言う事に疑問を持っているのです。
その後で必要無くなればすたれる。要は装飾鏡作りに賭ける情熱が失われただけ。
>> 技術者が死なずに生き残っていれば簡単でしょう。
>> 要は意匠と石に彫刻するテクニックですから。
>> 石に彫刻して青銅 溶かして流しこむだけ。
>> 人さえ生き残っていればインフラなんて必要ない。
>> 三角縁神獣鏡は粘土彫刻だからもっとやさしかったでしょうけど。
>> 意匠は真似だけで出来る。
>>
>>
日本の話でなく魏の景初年間の鏡製造技術復元の話です。
そうそう、古代の製法そのままで作った?三角縁神獣鏡のレプリカが通信販売かなんかで買えるそうです。
買ってみませんか?
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られたか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月31日(金)15時33分36秒 ]
>> 現物を自分で比較した訳じゃ有りませんから何とも言えませんが、
>> 粘土で型を取ったあと不鮮明な所を彫り直すくらいは簡単な事だと思いますが?
おにりんさん、あなたは、実際になんでもよいから鋳造をやったことありますか?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
確かに、石型と鏡で粘土型、砂型は、違うでしょう。
ですが、鋳造自体の技術であれば、銅鐸のほうがはるかに高度であり難しい。
少しでも鋳造技術を木型作りからやったことありますか。
特に、屑銅の再生ならその職人芸はすさまじく高度なんですよ。
その点、技術が分かって発言してるんですか。
私は、芸術品ではないですが、鉄とアルミの砂型による鋳造実習の経験が、ありますが、聞いていると鋳造のことがわっかっているのかと半可通でもわかるようなことをかいている。
元の発言 [ Re: この時代の葬儀は・・・ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月30日(木)23時31分47秒 ]
出土例があるわけだから否定はできませんよね。
が,ま,しかし,一応,基本的には,
殉死に代わる供献用の祭祀用具らしいあたりにしておかないと,,,(^^;
初めて特殊器台を見たときには,
傘立てや七輪を想起しましたな。
上に器を置いたと聞いたときには,
やっぱり七輪かコンロだろうから,
道教の練丹用とか,水銀朱などの金属精製用具か,
その象徴的容器みたいな,ごくありふれた発想に。
しかし,容器には穿孔が・・・(^◇^)
ところで,旧約聖書によると,ユダヤ人は,
神殿で獣脂を焚いて動物を集めたようです。
ここから類推すると,殉死者が仮に,
垂仁紀の記述から推定して,
風葬・鳥葬・獣葬に共されたものであるとすれば,
特殊器台ふうの祭器を用い,殉葬者を喰わせる目的で,
鳥や獣をおびきよせるために,
獣脂を焚くための儀式があったかもしれない・・・。
こうして鳥・獣が墳墓の守り神へと昇華する,
という銅鏡がらみでの神獣的発想へ飛躍。
しかし,容器には穿孔が・・・(^◇^)
その他,いろいろと確度の高い情報が得られないので,
この発想は焦げ付いたままです,,,(^◇^)
風葬・鳥葬の件については,
たまたま鳥や獣に突つかれたわけではなく,
もともと風葬・鳥葬・獣葬であるがゆえに,
遺骸は喰い散らかされて残らない,
と考えたわけです。
前にも書きましたが,三輪山の隠れ御神体(眷属)が,
蛇の他,ミミヅクなどの猛禽類を暗示しているかもしれない。
としたら,それ自体が,
獣葬・鳥葬の風を示唆しているのではないか,
とかも・・・。
元の発言 [ Re: 勝山の資料bPについて ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 7月7日(土)23時54分33秒 ]
>> 伐採年が,西暦199年+4〜12年以内の幅ということだそうです。
>> つまり,203年から211年ということだそうです。
>> また,布留0式の行われた時期は遡ることが判明した,
>> いや,出土状況の検証が必要である,
>> というふうに,確かに見解は分かれているそうです。
>>
>> 要するに,年輪年代測定から時代を特定する補完的な技法は研究されていない,
>> ということなんでしょうか。
>>
>> # 自信たっぷりげだけど,,,(^^;
桜井市のHP紹介有難う御座います。助かりました。
新聞社のHPで検索しようとしたら、全て消されていて見る事が出来ませんでした。
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られたか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 8月31日(金)15時33分36秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
私、中学校で鏡作った事があるんですよ。
その時は粘土でやりました。
大昔ですからはっきりは覚えていませんが木の枠に粘土詰め込んで空気と水分を追い出すために木槌でガンガン叩いた後、平らにしてリケイ剤とかいうのを塗った元型を押し付けて型を取り、乾燥させる。
そして青銅を流し込むと言う手順だったと思います。
受験に関係ない授業なのでいい加減に遊んでましたが。
元型を外す時、元型の方にくっついてきた粘土の所をくっつけ直した記憶があります。
出来は所々穴があいていまいちでしたが先生は乾燥が不十分だったからと言っていました。
その時の記憶があるので鏡作りなんか簡単だと思っているのです。
砂型なんかオートバイのシリンダーヘッドのような複雑な立体物を作るのには必要でしょうけど、古代人は鏡作りにも砂型使ったんでしょうか。
ホケノ山の画紋帯神獣鏡はその綺麗さから石型を用いたと言われているようですがその辺はどうなんでしょう。
すいません。7月はさぼりました。
元の発言 [ Re: 黒塚古墳の鏡は田原本町で作られたか? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 8月31日(金)15時00分43秒 ]
>> この辺りを私の能力では調べられませんが、誰か調査して明らかに違う事を証明済なのでしょうか。
# 証明済みです。というより、ちょっと調べれば誰にでもわかります。
>> どちらにも決定的証拠はないので議論百出なんでしょう?
# 議論百出ではありません。あなた以外は誰も問題にしていません。
>> かって鏡作部と言うのが鏡を作っていたと言う事を全く無視した制作地議論も評価するに足りないです。
# 誰も無視してなどいませんよ。内行花文鏡を作っていたのが鏡作部であるという説は誰でも考慮しているものと思います。
元の発言 [ Re: この時代の葬儀は・・・ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 8月31日(金)18時50分47秒 ]
一応,訂正です。
文中,殉死→殉葬
元の発言 [ 勝山の資料bPについて ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 7月4日(水)23時16分20秒 ]
ALEXさん 先月はいろいろ教えていただきありがとうございました。
ちょっと、気になったのですが、
橿考研のホームページを見ますと、今回の木製品が見つかった第4次調査第1調査区のところに、中世のころに掘られたと見られる穴(不明遺構9002)があって、その中から弥生土器(後期)・古式土師器が見つかっていて、これらが多分報道の布留0式土器なのではないかと思います。で、年代測定した木製品は、その穴より下の相で見つかっていますので、そもそも、土器と木製品が同時期に投棄されたものかどうかは、なんともわからないということじゃないでしょうか。
それと、大したことではないかもしれませんが、
木製品が周濠埋土中から見つかったということですが、これからわかることは、勝山が築造された当初は空濠だったということですよね。もし、水が張ってあったら、木製品が浮いてしまいますものね。すくなくても何年かは空濠の状態になっていて、木製品が捨てられた後しばらくたって自然に土中へ埋没した後に水が張られたということなんじゃないでしょうか。
もしかすると、水が張られたのは、農業用の溜池として中世のころに使われたとき?
元の発言 [ Re: 勝山の資料bPについて ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 7月8日(日)00時07分25秒 ]
>> # そのような出所を確定できない情報で「このような発表を行う橿原考古学研究所は信頼できないと思いませんか?」などという発言をなさるのは慎み下さい。
#テレビのインタビューで「これで邪馬台国が大和にあったことが確定的になった」と、橿原考古学研究所の職員が言っていたのを、見た気がしましたが、ビデオに撮ってないので、きっと私の記憶違いでしょう。
元の発言 [ Re: 承前 「言語の興亡」読みました. ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月6日(金)02時09分15秒 ]
>> #いずれにせよ、このイメージに従って、「仮想的な最初の現代人」がムスティエ語をクレオール化して最初の現代語を作ったに違いない、と私は思うのです。
>>
#そうかもしれないけど、そうでないかもしれない。
おにりん説が、ヒト属の新しい種の出現と新しい文化の出現の間に何度も見られた時間の差を明快に説明していることは評価しますが、おにりん説に潜む多地域進化説のニオイが気に入りません(最後のほうを参照)。
>>
>>
#音声言語としてのムスティエ語があったなら、直ちにクレオールが出現しただろうというのが、私の考えです。構文を持った言語の習得は「本能」ですから、その習得は文化によらない。ムスティエ語なるものを具体的にイメージするのは困難ですが、現代人以前にはいかなる形の音声言語もなかった、とは考えにくい。
>>
>>
>>
#あらゆる現代人が、苦労せずにことばを習得することに疑問の余地はありません(これをビッカートンは「本能」と呼んでいます)。おにりんさんの「智恵の遺伝子」は、言語の習得には関与していません。
>>
>>
#カンジの場合、胎児の時から英語を聞いており、2歳まで母親が教育を受けるそばで遊んでいたことが決定的に重要でしょう。
しかしカンジの例は逆に、我々の言語習得能力の起源が非常に古いことも示しています。我々の言語能力も、現代人の段階で突然獲得したものではありえず、すべてのヒト属がその進化段階に応じた言語能力を持っていたことを暗示しています。
>>
>>
>>
>>
#イブは現代人であった、と主張するということは、1)はありえないと主張することです。おにりん説は基本的に多地域進化説です。
元の発言 [ Re: Title 古事記偽書説 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 7月5日(木)12時44分12秒 ]
>> >> 『古事記』偽書説は、昔から多くの人が唱えているようです。
>> >> 最近では、大和武雄『古事記成立考』(大和書房1997)があります。
>> >> この本は『古事記』研究者必読の本かもしれません。
>> >> 過去の偽書説が論拠別に整理され、客観的に解説されています。
>> >> ただ根本的な誤りがあります。
>> 『古事記』そのものを研究する必要性があると思います。
>> その件、何ですが風土記などの記述には、他の正史で削除されたようなのが、残っていることがあるとききました。
>> この方面からの、アプローチは難しいですか。
一般論としては、可能だと思います。
難しいか?どうか。
日本の古代史を見る新しい視点、正しい視座が確立されれば、案外「易しい」かもしれません。
しかし現在の私には、かなり難しい作業です。
いま私は、『古事記』を自分自身で読み解くことによって、日本の古代史を見直そうとしています。
一つ一つ「正しい知識」を求めて、『真福寺本古事記』原文の古漢字を調べ、正しい読み方を探しています。
今回のように「伊邪那天」が、インド神話の「シバ」に関わるとなれば、その部分のインド神話を参考にすることもあります。
しかしインド神話の研究から、『古事記』を論証する気にはなれません。
『風土記』に関しても同じです。
まず『古事記』本来の姿を知りたいのです。
本来の『古事記』には、何が書いてあるのか?
それを知りたいのです。
私が求めるのは「正しい知識」です。
「誤った博識」から論じられる「クイズ番組の模範解答」的議論には、あまり興味がありません。
>> その件、何ですが風土記などの記述には、他の正史で削除されたようなのが、残っていることがあるとききました。
まず『古事記』は、「正史」ではありません。
よく「記紀」という言葉が使われますが、その用語、用法自体が誤りでしょう。
『古事記』と『日本書紀』は、対峙する立場、まったく異なる思想を背景に書かれ、成立しています。
※水林彪/法制史研究47『「古事記」への道』(法制史学会1998)参照。
『古事記』(712)は、『日本書紀』草稿(710頃)の批判書として書かれた。
私は、そう確信しています。
※森博達『古代の音韻と日本書紀の成立』(大修館書店1991)及び『日本書紀の謎を解く』(中公新書1999)参照。
『古事記』上巻のタイトルには、「序并」と注意書きが明記されています。
古漢字の字義を調べると、「序」には、「内実を打ち明ける」という意味があるのです。
本来の『古事記』には、「他の正史で削除されたような」ことが、わざわざ注意書きされて、数多く書かれているのです。
ただし現在の一般的な『古事記』は、改竄され、誤訳されたもので、偽物といって過言ではありません。
したがって『古事記』刊行本からは、その内容が分かりません。
『古事記』の原典を読直し、正しく解釈し、現代語に翻訳する必要があります。
※関根聡『古事記正解』(http://www.neonet.to/kojiki/)参照。
ところで『日本書紀』や『続日本書紀』など「正史」そのものにも、「削除しきれず」記載されたことを見つけることができます。
叙述者の立場からみれば、「書かずにはいられなかった」ことなどが、検閲の眼を逃れて残されています。
「正史」叙述者は、必ずしも体制側の人物ではないのです。
例えば『続日本書紀』巻第九の養老6年(722)4月20日と4月21日。
・・・・・四月二十日 次のように詔した。
即捌国の前の守である従五位上の山田史御方が、監督の現職にありながら、官物を盗む罪を犯してしまった。法理によれば官人を除免することになるが、これより先に、恩赦によってすでに罪を許した。しかし法律によって盗んだ財貨を弁償させようとしたが、家には一尺の布もない。朕が思うのに、御方は笈を負うて遠国に遊学し、帰朝の後、生徒に学を伝えた。文館(大学)の学生は大へんよく文章を解することができた。まことにこのような人物をあわれまないと、おそらく文章の道が衰えるであろう。そこで特に恩寵を加え、かすめた財貨を徴収しなくてよいこととする。
・・・・・四月二十一日 次のように詔した。
朕ははるかに千年の歴史を思い、広く学問の諸流を見て、くわしく政治の方法を考えてみたが、あわれみと思いやりに基づく方式より勝れたものはない。それ故遠方の地域も差別することなく、あわれみ恵み、国内の隅々まで慈しみ育てる思いやりを及ぼした。今、有司の奏言によると、諸国の罪人はすべてで四十一人、法に照らすと全員流罪以上に当る者であるという。朕はこの奏言を聞いて大へんこれを哀れに思う。国中何処でも罪を犯す者があれば、その責任は吾一人にある。そこで奏上された罪人およびその罪にかかわりのあった者は、全員放免せよ。後から取調べすることも禁ずる。
この日、唐人の王元仲が、初めて船足の速い舟をつくり天皇に進上した。天皇は大へんほめたたえて、従五位下の位を授けられた。
またこの日、主税寮に史生二人を増員した。前からのものと合せて六人となった。
ここに登場する山田史御方は、『日本書紀』の述作者として、森博達氏によって論証されています。
その『日本書紀』奏上の記録は、『続日本書紀』巻第八の養老4年(720)5月21日にあります。
・・・・・五月二十一日 太政官が次のように奏上した。
諸宮司から諸国に伝達する些細なことがらの類は、現行のように白紙に無印のままで下知することは、道理において好ましくはありません。しかし更に天皇の印を申請すること
は、天皇のご判断を煩わすことになるでしょう。よって今後は、文武百官が諸国に下す符(命令文書)は、大事以外の場合は、逃亡した衛士・仕丁の代替者の指名、年料(一年間に諸宮司が必要とする物資)の督促、残物の転用、あわせて兵衛・耗がなどを資養するための物資、などといった類のことについては、太政官の公印を押させることを要望します。
この奏上を許可された。
基準とする尺度の見本を諸国に頒布した。
これより先に一品の舎人親王は、勅をうけて日本紀の編纂に従っていたが、この度それが完成し、紀(編年体の記録)三十巻と系図一巻を奏上した。
奇妙だと思いませんか?
日本初の正史完成の記録は、たった一文なのです。
それも太政官奏上の「業務文書」作成法に関する、長い説明、提案の後に、付け足しのように記されているのです。
当時の編纂責任者を記し、あとは巻数しか書いてありません。
その後、『日本書紀』の叙述者・山田史御方が公費の使い込みをします。
しばらくして発覚するが、恩赦で無罪。
養老6年(722)4月20日には、盗んだ財貨を弁償も赦されています。
さらに翌4月21日には、それに関わって罰せられた者に恩赦が与えられています。
おそらく「主税寮に史生二人を増員した。前からのものと合せて六人」というのは、そのうち二人の処遇でしょう。
その処遇の理由こそ、『続日本書紀』叙述者の「書かん」とした歴史と考えられます。
唐突なようですが、この奈良朝史の一こまを念頭に『竹取物語』を読直してみて下さい。
これまで歴史家や文学者が、長い間、見逃してきた歴史的事実。
それが見えてくると思います。
歴史的な作品は、好むと好まざるにかかわらず時代や社会の構造を反映します。
作品そのものに、暗黙の歴史が記されています。
まして意図的に「歴史」を記そうとした作品は、直接的、間接的に歴史的な事実を前提に記述されます。
まず作者の企図を斟酌することが重要です。
書かれた歴史を、史実と考えるか?
また史実として論証できるか?
それは、歴史家、あるいは歴史に興味を持つ知識人の感性と、力量次第です。
いづれにせよ通説の古代史観からは、どんなに博識を誇ろうとも、日本の上代、古代の歴史は明らかにならないでしょう。
元の発言 [ Re: Title 古事記偽書説-『古事記』や『日本書紀』を観る視座 ] お名前 [ 関根 聡 ] 日付 [ 7月8日(日)15時41分19秒 ]
>> ・・・・・四月二十日 次のように詔した。
>> 即捌国の前の守である従五位上の山田史御方が、監督の
上記「即捌国」は、「周防国」の誤りです。
お詫びの上、訂正させていただきます。
なお『続日本書紀』の掲載文は、講談社学術文庫版の文章を「読んでココ」を使って、読み取らせていただきました。
元の発言 [ Re: 勝山の資料bPについて ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月8日(日)05時46分14秒 ]
>ちょっと一服さんが下に毎日、読売、奈良新聞の記事の載った桜井市のHPの紹介をしてくれました。
# ごらんになったホームページは、桜井市職員自主研究グループ「桜井インターネット研究会」の企画・制作のものです。桜井市のHPではありません。
あなたの発言>勝山の場合は50cmも浮いていたのにどうして古墳築造直後という事になるのでしょう。
橿考研の発表>これらの遺物は、周濠底面から30pから50p程度浮いた状態で出土しており、墳丘築造後一定期間を経た後に投棄されたものと考えられる。《中略》木材の伐採から製材、加工にかかる時間幅、および、使用から廃棄に至る経緯やその間の時間幅を《中略》極端に長く見積もる必要はないものと考えられる。
# あなたの発言は橿考研の発表内容と全く違っております。
橿考研の発表内容は容易に入手できるものです。この掲示板でも何度か引用されています。にもかかわらず新聞報道の記憶に頼って
>*勝山の年輪年代測定資料bPの測定値が正しかったと仮定して、その発表の仕方に問題があると思います。
>発表の仕方に何か恣意的なものを感じてしまうんですが。
というような発言をなさることは著しく適切性を欠くものと思います。
元の発言 [ Re: 勝山の資料bPについて ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月9日(月)06時37分17秒 ]
>> 橿原考古学研究所の職員の発言でないにしても、当時はニュースキャスターまでが「かなり有力になった。」と発言していたようです。
>> そして橿原考古学研究所はマスコミが「確定」と取れる発言するのを容認していた訳です。
# 容認と言うか、それに近い見解だと言うことでしょう。
>> ホケノ山と勝山古墳で周濠の底から浮いた状態で発掘されたことに対する見解が違うのはどうした事でしょう。
# 再三申しますが「見解が違う」ような事実はないと思います。
元の発言 [ 勝山古墳の周濠と土器と木製品 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 7月8日(日)10時33分05秒 ]
>> それと、大したことではないかもしれませんが、
>> 木製品が周濠埋土中から見つかったということですが、これからわかることは、勝山が築造された当初は空濠だったということですよね。もし、水が張ってあったら、木製品が浮いてしまいますものね。すくなくても何年かは空濠の状態になっていて、木製品が捨てられた後しばらくたって自然に土中へ埋没した後に水が張られたということなんじゃないでしょうか。
>> もしかすると、水が張られたのは、農業用の溜池として中世のころに使われたとき?
30-40年ぐらい浮いててくれると都合がいいのですが。
すいませんジョークです。
浮いてたら腐ります。
元の発言 [ Re: 勝山の資料bPについて ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 7月9日(月)06時44分57秒 ]
>> 橿考研の発表>これらの遺物は、周濠底面から30pから50p程度浮いた状態で出土しており、墳丘築造後一定期間を経た後に投棄されたものと考えられる。《中略》木材の伐採から製材、加工にかかる時間幅、および、使用から廃棄に至る経緯やその間の時間幅を《中略》極端に長く見積もる必要はないものと考えられる。
>> # あなたの発言は橿考研の発表内容と全く違っております。
「墳丘築造後一定期間を経た後に投棄(中略)極端に長く見積もる必要はない」と言うのが曲者ですね。
10年20年経てとは取れませんから、通常は葬儀が終了すると同時で一年以内と考えるでしょう。
50年、100年の時間を問題にしている時、1年以内なら直後と言っているのと同じです。
ホケノ山の時は「周濠底から少し浮いた状態で布留0式土器が見つかっているため、築造年代は布留0式期(纏向3式後)より前、庄内期である。」と言う発表があった。
と言う事と対比して考えると
>> >発表の仕方に何か恣意的なものを感じてしまうんですが。
と感じるのは当たり前じゃないでしょうか?
元の発言 [ 津に臨んで捜露する ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 7月1日(日)19時27分37秒 ]
いくつか“「誤記」だという説に従う”ということが記されていますが、「誤記」という根拠を示した人は皆無のはずです。
古田武彦先生の一連の著作を、読み直し(あるいは、読んでおられないかもしれませんが)されたほうがよいのではと感じます。
“うまい考えが見出せずにいる”ということは、ほとんど解決するとおもいますよ。
元の発言 [ Re: 津に臨んで捜露する ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 7月9日(月)17時29分41秒 ]
その、古田武彦先生 は不弥国についてどのように書いておられるのでしょうか?
元の発言 [ Re: 勝山の資料bPについて ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月9日(月)11時40分35秒 ]
>通常は葬儀が終了すると同時で一年以内と考えるでしょう。
>50年、100年の時間を問題にしている時、1年以内なら直後と言っているのと同じです。
# 「一定期間」を「1年以内」と解釈するのは牛頭天王さんの独自の見解であって橿考研の見解とは著しく相違するものです。
# 橿考研は以前の調査報告で、勝山古墳を「その築造時期が庄内式期に遡る可能性が高い」と報告しています。当然ながら、今回この点に関する修正の発表はありません。
今般の発表で、橿考研はこれらの遺物が「周濠底面から30pから50p程度浮いた状態で出土しており、墳丘築造後一定期間を経た後に投棄されたものと考えられる」とし、また「出土土器から、廃棄の時期は、寺沢編年の布留0式期と推定」としています。
したがって「一定期間」とは、墳丘築造後に周濠底埋土が30pから50p堆積する時間幅に相当し、墳丘築造時点は布留0式期から「一定期間」溯った庄内式期であることを示唆するものと判断できます。この時間幅は「極端に長く見積もる必要はない」とされますが、もとより極端に短く見積もることが層位的に不合理であること言うまでもありません。
したがって
>勝山の場合は50cmも浮いていたのにどうして古墳築造直後という事になるのでしょう。
# というのは、「墳丘築造後一定期間を経た後」を「古墳築造直後」と読み替える牛頭天王さん独自の解釈の不合理に過ぎず、橿考研の問題ではありません。また
>ホケノ山の時は周濠の底から浮いて発見された物を浮いているから、時代が経ってから捨てられた物と発表し、勝山の時は同時期に捨てられたと発表するのは変です。
というような「同時期に捨てられた」という変な発表も実在しません。
勝山の報道発表資料で示された時間軸は
1:推定伐採年代(「新しく見積もっても西暦210年を降らない」)
2:古墳築造年代(3世紀前半中;庄内式期)
3:木片廃棄年代(布留0式期)
のとおりであり、ここでは3:布留0式期の実年代のみが示されていない。
橿考研の「勝山古墳の推定築造年代を3世紀前半の中におさまる」という結論は、「その築造時期が庄内式期に遡る可能性が高い」という以前発表の見解と擦合すると布留0の開始が3世紀後半間もない頃まで溯るという見解と整合性があり、波紋は大きいと思われる。
寺沢、柳田ともに自らの支持する年代観が更に1世代溯る可能性を認めているのは以前からのことであるが、一般的にはまだ抵抗感は大きいのであろうか?
二口かみあれたの年輪年代、朝日山2号のC14測定結果はともに布留0に260年前後の絶対年代を与えており、紀年銘鏡の出土状況との整合性も実に明快なものになってくるが、試料点数そのものの少なさが難点ではある。
元の発言 [ Re: 勝山の資料bPについて ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 7月10日(火)06時02分40秒 ]
>> 今般の発表で、橿考研はこれらの遺物が「周濠底面から30pから50p程度浮いた状態で出土しており、墳丘築造後一定期間を経た後に投棄されたものと考えられる」とし、また「出土土器から、廃棄の時期は、寺沢編年の布留0式期と推定」としています。
当時、マスコミに対してそのようなレクチャーをしたのでしょうか?
むしろマスコミが直後と誤解するのを期待していたのでは?
一定期間を「極端に長く見積もる必要はない」などと付け加えるあたりに恣意的なものを感じるのです。
一定期間と言う時間を「出土土器から、廃棄の時期は、寺沢編年の布留0式期と推定」と言うなら
寺沢さんがあえて異議を唱える筈はないのではないですか?
寺沢さんが慎重意見を述べられたのは「直後と誤解する」ような発表だったからでしょう。
>> したがって「一定期間」とは、墳丘築造後に周濠底埋土が30pから50p堆積する時間幅に相当し、墳丘築造時点は布留0式期から「一定期間」溯った庄内式期であることを示唆するものと判断できます。この時間幅は「極端に長く見積もる必要はない」とされますが、もとより極端に短く見積もることが層位的に不合理であること言うまでもありません。
>> 「同時期に捨てられた」という変な発表も実在しません。
しなくても、誤解をさせるような発表をした事は間違いありません。
発表時に配られたパンフに更に記者などが質問すると思うのですが「祭祀が終わった直後に廃棄された。」
「紫外線による傷みがないので古材の転用は考えられない。」などは橿原研の会見時の質議応答には
なかったのでしょうか。
本当にマスコミが勝手に出鱈目を言ったのだと言うのですね。
パンフレットには後で突っ込まれて困らないように当たり障りなく書いて、オフレコで誤解を煽るような事を
しゃべった可能性はないのでしょうか?
元の発言 [ Re: 勝山古墳の周濠と土器と木製品 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月9日(月)14時57分13秒 ]
>> 30-40年ぐらい浮いててくれると都合がいいのですが。
>>
>>
>>
>> 浮いてたら腐ります。
>>
>>
>>
>>
有ります。
材木のひずみやそりをなくすために雨曝しひざらしにして数年ぐらいは、当たり前。
その後陰干しにし乾燥させるんです。
その期間は、材質や目的にもよりますが、100年ぐらいのものは良く聞きます。
元の発言 [ Re: 勝山古墳の周濠と土器と木製品 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 7月10日(火)10時20分10秒 ]
>> >> 伐採した直後の木よりも、丸太状態で、水に浮かせて、
>> >> それから、乾燥させて、ってやると、何年くらいかかる
>> >> でしょう?
>> >> まっさか、数十年ということもないか。
>> 有ります。
>> 材木のひずみやそりをなくすために雨曝しひざらしにして数年ぐらいは、当たり前。
>> その後陰干しにし乾燥させるんです。
>> その期間は、材質や目的にもよりますが、100年ぐらいのものは良く聞きます。
http://www.shimamura.co.jp/shopping/pickup/monthly/timeless/story.html
「木材を保存するのに水中は良い環境といえます。現在でも木場とよばれる木材の集まる所では海に木材を浮かべています。
タイムレスティンバーについて言えば、空気中の酸素、直射日光の影響をあまり受けない寒冷地の水温の低い湖に沈んでいたためより良い環境だったと言えます。
また、木材をギターの材として使用する場合、その木の内部に含まれる不純物をどう取り除くかというのは大きな課題ですが、タイムレスティンバーは水中のバクテリアが時間をかけて木材の不純物を食べ尽くしたことにより、その繊維が壊れずさらにレゾナンスが30%アップしています。好条件が重なり、理想的なギター材となりました。」
これは250年湖底に沈んでいたそうです。
但し、浮いていれば紫外線にさらされ劣化が激しいでしょう。
橿原研の発表とは相容れませんね。
池や川岸の杭など喫水部分が一番傷みます。藻がついたりして腐敗菌などが繁殖し易くなるからでしょう。
一番傷まないのは投棄直後に土をかけられて雨や空気に曝されない事です。
元の発言 [ Re: 勝山古墳の周濠と土器と木製品 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月10日(火)13時27分04秒 ]
>> http://www.shimamura.co.jp/shopping/pickup/monthly/timeless/story.html
>> 「木材を保存するのに水中は良い環境といえます。現在でも木場とよばれる木材の集まる所では海に木材を浮かべています。
>> タイムレスティンバーについて言えば、空気中の酸素、直射日光の影響をあまり受けない寒冷地の水温の低い湖に沈んでいたためより良い環境だったと言えます。
>> また、木材をギターの材として使用する場合、その木の内部に含まれる不純物をどう取り除くかというのは大きな課題ですが、タイムレスティンバーは水中のバクテリアが時間をかけて木材の不純物を食べ尽くしたことにより、その繊維が壊れずさらにレゾナンスが30%アップしています。好条件が重なり、理想的なギター材となりました。」
>> これは250年湖底に沈んでいたそうです。
>> 但し、浮いていれば紫外線にさらされ劣化が激しいでしょう。
>> 橿原研の発表とは相容れませんね。
>> 池や川岸の杭など喫水部分が一番傷みます。藻がついたりして腐敗菌などが繁殖し易くなるからでしょう。
>> 一番傷まないのは投棄直後に土をかけられて雨や空気に曝されない事です。
お書きになっていることと引用している文の主張が食い違っているように見えますが?
元の発言 [ Re: 承前 「言語の興亡」読みました. ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月8日(日)16時45分31秒 ]
>>
>>
#オーストラリアの5万年前とされる遺跡はムスティエ的なんでしょうか、後期旧石器に入っているんでしょうか。この大陸はその後、他の地域とはほとんど交流が無かった、という通説はどの程度正しいんでしょうか。おにりん説はオーストラリアの歴史でかなり検証できそう。
>>
>>
>>
>>
>>
#だからさあ。このモデルは、『世界各地に進出した「智恵の遺伝子」を持たないイブの子孫達の間に「智恵の遺伝子」は相当広く拡散した』、という多地域進化説そのものでしょ。100万年の多地域進化説は認めないけど、15万年の多地域進化説を自ら主張するという矛盾はどう説明するんですか。
>>
>>
#誤解していません。上に述べたとおり、関係ないという主張は基本的に多地域進化説です。
>>
>>
>>
#もちろん、こういう意味で関係あるわけ無いけど。
#訂正。「本能」と呼んだのはビッカートンではありませんでした。
→『言語を生み出す本能』スティーブン・ピンカー、NHKブックス
前にも書いたと思うけど
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種ってことは
女王国が海の東端にあるわけですよね。
たとえば畿内が中心として、三重方面まで含むとします。
ところが、実はマキムクには尾張の物がかなり入っています。
じゃ尾張までが女王国とすると、これは変です。
またかなり尾張が重要な意味をもっていた場合、何で書かれて
いないのか?名前が違って書かれているのかもしれませんが
遠絶とか書かれていて、ちょっと変。
どうも情報が混乱しているのではないかと思ってしまうのだが。
よくわかりません。
元の発言 [ Re: ???? ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 7月10日(火)20時32分33秒 ]
>> >> これは250年湖底に沈んでいたそうです。
>> >> 但し、浮いていれば紫外線にさらされ劣化が激しいでしょう。
>> >> 橿原研の発表とは相容れませんね。
>> >> 池や川岸の杭など喫水部分が一番傷みます。藻がついたりして腐敗菌などが繁殖し易くなるからでしょう。
>> >> 一番傷まないのは投棄直後に土をかけられて雨や空気に曝されない事です。
>> お書きになっていることと引用している文の主張が食い違っているように見えますが?
引用したのは木場の水が淀んで腐ったりしなければ水の中も木の保存には適していると云っているのです。
しかし浮いた状態では紫外線による表面の傷みは出るから橿原研の発表とは食い違っているし、放置されて干上がってしまったり、埋もれてしまうような状況ではかえって腐敗を早めてしまいます。
その辺のことを汲み取ってもらいたかったのですが言葉足らずですみません。
元の発言 [ Re: 勝山の資料bPについて ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月10日(火)09時20分27秒 ]
>> パンフレットには後で突っ込まれて困らないように当たり障りなく書いて、オフレコで誤解を煽るような事を
>> しゃべった可能性はないのでしょうか?
# 橿考研が、勝山古墳及び石塚古墳を最古グループの古墳の一つと考えている姿勢には、この記者発表時点でもいささかの変更も見受けられません。
また、先ごろ調査報告書が上梓されたホケノ山については定式化直前段階のものであって最古の古墳とは認めがたいという姿勢も現在まで一貫しています。ところが、ホケノ山が庄内式期の築造であることは明らかでありますので、それより古いものと考える勝山のことを報道陣に布留0の築造と誤認させるようなミスリーディングを行なうことはありえません。
布留0の上限が一気に3世紀初頭に跳ね上がるかのような報道はマスコミのお手つきに過ぎず、九州説支持者の皆さんも一喜一憂する必要はありません。
余計な解釈を交えなければ、墳丘上構築物もしくはその収蔵品の製造年代が3世紀第1四半期前半、破棄年代が布留0式期というだけのことでしょう。
元の発言 [ Re: ???? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 7月11日(水)03時24分24秒 ]
>> >> >> これは250年湖底に沈んでいたそうです。
>> >> >> 但し、浮いていれば紫外線にさらされ劣化が激しいでしょう。
>> >> >> 橿原研の発表とは相容れませんね。
>> >> >> 池や川岸の杭など喫水部分が一番傷みます。藻がついたりして腐敗菌などが繁殖し易くなるからでしょう。
>> >> >> 一番傷まないのは投棄直後に土をかけられて雨や空気に曝されない事です。
>> >> お書きになっていることと引用している文の主張が食い違っているように見えますが?
>> 引用したのは木場の水が淀んで腐ったりしなければ水の中も木の保存には適していると云っているのです。
>> しかし浮いた状態では紫外線による表面の傷みは出るから橿原研の発表とは食い違っているし、放置されて干上がってしまったり、埋もれてしまうような状況ではかえって腐敗を早めてしまいます。
>> その辺のことを汲み取ってもらいたかったのですが言葉足らずですみません。
すみません。私の記述の足りないところが、勘違いさせてしまう原因になっているようですね。
木材は、伐採されてから、一定期間水に浸けたり乾かしたり、また、露天に置かれ風雨天日にさらされることで
反りや歪みを出し加工した後の変形を起こさないように処理されるのが普通です。
その後、陰干しにして乾燥させて保存するのが、基本的な手順です。
問題は、その木片が、いったい何に使う目的で処理されたかと言うことになります。
精密な、木工品であれば、100年の乾燥保存による枯らしをされても当たり前なのです。
普通でも、数年の枯らしを行なうのが良いとされています。
現在では、時間が取れない場合、薬品処理や、煮たりして枯らすようにしているようです。
肝心の、サンプルは、何に使われていたものなのでしょう。
その製品によっては、加工されるまで木が切られて20年から50年くらいたつのは、ざらにあることです。
元の発言 [ Re: Title景初二年 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 7月1日(日)17時35分44秒 ]
>> #確かに可能性はありましょう。
>> #「公孫氏に朝貢しようとして」と言うことは、
>> #「畿内は北部九州と違って中華冊封体制下になかった」と言うことになるんでしょうか。
公孫氏三代の間は東夷からの朝貢はなかったと書いてありますから、畿内、北部九州とも中華冊封体制下
にあった事はないでしょう。
邪馬台国が九州にあっても公孫氏の方と交易をしていたのだと思いますが。
魏は公孫淵を討つに当たって隠密裏に船で帯方の方に行き、帯方を落とし、大陸側からと挟みうち
にしたのではないでしょうか。
そこに邪馬台国の使節が何も知らずにやってきた。
なんてありそうな話です。
魏にとって公孫氏の為にはばまれていた東夷からの朝貢が、公孫氏が滅んで初めて邪馬台国が第一号
でやってきたので多いに喜んで不相応な歓待をした。
というのも肯けます。
>> #「奴国王」の時代から“金印国家群”の一員として中華冊封体制下の国王を授爵していて、
>> #半島情勢を熟知していた北部九州なら公孫氏と言う障害が無くなると同時に魏に遺使したでしょう。
>> #女王国内での政権安定と対狗奴国対策として、金印授爵が必要だった。
北部九州なら半島や中国情勢に対して、より敏感に反応し、かつ機敏な行動が可能だと思いますね。
元の発言 [ Re: 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月11日(水)13時49分49秒 ]
>>
そうなんです。時期として布留0式からだと思いますが、
箸墓とすれば、作るところを見ていることになるので
すでに、尾張は女王国の範囲になるのではないですか?
変と書いたのは、尾張から海を渡るのが伊勢湾とはちょっと考えにくいです。三重からならわかるけど。
また、90度ずれているとすると、海は琵琶湖か
敦賀湾になってしまいます。
瀬戸内を川と間違える可能性は、中国人ならありますが
琵琶湖を海とは言わないでしょう。
昔のことだからわかりませんが、現在中国人は淡水湖と
塩水湖は正確に文字で分けています。
越後に行くのに、海を渡るとは書かないのでは
ないでしょうか。
>> たとえば畿内が中心として、三重方面まで含むとします。
>> ところが、実はマキムクには尾張の物がかなり入っています。
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>> じゃ尾張までが女王国とすると、これは変です。
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>> またかなり尾張が重要な意味をもっていた場合、何で書かれて
>> いないのか?名前が違って書かれているのかもしれませんが
>> 遠絶とか書かれていて、ちょっと変。
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>> どうも情報が混乱しているのではないかと思ってしまうのだが。
>> よくわかりません。
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元の発言 [ Re: ???? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月11日(水)13時35分56秒 ]
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水の中では意外と木材の劣化は少なく、しかも皮の部分がはがし易くなるので、丸太の状態である程度水に浸けておいた可能性は有ります。
しかし、いずれ短期間で廃棄する建物を作る為に4,50年もの間水に浸けておく事はしないでしょう。
また、この勝山古墳からでた板材が周濠の水の中に捨てられて、しばらく浮いた状態でいれば紫外線の影響は受けます。
そして周濠が次第に干上がり木材が喫水の状況になるのが一番木を腐らせるのです。
橿原研の発表の印象では板材の状態はかなりよかったようですから、次第に干上がり木材が喫水の状況になることなしに埋まってしまったと考えるのが妥当です。
即ち、周濠が干上がり、50cm位土砂で埋まった後、捨てられ、その上に直ちに土がかけられて紫外線の影響を受けなかった、と言う形しか考えようが無いのです。
このような作業を本当にしたのか?したとすればどのような意味があるのか知りたいですね。
元の発言 [ Re: 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 7月11日(水)18時37分17秒 ]
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いわゆる尾張系土器というのは、猿投窯とか東山とか
であれば、三重県とは違うのではないでしょうか?
弥生時代の遺跡である朝日遺跡などから考えても
尾張の西と東でも、抗争があったようだし
まして木曽三川をまたいで、愛知県と三重県は文化的に
全然違うと思いますが。
今でも、愛知県(名古屋)はドラゴンズで、三重県は
タイガースファンが多い。尾張は名古屋弁で、もう四日市
では、関西なまりになります。
味の好みも、関ヶ原で変わります。
尾張まで邪馬台国は、ちょっときびしいのではないかな。
>>
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>> 変と書いたのは、尾張から海を渡るのが伊勢湾とはちょっと考えにくいです。三重からならわかるけど。
>>
>> また、90度ずれているとすると、海は琵琶湖か
>> 敦賀湾になってしまいます。
>>
>> 越後に行くのに、海を渡るとは書かないのでは
>> ないでしょうか。
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